時代の特等席で。交錯する世界史と自分史 #02【人物月旦シリーズスピンオフ】
こんにちは、Bell noteです。
前回の第1回では、1990年前後のロンドンを覆っていた「煤(すす)けた匂い」と、サッチャー政権末期の「熱気」について触れました。地下鉄火災の教訓から安全への意識が変わりゆく中、人頭税への怒りが爆発したトラファルガー広場。それは、現代のクリーンで最適化された世界とは対極にある、ザラザラとした「摩擦」に満ちた時代でした。
国境の壁と欧州のパラドックス
さて、今回はその続きです。物語の舞台は島国イギリスを飛び出し、激動の欧州大陸へと移ります。
私がイギリス滞在中に唯一敢行した「旅行らしい旅行」で直面したのは、依然として重々しく存在する物理的な「国境の壁」でした。
1989年11月9日、ベルリンの壁は崩壊しました。テレビのブラウン管越しに見た、ハンマーを振り下ろす若者たちの熱気と、抱き合う東西の人々の涙。世界中が「分断の終わり」と「境界線のない未来」の到来を信じ、冷戦の終結に熱狂していました。イギリスに滞在していた私もまた、新聞の一面を飾るその歴史的な写真を眺めながら、新しい時代の風が吹き始めたことを肌で感じていました。
しかし、その翌年である1990年。貧乏学生だった私が直面したのは、ニュース映像のような希望に満ちた開放感だけではありませんでした。
目の前に立っていたのは、まだ息をしている「国境」と、財布の厚みで測られる「格差」でした。

目的地はスウェーデン、ヨーテボリ。
ロンドンを発って海を越え、低地諸国を抜け、統一前夜のドイツを北上し、さらに海を渡る。片道約30時間。国境を縫うように進む長距離バスの旅でした。
現代のようにEU(欧州連合)としての統合が進み、シェンゲン圏でパスポートなしに国境を越えられる——そんな時代ではありませんでした。通貨も、法律も、そして「豊かさ」の基準も違う国々を、自分の身体ひとつで通過していく。それは、統合前夜のヨーロッパに残された「歴史の断層」を、空腹と疲労の中でなぞるような過酷な移動となりました。
世界史の現場にいたのは確かです。
ただしそこは、硬い座席で、冷たくて、あと味だけが妙に残る席でした。
【本連載について】
この物語は、1989年から1993年にかけて私が実際にイギリスで体験した記憶をベースに描かれています。当時の私は若く、目の前の生活に精一杯で、自分を取り巻く社会情勢を詳細に理解していたわけではありません。本稿に見られる歴史的記述は、当時の「肌感覚」を正確に伝えるため、現在の視点から調査・補強したものです。未熟だったあの頃の視点と、今の視点が交差する「再構成された旅の記録」としてお楽しみください。
第1章:ロンドンの影 —— 「同情」という通貨
旅の出発点は、ロンドン・ビクトリアコーチステーションでした。
1990年のこの場所は、単なる長距離バスの発着所というよりも、当時の英国社会の「澱(おり)」が溜まったような、独特の殺伐とした空気に包まれていました。
構内にはディーゼルエンジンの重い排気ガスと、当時まだ規制が緩かった紫煙が充満し、床には吸い殻と新聞紙が散乱していました。サッチャー政権末期のロンドンは荒れていて、駅周辺にはセーフティネットからこぼれ落ちた家出人やホームレスがあふれ、旅行者の姿と奇妙なコントラストを描いていました。
スウェーデン・ヨーテボリ行きのバスを待つ長い列に並んでいた私の前に、一人の小柄な若い女性が現れたのは、出発の30分ほど前だったと思います。彼女は列に並ぶ一人ひとりに声をかけ、無視されては次へと移動していました。そして私の目の前で足を止めると、堰を切ったように泣き出し、早口の英語でまくしたてました。
「お願い、助けて。財布を盗まれたの。アムステルダムの実家でおばあちゃんが危篤なの。今夜のバスに乗らないと、もう二度と会えないかもしれない。チケット代があと少し、どうしても足りないの……」
いま思えば、あれは「Sob Story(泣き落とし)」の類だったのだと思います。けれど当時の私はあまりに若く、そして無防備でした。周囲の大人たちが冷ややかな目で彼女を無視する中、私はその涙を疑うことができませんでした。「人の善意」すらも通貨として取引されるロンドンの現実を知らなかったのです。
