缶ジュース2本分の時給だった頃のはなし『ようこそ!FACTへ』を読んで、昔の自分を思い出した
漫画『ようこそ!FACT(東京S区第二支部)へ』を読み終えたあと、しばらく妙な居心地の悪さが残りました。
【作品紹介】
『ようこそ!FACT(東京S区第二支部)へ』は、『チ。』の魚豊が現代日本を舞台に描いた、前代未聞の「ラブコメ×陰謀論」ストーリーです。主人公は「人生が始まっている気がしない」と鬱屈を抱える19歳の非正規労働者・渡辺。彼は日々の単調な労働と孤独から抜け出すため自己啓発セミナーに通う中、ある女性への淡い恋心をきっかけに、世界の裏側を暴くという「陰謀論」のコミュニティへと足を踏み入れていきます。本作は、社会的な弱さや「特別な存在でありたい」という承認欲求、そして持ち前の「論理的思考(考察力)」が、タイミング一つでいかに盲信へと反転してしまうかをリアルに描写。虚実が入り混じる現代社会において「何を信じ、どう生きるか」を読者に鋭く問いかけます。痛々しくも他人事とは思えない、サスペンスフルな人間ドラマが凝縮された一冊です。
陰謀論を扱った作品だから——ではありません。
むしろ苦しかったのは、主人公の渡辺くんが、どこか昔の自分に似て見えたからです。
「自分は、このままで終わる人間じゃないはずだ」
その感覚。
まだ何者でもないのに、自分の内側にだけは、妙な確信がある。
根拠はない。けれど、なぜか「自分は特別な側に行ける」と思っている。
渡辺くんを見ながら、私は昔の自分のことを思い出していました。
若い頃、しばらく放浪していた時期がありました。
普通の就職ルートから外れて、海外をふらふらして、知らない街を歩いて、いろんな人間に会った。
その頃の私は、そういう経験そのものが、自分を特別にしてくれると思っていました。
「普通の人間とは違う景色を見てきた」
その感覚が、いつか自分の価値になる気がしていたのです。
当時の生活は、決して豊かではありませんでした。放浪といえば聞こえはいいですが、実際には食いつなぐためのアルバイトもしていました。
給料日だったのか、休日だったのか、細かいことはもう覚えていません。
ただ、スーパーで買物をしている時、値札を眺めながら、
「ああ、自分の時給って、缶ジュース2本分くらいなんだな」
と、ぼんやり考えた瞬間だけは、妙にはっきり覚えています。
誰かに否定されたわけではありません。
怒鳴られたわけでもない。
ただ、数字だけがそこにあった。
市場が、いまの自分に提示している値段。
それを、急に現実として突きつけられた気がしました。
その瞬間、「自分は特別な存在のはずだ」という感覚は、何ひとつ自分を支えてくれませんでした。
放浪したことも、珍しい景色を見たことも、「他の人とは違う人生を送っている」という感覚も、その場では特別な価値にならなかった。
世界は、内面の物語に対価を払わない。
できることにしか、値段がつかない。
頭では理解していたつもりでした。
でも、本当の意味では、まだ何もわかっていなかったのだと思います。
『FACT』の渡辺くんも、たぶん同じだったのだと思います。
彼が求めていたのは、「真実」ではない。
「自分は、その他大勢ではない」と感じられる場所だった。
陰謀論の怖さは、情報の正しさだけの問題ではありません。
複雑で、息苦しくて、答えの見えない現実を、ひとつの物語として説明してくれる。
しかもその物語は、
「自分は騙されていない側にいる」
という感覚まで与えてくれる。
それは、とても居心地がいい。
なぜなら、人は「自分が何者かである」と確認したい生き物だからです。
だから私は、この漫画を他人事として読めませんでした。
渡辺くんがコミュニティに惹かれていく姿と、
若い頃の自分が
「自分には特別な視点があるはずだ」
という感覚にしがみついていた姿が、どこか重なって見えたからです。
放浪を終えて帰国したあと、私は映像の仕事に憧れていた時期がありました。
映画や映像表現に強く惹かれていた。
