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善意が、思考を止める日——IFRSという鏡に映ったもの

エレベーターで、かつてよく話した人と乗り合わせました。

同じ部署にいたわけではありません。でもあの頃、昼休みになると自然と顔を合わせていました。仕事のこと、組織のこと、「これはおかしいだろう」という感覚を、言葉にして渡し合える相手でした。

その人と久しぶりに二人きりになって、私は何を話したか。

梅雨ですね、と言いました。夏服になりましたね、と言いました。上着、持ってきましたか、と言いました。

相手は愛想よく笑いました。

私も笑いました。

エレベーターを降りた後、しばらく歩きながら、そのことをぼんやりと考えました。かつてあれほど話すことがありました。仕事の矛盾、組織の不条理、憤りに似た何か——そういうことを、あの人とは何時間でも話せました。

なのに今、口から出てきたのは梅雨と上着の話だけでした。

話すことが減ったわけではありません。ただ、それを声にする回路が、どこかで詰まっている気がしました。

そのとき、ある会議室のことを思い出しました。


IFRSとは何のために生まれたか


その会議室というのは、私が手掛ける事業の案件について、監査法人からヒアリングを受けた場でした。

うちの会社はIFRS——国際財務報告基準を適用している企業です。その基準のもとで、私が関わる投資案件が審査の俎上に載りました。
相手は監査法人の担当者。こちらは事業の責任者として同席していました。

そこで何が起きたのかを話す前に、IFRSというものの「目的」だけを、ここで簡単に押さえておきたいと思います。

IFRSは、一言で言えば「世界共通の会計ルール」です。国ごとにバラバラだった会計基準を統一し、どの国の投資家が読んでも企業の実態が正確にわかるようにする——そういう理念のもとで生まれました。
そしてもう一つ、重要な思想があります。細かいルールで縛るのではなく、原則だけを示して、判断は企業自身に委ねる、という設計です。「経営者を信頼する」という思想、と言い換えてもいいかもしれません。

IFRSの歴史や詳しい仕組みについては、この記事の巻末に解説をまとめました。会計に馴染みのない方は、先にそちらをご覧いただいてもいいかもしれません。

ここで伝えたいのは、その理念だけです。

透明性。比較可能性。そして経営者の判断力への信頼。

IFRSはその設計において、そういうものを目指していました。

少なくとも、最初は。


何が起きているか


あの会議室の話をします。

その場に憤りを感じていたのは、おそらく私だけでした。

会議室の向こうに座っていたのは監査法人の担当者でした。彼らは告げました——「この投資案件について、減損の兆候が認められます」と。

対象になっていたのは、小さな子会社への投資でした。
連結決算から見れば、誤差にも満たない支出。
設立してからまだ一年も経っていません。

思わず笑いそうになりました。笑えませんでしたが。

なぜ減損の兆候なのか。

IFRSでは、資産は「資金生成単位(CGU)」という単位で管理されます。どんなに小さくても、子会社という別法人を作ってしまえば、それは独立した一つのCGUとして登録されます。
設立から日が浅く、まだ赤字の段階にある——たしかに計画には達していない。
それだけで、監査法人の評価システムは「減損の兆候あり」と判定します。

グループ全体の規模から見れば、誤差にすら満たない支出です。
しかし子会社単体のB/S(貸借対照表)で切り出してしまえば、それはその小さな法人の「大赤字」になります。

担当者に悪意はありません。むしろ彼らは「仕事をした」のです。マニュアル通りに動き、リスクを指摘し、記録を残しました。金融庁の審査機関から「なぜ見落としたのか」と問われたとき、「指摘しました」と言えるエビデンスを積み上げました。

IFRSが「のれんの定期償却なし」という選択をしたのは、企業の実態をより正確に映すためでした。しかしその代償として、毎年の減損テストが義務付けられました。
割引率の算定、将来キャッシュ・フローの見積もり、膨大な専門的判断と作業工数。
決算実務と監査対応の難易度は、日本基準より格段に高くなります。