私は震える手で財布を開け、なけなしの所持金から20ポンド紙幣を抜き出しました。当時の20ポンドは、貧乏旅行者にとっては数日分の食費に相当する大金です。
「これで足りる?」そう言って差し出すと、彼女は指先で紙幣の端をつまみ、私の手からひったくるように引き抜きました。
そして、涙で濡れた顔を一瞬だけ上げ、「ありがとう! アムステルダムに着いたら両親が迎えに来てるから、そこで絶対にお金を返すね。……バスの中で会いましょう」と言い残しました。

彼女はチケット売り場とは反対の方向へ走り去り、そのまま待機していた一台の車に飛び乗りました。
車はタイヤを軋ませて急発進し、排気ガスを残して夜の闇へと消えていきました。
追いかける足が、動かなかった。
あまりの展開の速さに、私は呆然と立ち尽くすしかありませんでした。
「あれ? チケットは? バスの中で会うって……」
「やられたな。でも、元気を出せよ」後ろに並んでいた家族連れの父親が、私の肩を叩きました。彼は苦笑しながら、「ロンドンじゃよくあることさ」と言い、私に一袋のスナックを差し出しました。「ほら、これでも食って落ち着け」
手渡されたのは、指先ほどに削られた人参――「ミニキャロット」の小袋でした。
あの頃の英国では、スーパーで手軽に買える“そのまま食べられるスナック”として見かけるようになっていました。
鮮やかなオレンジ色の、どこか作り物めいた可愛らしい人参をかじりながら、私は口の中に広がる甘みとともに、ロンドンの苦い現実を噛み締めました。このとき、私はまだ気づいていませんでした。この後、バスのトランクに食料が入った荷物を預けてしまい、目的地まで一切食料にありつけなくなるという致命的なミスを犯すことを。そして、見知らぬ家族から恵んでもらったこの小さな人参だけが、ドーバー海峡を越える長い飢餓の時間を救う、唯一の糧になるということを。
第2章:閉ざされたトランクと空腹のドーバー海峡
ロンドンの街明かりが車窓の後ろへと流れ去り、バスが高速道路に乗った頃、私はある致命的なミスに気づきました。冷や汗が背中を伝うのがわかりました。
食料が入ったメインのバックパックを、バスの車体下部にあるトランクルームに預けてしまったのです。
届く距離にあるのに、触れられない。いちばん残酷なやつでした。
日本の高速バスなら、休憩のたびに荷物を取り出せるかもしれません。しかし、これは国境を越える国際長距離バスです。盗難防止や保安上の理由からか、一度預けた荷物は最終目的地に着くまで、原則として一切取り出すことができませんでした。 手元にあるのは、パスポートと財布、そして先ほどの家族から恵んでもらった「ミニキャロット」が一袋だけ。財布にはまだ現金が残っていましたが、これから向かう北欧の物価の高さを考えると、おいそれと使うわけにはいきません。
「目的地まで、この人参だけで凌ぐしかないのか……」

バスは漆黒のケント州を走り抜け、ドーバー海峡を目指します。 1990年当時、英国と大陸の間には、現在よりもはるかに心理的・物理的に明確な「国境」が存在していました。ユーロトンネルが開通するのはまだ4年も先の話(1994年)です。バスはドーバー港でフェリーに乗り込みます。
フェリーのデッキに出ると、潮の香りと共に、重油の匂いが鼻を突きました。私は船内へ戻り、明るい売店の列を、ただ歩いて通り過ぎました。けれど、私の財布は軽いままでした。免税店(Duty Free)に群がる人々や、カフェテリアでフィッシュ・アンド・チップスを頬張る旅行者たちが、やけに眩しく見えました。
当時のフェリーは移動手段であると同時に、高い酒税やタバコ税から逃れるための「消費の解放区」でもありました。売店の熱だけが、私には遠かった。――空腹だけが、近かった。
しかし、予算の限られた私にとって、そこはただの空腹を刺激する拷問部屋のような場所でした。私はデッキのベンチに座り、冷たい海風に当たりながら、ポケットの底で薄いビニールがくしゃりと鳴るのを感じました。ミニキャロットを取り出し、「ポリッ、ポリッ」と硬い音を立ててかじりました。
ほのかな甘みが口の中に広がりましたが、それは空腹を満たすにはあまりに頼りないものでした。対岸に見えるフランスの灯りを見つめながら、私は先ほどのビクトリア駅での出来事を反芻していました。
「あの子は本当に困っていたんだろうか?」 「もしかしたら、本当にアムステルダムで両親が待っているんじゃないだろうか?」