でも、「好き」であることと、「できる」ことの間には、途方もない距離があります。
当時の私は、その距離を直視しきれていませんでした。
どこかで、「自分には特別な感性がある」と思っていた。
いや、思いたかったのだと思います。
そんな頃、ある映像監督と話す機会がありました。
詳しい話は、以前の人物月旦の記事にも書きました。
私はその人から、もっと大きな言葉を聞けると思っていました。
「君には才能がある」とか、
「夢を追い続けろ」とか。
そういう、若い人間が欲しがる言葉です。
でも、その監督は違いました。
映像論を語るでもなく、情熱を煽るでもなく、ただ静かに言いました。
「まず、何か一つ、技術を身につけなさい」
カメラでもいい。
照明でもいい。
編集でもいい。
メイクでもいい。
何でもいいから、まず一つ、自分の手でできることを持ちなさい。
そういう話ばかりしていました。
正直、最初は拍子抜けしました。
少し腹が立った部分もあったかもしれません。
もっと夢のある話を期待していたからです。
でも今になると、あの言葉の意味が少しわかる気がします。
その後、ある映画のメイキング映像を観る機会がありました。
画面の中では、現実には存在しない巨大な世界が広がっていました。
圧倒されるような映像でした。
でも、メイキングで映っていた現場は、まるで違いました。
暗い部屋で、スタッフたちが何度も同じ映像を止めている。
「光、もう少し右」
「影が浅い」
「合成ズレてる」
そんな会話を延々と繰り返していました。
誰かが魔法みたいな発想を叫ぶわけでもない。
天才が突然ひらめくわけでもない。
ただ、地味な調整と、膨大な検証が続いていた。
私は少し衝撃を受けました。
映画の魔法は、もっと華やかな場所で作られていると思っていたからです。
でも実際には、あの壮大な映像は、泥臭い作業の積み重ねでできていた。
その時、初めて少しわかった気がしました。
夢を見ることと、技術を身につけることは、別の話ではない。
むしろ、自分の手で何かを作れるようになって初めて、夢は現実の言葉になる。
「自分には特別な視点がある」
それだけでは、誰にも届かない。
でも、技術があれば、その視点を形にして、外の世界に差し出すことができる。
あの監督が言っていたのは、きっとそういうことだったのだと思います。
今、私がnoteを書き続けている理由も、たぶんそこにあります。
「非日常のキリトリ線」。
これが、このnoteのコンセプトです。
日常の中に埋もれてしまうものを、自分の言葉で切り取って残す。
それは、「自分は特別だ」と証明するためではありません。
誰かに認められるためでもない。ただ、
「これは確かに、ここにあった」
と、自分の言葉で記録するためです。
地味な作業です。
すぐに何かになるわけでもない。
でも、自分の手で積み上げたものだけは、あとになっても静かに残り続ける。
『FACT』を読んで、私はそのことを改めて考えていました。
人は誰でも、「何者かになりたい」という飢えを持っています。
認められたい。
特別でありたい。
自分には価値があると思いたい。
その感情自体は、たぶん悪いものではありません。
怖いのは、その飢えを埋めてくれる「心地よい物語」に、自分を預け始めることなのだと思います。
かつての私は、「自分には特別な視点がある」という物語の中に逃げ込んでいました。
完全に「特別でありたい病」から抜け出せたかと言われると、今でもよくわかりません。
そういう感覚は、今も時々顔を出します。
そのたびに、缶ジュース2本分だった頃の時給を思い出します。
世界は、思っていたより静かです。
「自分は特別だ」という感覚だけでは、何も返ってこない。
でも、自分の手で積み上げたものには、少し遅れてでも、ちゃんと返事が返ってくる。
たぶん私は、その感触を忘れないために、今日も地味に書き続けているのだと思います。
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