そしてその難易度の高さが、現場に別の構造を生んでいきます。

社内の財務部門も、同じ力学で動きます。「こういうことが起きないようにするには、最初から何もしないのが一番安全だ」という学習が、静かに、しかし確実に積み重なっていきます。

新規の投資案件を提案し、精緻な事業計画を作り、社内承認を取り、それでも一年後に「減損の兆候」を突きつけられ、その説明資料を作るために週単位の労働時間が消えます。
さらに言えば、説明資料を作ること自体が目的化していきます。
「なぜこれは減損しないのか」を証明するための文書が、分厚くなっていきます。本来なら事業の成長に使われるべき時間と知力が、「減損しないことの証明」のために費やされていきます。

そういう経験が繰り返されれば、次の提案をしようという気力は削られていきます。

その結果として起きることを、私は目の前で見ています。

少なくとも私の周囲では、先を見ようとする人ほど、静かになっていくように見えました。

考えないほうが、楽に生きられる。

そしてここに、IFRSが本来持っていた思想との、深い皮肉があります。

一つ、補足しておきたいことがあります。

ここで描いているのは「IFRSが悪い」という話ではありません。
また「監査法人が横暴だ」という話でもありません。

IFRSが適用されたことで、日本企業の財務報告の透明性は確かに高まりました。
国際的な比較可能性も向上しました。
その恩恵を受けている企業も、投資家も、確実に存在します。

問題は制度そのものではなく、制度が現場に着地するときの「変換の歪み」です。

原則主義として設計された基準が、日本の組織文化と交わったとき、原則への問いかけではなく、「指摘されないための証拠作り」として機能し始めます。
企業の判断力を信頼する思想が、「判断したこと自体がリスクになる」運用に変換されていきます。

その変換の過程で、何かが失われています。そしてその失われたものが、じわじわと、目に見えにくい形で、組織の体力を削っていきます。


理念と現実の距離


IFRSは「原則主義」でした。

細かいルールではなく、原則を示す。そしてその原則に基づいて、企業自身が判断する。「なぜそう判断したのか」を説明できる経営者であれ——そういう思想のはずでした。

ところが今、現場で起きていることは逆です。

「判断したこと」が、リスクになっています。

監査法人の要求は年々厳格化しています。
説明できない判断は、判断していないのと同じだと見なされかねません。
だから企業は防衛します。
説明しやすい判断を選びます。
ルールに沿った判断、責任が分散する判断、誰にも責められにくい判断——本当に優れた判断が持っているはずの「説明しにくい何か」を、あらかじめ削り落として、残った部分だけで決定を下します。

本当に優れた判断というのは、数字や事実を踏まえた上に、「現場の空気」「長年の経験値」「数字には出ない違和感」——そうした説明しにくいものが乗っています。
しかしそれは、説明責任の場では最も弱い。「根拠を示してください」と言われたとき、感覚は根拠になりません。だから削られます。
削られ続けます。

IFRSが「数値基準を持たない」のは、企業の判断力を信頼していたからです。
ところが皮肉なことに、数値基準がないからこそ、原則主義であるがゆえに、どこまでを「兆候」とみなすかには解釈の余地があります。
だから誤差にも満たない支出でも兆候になります。一年の未達が兆候になります。原則主義が持つ「解釈の余地」が、企業の側ではなく、チェックする側の刃になっています。

もう一つ、この構造を複雑にしていることがあります。

IFRSの監査を行う監査法人自体も、近年、外部からの厳しい目にさらされています。
不正会計や監査の失敗への批判が相次ぎ、金融庁の審査機関による監査品質の検査も強化されました。
その結果、監査法人の現場でも「指摘しなかったことへのリスク」が高まっています。

指摘する方向に判断を倒す方が、見逃した場合のリスクは小さい。

現場の担当者にとって、小さな子会社の数百万円の支出に「兆候あり」と指摘することは、「仕事をしました」という実績になります。
そういう力学が、連鎖しています。

誰の悪意もない、というのが最も厄介なところです。

監査法人の担当者は職務を全うしています。社内の財務部門は組織を守ろうとしています。経営陣は説明責任を意識しています。
全員が正しい動機で動いています。それでも、その全員の「正しい動機」が積み重なった先に、イノベーションの芽が静かに刈り取られていく現場があります。