人間不信になりたくないという若者特有の脆い心が、まだ私の中に残っていました。20ポンドという大金を失った痛みを、「人助けをした」という美談にすり替えることで癒そうとしていたのです。
フェリーが大陸側に着き、再びバスは走り出します。フランス、ベルギーと国境を越えるたびに、パスポートコントロールの簡易的なチェックがありました。シェンゲン協定が本格運用され、国境が「ただの通過点」になる前の時代です。制服を着た係官がバスの中を覗き込むたび、ピリッとした緊張感が走ります。
第3章:アムステルダムの幻影と「壁」の残像
ドーバー海峡を越え、夜明け前の平原をいくつも通過したバスは、最初の主要な経由地であるオランダ・アムステルダムのバスターミナルに到着しました。まだ薄暗い早朝、白い息を吐きながらバスを降りた私は、休憩時間が告げられるやいなや、ある行動に出ました。
私は血眼になってターミナルの雑踏の中を歩き回り、「誰か」を探し始めたのです。 誰を? ロンドンのビクトリア駅で泣いていた彼女が言っていた、「迎えに来ているはずの両親」を、です。
もし、彼女の話が本当だったら。 もし彼女が何らかの事情で別のバスに乗っていて、あるいは飛行機で先回りしていて、ここにご両親が待っていたら。「やっぱり嘘じゃなかったんだ」と信じたい。失った20ポンドを取り戻したいという欲求以上に、自分が「人の善意を利用された間抜けなカモ」ではないことを証明したい一心でした。私は、いるはずもない「親切な誰かの両親」の姿を求めて、冷たいコンクリートのプラットホームを端から端まで歩き回りました。

しかし、そこにいたのは、長旅に疲れた顔をしたバックパッカーたちと、早朝から獲物を品定めするような目をした怪しげな男たちだけでした。 1990年のアムステルダムは、自由な空気と同時に、欧州の麻薬流通のハブとしての危うい側面も持っていました。ビクトリア駅で感じたのと同じ、社会の周縁にいる人々の視線を感じました。
誰もいない。誰も私を探していないし、誰も私にお金を返しになど来ない。
私は冷たい柱に寄りかかり、ポケットに残っていたミニキャロットを一本、口に放り込みました。 「ポリッ」 乾いた音が頭蓋骨に響いたとき、自分の中で何かが確定しました。あれは詐欺だったのだ、と。国境を越え、海を越え、ここまで来てようやく、私は自分がただの「騙された旅行者」だという事実を飲み込みました。
精神的な敗北感に加え、物理的な空腹も限界に達していました。休憩時間中、私はバスの運転手に「トランクの荷物を取り出したい」と懇願しました。私のメインのバックパックには、この貧乏旅行を乗り切るためのパンや缶詰といった食料が詰め込まれていたからです。 しかし、運転手は無情にも首を横に振りました。 「ダメだ。最終目的地まで開けない。ルールだ」
目の前のトランクルームには私の食料があるのに、鉄の扉に阻まれて手が出せない。手元にあるのは、残り少なくなったミニキャロットだけ。私は空腹と絶望を抱えたまま、再びバスの座席に戻るしかありませんでした。

バスはアムステルダムを出て、ドイツを北上し、ハンブルクを抜けていきました。車窓の景色には、統一へ向かう熱と、まだ片づかない混乱が、同じ温度で混ざって見えました。
アウトバーンを走る車窓からは、西側の最新鋭の車に混じって、旧東ドイツ製のトラバントが頼りなげに走る姿が見えました。ハンブルク周辺の道路は、東から西へ、あるいは北へと流れる人々の移動で混雑し、至る所で工事が行われていました。「壁」は物理的には崩れましたが、経済格差やインフラの断絶という「見えない壁」は、車窓の風景からもはっきりと感じ取ることができました。
私たちの『アムステルダム発』は、単なる移動ではありませんでした。
「ロッテルダム・ルート」と呼ばれる麻薬流通経路の影が重なるだけで、このバスは“疑われやすい箱”になってしまう——そんな時代の空気を、私は後から理解しました。
私の空腹と疲労などお構いなしに、バスは、壁崩壊の混乱と警戒心が入り混じる北ドイツの平原を、スカンジナビアに向けて疾走していきました。
第4章:国境の倉庫と裸の検問
アムステルダムを出てしばらくして、バスは北へ向かう流れに飲み込まれていきました。
ハンブルクを過ぎたあたりから、胃の中は完全に空っぽでした。床下のトランクにはパンも缶詰も眠っているのに、私はその扉に触れることすらできない。「届く距離」がいちばん残酷でした。
深夜、バスはデンマーク国境、あるいはその手前のプットガルテンあたりだったはずです。眠気と寒さで、地名だけが曖昧でした。突然、正規のルートを外れ、照明に照らされた巨大な倉庫のような場所へと誘導されました。 「全員、荷物を持って降りろ!」 ドイツ語と英語の荒々しい指示が飛び交い、私たちは眠い目をこすりながらバスを降ろされました。そこは、シェンゲン協定(1995年本格運用)がまだ未来の話であった時代の、国家権威がむき出しになった国境検問所でした。
私たちのバスは「アムステルダム発」。そのラベルだけで、こちらに向けられる視線の温度が変わるのがわかりました。
倉庫の中はコンクリート打ちっ放しで、冷え切っていました。税関職員たちは無表情で、私たちを一列に並ばせました。 「荷物を全部開けろ」 指示に従い、私はバックパックの中身をすべて床の長机の上にぶちまけました。食料、着替え、本、洗面用具。私の貧しい生活のすべてが、冷たい蛍光灯の下に晒されました。 その時、ようやく目の前に現れた自分の食料——潰れたパンや缶詰——を目にしたときの感情は、喜びではなく、ただの虚しさでした。今ここでパンにかじりつくわけにはいきません。

検査はそれだけでは終わりませんでした。 「お前、こっちに来い」 私は別室に連れて行かれました。そこで行われたのは、屈辱的な身体検査でした。服を脱ぐことを強要され、下着の中までチェックを受ける。私は麻薬など持っていません。けれど彼らの目には、アジアから来た怪しげな貧乏旅行者にしか映らなかったのでしょう。
「壁」が崩壊し、政治的には「雪解け」ムードにあった1990年の欧州。
しかし、現場レベルでの「監視の目」はむしろ鋭さを増していました。冷戦は終わっても、国家が個人を管理し、選別するシステムは、まだ微塵も解かれていなかったのです。
寒かったのは、倉庫の空気より、こちらの扱われ方でした。
すべてが終わり、再びバスに戻ることを許された時、私は心身ともに消耗しきっていました。結局、検査の混乱で食料を口にするタイミングすら逃してしまいました。 バスは再び闇の中を走り出します。フェリーに乗り込み、バルト海を渡れば、そこはスウェーデン。 「あそこまで行けば、きっと友人が待っている。温かい食事が待っている」 そう自分に言い聞かせることだけが、私を支えていました。しかし、その先に待っていたのは、安息ではなく、また別の種類の、あまりにも高い「壁」だったのです。
第5章:北欧のパラドックス —— 2000円のビッグマック
心身ともに摩耗しきった状態で、バスはドイツのキール港からフェリーに乗り込み、バルト海を渡りました。 船内で泥のように眠り、目が覚めると、窓の外にはスカンジナビア半島の冷たく澄んだ空気が広がっていました。ヨーテボリ。ついに目的地に到着したのです。
フェリーターミナルに降り立つと、そこには懐かしい顔がありました。オーストラリアで苦楽を共にした友人、トビーです。彼と、彼のパートナーであるスウェーデン人の彼女が、笑顔で手を振って迎えてくれました。 「よく来たな!」 トビーと抱き合った瞬間、張り詰めていた緊張の糸がプツリと切れました。ビクトリア駅での詐欺、閉ざされたトランクの飢餓、深夜の屈辱的な身体検査——それらすべての「壁」を乗り越え、ようやく私は「味方」のいる場所にたどり着いたのです。
再会の喜びも束の間、私の体は限界を超えた空腹を訴えていました。 「とにかく何か食べたい」 そう訴える私を、彼らは街の中心部へと連れ出してくれました。ところが、そこで私を待ち受けていたのは、安息ではなく、また別の種類の、あまりにも高く冷酷な「壁」でした。
手っ取り早く腹を満たそうと入ったマクドナルドで、私はメニューボードを見上げて凍りつきました。 「ビッグマックのセットが……日本円で約2000円?」
日本の感覚で見れば、冗談みたいな値札でした。計算を何度やり直しても、値札は変わりませんでした。ここでは、ハンバーガーが“軽食”ではなく、ひとつの決断になりました。
財布の中には、詐欺の被害を免れたわずかなポンドと、両替したばかりのなけなしのクローナしかありません。ハンバーガーひとつにこの金額を払えば、帰りの旅費が消えてしまう。空腹と金欠の狭間で青ざめる私を見て、トビーは平然と言いました。 「ああ、心配しなくていいよ。僕たちはこれで払うから」