透明性を守るための仕組みが、透明であるべき判断そのものを萎縮させています。

そしてもう一つ、問いが残ります。
イノベーションを起こせなくなった企業に、投資をしたいと思う投資家はいるでしょうか。投資家保護を目的としたはずの基準が、投資家が本当に求めるものを企業から奪っていく——


エレベーターに戻ります。

梅雨と上着の話をしながら笑った後、私はあの会議室のことを思い出したと書きました。でも正確には逆かもしれません。
会議室でのあの感覚が先にあって、エレベーターで笑った自分をより鮮明にした、という順序だったかもしれません。

あの会議室で、私は憤りを感じていました。

IFRSが何のために生まれたかを知っていたから、今起きていることへの憤りは、ちゃんとありました。
「兆候あり」と告げられたとき、「これはおかしい」という感覚は、確かにありました。

でも最後は、諦めに流れました。

説明資料の作成に取り掛かりながら、「ここで争っても仕方がない」と思いました。
それは正しい判断だったかもしれません。でも同時に、何かが少し削れた感覚もありました。

エレベーターで笑ったことと、会議室で諦めたことは、同じことだったかもしれないと今は思います。

感じながら、体が先に折れていました。

それが一度や二度ならいい。でも積み重なっていったとき、やがて感じること自体が、億劫になるのではないか。会議室に座っている人たちが、静かになっていくのはそういうことではないか。

そして私自身は——まだ、ちゃんと感じているか。

今日もこうして、余計なことを考えています。


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📋 巻末解説:IFRSとは何か
IFRSの誕生

IFRSの歴史は1973年まで遡ります。
この年、国際会計基準委員会(IASC)が設立されました。
背景にあったのは単純な問題意識でした。国ごとに会計基準が違いすぎる、と。
当時、企業が他国の証券市場に上場しようとすると、自国の会計基準による決算書と、上場先の国の基準による決算書を、それぞれ別に作らなければなりませんでした。
海外の投資家は、日本企業の決算書を読んでも、自国の基準と根本的に作り方が違うため、正確に評価することができません。
「この会社は本当に健全なのか」が、ルールの違いのせいで見えなくなってしまう。それを解決しようとしたのがIFRSの出発点です。

2001年、欧州連合(EU)が域内上場企業への適用を義務付けたことで、世界への普及が本格的に始まりました。日本でも2010年代以降、任意適用という形で上場企業への導入が進み、現在では250社を超える企業がIFRSを採用しています。

原則主義という設計思想
IFRSの最大の特徴は「原則主義(principle-based)」と呼ばれる考え方にあります。
日本の従来の会計基準は「細則主義(rule-based)」——「この場合はこう処理する」という細かい数値基準やルールをあらかじめ用意し、それに従えばいいという発想です。
一方IFRSは、原則・考え方のみを示し、具体的な判断は企業自身に委ねます。

細則主義には弱点があります。ルールが細かすぎると、その「抜け道」が生まれます。「議決権の50%超を保有していれば連結対象」というルールがあれば、49%に抑えることで連結を免れる操作が可能になります。2001年のエンロン事件は、まさにその典型でした。
だからIFRSは「ルールの字面ではなく、取引の経済的実態を見ろ」という立場を取っています。

のれんと減損テスト
本文に登場する「減損」について補足します。
企業がM&A(買収)を行うとき、買収価格が被買収企業の純資産を上回る差額を「のれん」と呼びます。
日本の会計基準では、こののれんを20年以内に毎期少しずつ償却します。
一方IFRSでは、のれんの定期償却は行いません。
代わりに、毎年「減損テスト」を実施して、そののれんの価値が損なわれていないかを検証することを義務付けています。

さらにIFRSでは、のれんだけでなく、すべての資産について「減損の兆候」がないかを毎期末に評価しなければなりません。
具体的な数値基準は示されていません。
「重要性がある場合」という原則的な記述にとどまり、何が兆候にあたるかの判断は、最終的に企業と監査法人の解釈に委ねられています。

この「解釈の余地」が、本文で描いた現場の構造を生んでいます。

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