彼がポケットから取り出したのは、小切手帳のような冊子でした。そこからミシン目に沿って数枚の紙片を切り離し、カウンターの店員に渡しました。店員は何の疑問も持たず、それを現金の代わりに受け取りました。 「それは何?」と私が尋ねると、彼は事もなげに答えました。 「リクスクーポン(Rikskuponger)だよ。
会社から支給される食事券さ。これを使えば、税金もかからないし、実質半額以下で食べられるんだ」

それは、1970年代からスウェーデンに導入されていた、企業が従業員に提供する非課税の食事補助システムでした。高福祉・高負担のこの国において、正規の雇用システムに組み込まれている「内部(インサイダー)」の人間は、こうした「第二の通貨」によって高い物価から守られていたのです。
私はその時、透明なガラスのような壁を感じました。 旅行者という「外部(アウトサイダー)」の人間には、2000円という絶望的な「値札の壁」が立ちはだかる。一方で、社会システムに守られた「内部」の人間は、魔法の紙切れでその壁を軽々と無効化してしまう。 国境の検問所で見せつけられたのが「国家権威による物理的な壁」だったとすれば、ここで直面したのは「福祉国家のパラドックス」という、より洗練された見えない壁でした。
トビーが奢ってくれたビッグマックを頬張りながら、私は複雑な味を噛み締めました。ソースの味は世界中どこでも同じはずなのに、そこに至るまでの「コスト」は、立っている場所によって残酷なまでに異なっていたのです。
エピローグ:摩擦が物語に変わる時
ビクトリア駅でなけなしの金を騙し取られ、トランクに食料を閉じ込められたままドーバー海峡を越え、アムステルダムで人の善意の幻影を追い、国境の倉庫で服を脱がされ、最後はハンバーガーひとつ買うのに冷や汗をかいたこの旅。 それは決して、現代の基準で言う「快適な旅」ではありませんでした。いまなら回避できる不便が、当時はそのまま“現場”として襲ってきました。逃げ道はなく、全部、自分の身体で受け止めるしかありませんでした。
しかし、ロンドンに戻った私が最初に感じたのは、疲労感ではなく、奇妙な高揚感でした。 私はこの散々な体験を、映画サークルの仲間たちに熱っぽく語っていました。そして、その悔しさと理不尽さは、のちに一本のショートフィルムの脚本へと昇華されたのです。それは、ロンドンで夢破れた青年と、彼を騙した女詐欺師が、数年後に再会し、互いの罪と孤独を許し合う物語でした。
それはまたいつかのnoteで書いてみたいと思っています。
スムーズで摩擦のない移動は快適ですが、記憶には残りません。 1990年という、国境がまだ物理的にも心理的にも重く存在していた時代。私がぶつかった数々の「壁」や、理不尽な目に遭った時のザラザラとした「摩擦」。その抵抗に身を削ったからこそ、その経験は消費されるだけの観光ではなく、鮮明な「物語」として自分史に深く刻まれたのだと思います。
世界が統合へと向かい、壁が消えていくその直前のヨーロッパで、私は確かに時代の「断層」をこの肌で感じていました。
1993年、私はロンドンを去り日本へ帰国しました。 しかし、そもそもなぜ私が、この激動の時代、欧州に身を置くことになったのでしょうか。その答えを探すには、時計の針を少し巻き戻さなければなりません。
そこは、私がロンドンに渡るきっかけとなった場所。1997年の中国返還が10年を切り、イギリスと中国、資本主義と共産主義の狭間で揺れ動いていたカオスの街、香港です。 あの場所で手にした一枚のチケットがなければ、私のロンドン生活は始まっていませんでした。
次回、「激動の世界史と交錯する私の青春記 #02:カオスと熱気の香港」。 混沌と熱気が渦巻く都市、香港。そして、世界中のパイロットと乗客に「香港カーブ(カイタック・ハートアタック)」として恐れられ、愛された伝説の場所についてお話しします。 高層アパートの住人が夕食をとるのが見えるほどの距離で、ビル群すれすれをジャンボジェットが旋回して降りていく——。今はもう存在しない、あの「啓徳(カイタック)空港」の記憶へ、皆さんをお連れします。

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