思考停止、開始!
一
管理部からの通達が届いたのは、夕方の五時過ぎでした。
台風が接近、明日、東京を直撃する見込みだという。
「明日、在宅勤務を活用することを推奨します。やむを得ず出勤する場合は、必ず上長の許可を取ってから出社してください」
私はその文面を、二度読みました。
一度目は情報として。二度目は、胸の奥に小さな違和感を覚えながら。
台風は当然、昔からありました。
私が社会人になった頃も、毎年のように来ていました。
交通機関が止まることも、傘が裏返ることも、びしょ濡れで出社することも、ただの日常でした。それでも、こんな丁寧な通達は出されなかった。
だから、何かが変わったのだということはわかります。
ただ何がどう変わったのか——
そして、なぜ私は、この一通の通達に、なんとも言えない居心地の悪さを感じるのか。
二
まず、この通達が何を動かすのかを、少し分解して考えてみました。
管理部の側に立ってみます。
「社員の安全を守りたい」という思いは、もちろん本物のはずです。
ただ、同時にその背景には、別の計算も静かに息づいているように見えます。
今の時代、もし通達(注意喚起)を出さずに、誰かが通勤途中で怪我でもしたら。
「なぜ会社は何も言わなかったのか」という声が上がり、どこかで拡散され、空気が動き、誰かが、決して小さくもない責任を問われる——そういう未来を、先回りして潰しておきたい。
そこには、善意と、防衛の意思が、ほとんど区別できない形で混ざり合っている。
そして、「出勤する場合は上長の許可を取ること」という一文。
これはもちろん、安全のための手続きです。しかし同時に、責任の所在を静かに分散させる装置にもなっています。
管理部は通達を出した。上長が判断する。社員は従う。
このリレーの中で、「最終的に誰が決めたのか」が、どこか曖昧なまま保たれます。
上長の立場で考えると、思考上の計算は自動的にこう動きます。
在宅を推奨しておけば、自分の判断によるリスクは減る。
部下が出勤して、もしも何かあれば、「なぜ許可を出したのか」と問われるリスクが増える。
故に、おいそれとは許可をだせない心理が働きます。
結果として、「在宅でいいよ」という言葉は、部下を思う優しさと同時に、自分を守るための合理的な選択として機能しやすくなるのです。
そして社員はどうなるか。
本来なら、自分で考えるはずでした。
自分の住む場所、台風の進路、担当業務の性質、交通状況——それらを総合して、
「今日は出勤する」
「今日は在宅にする」とまずは、一次判断をする。
しかし通達が出た瞬間、その判断の大部分を外に委ねることになります。
会社が推奨している。
上長が了承してくれる。
そして、部下の方にも上長と同様の心理が働きます。
出勤を申し出て、「あえて出勤する」ための説明を求められる。
ならば、それに最初から従っておけばいい。
判断が、外に預けられます。
三
ここで、ひとつの皮肉に気づきました。
この通達は、社員の安全を守るために出されました。
少なくとも、そのつもりだったはずです。
しかし結果として起きているのは、社員が自分で判断する機会が、また一つ減った、ということです。
「思考停止、開始!」だ…
思わずそう呟きたくなりました。
誰も意図的にそうしたいわけではない——そう言い訳したくもなります。
善意で作られた仕組みが、意図とはすこし違う結果を生む。よくある話です。
誰かのリスクを減らすためのルールが、現場の判断力を少しずつ削いでいく気がします。
責任を明確にするための承認プロセスが、誰も最終責任を持ちたがらない空気を育てていく気がします。
失敗を防ぐための手続きが、失敗から学ぶ回路を静かに閉じていく気がします。
そして組織は、また新しいルールを作る。
判断の外部委託が、さらなる外部委託を呼ぶ。
誰も悪意を持っていない。それでも仕組みは、静かに自分自身を慣れさせていく。
この循環は、判断力の静かな摩耗のように思えます。
四
ただし、制御すること自体が悪いわけではありません。
台風のときに会社が何も言わないのも、それはそれでおかしい。
情報を共有し、安全に配慮し、選択肢を提示することは、組織として当然の機能です。
問題は、制御の「質」にあるように思います。
私はこれを、大きく分けて二つあると感じています。
ひとつは、現場の機能を損なわない制御。
最低限の安全確保、再現性の担保。これは組織が健全に回るために必要です。
もうひとつは、判断そのものを代替してしまう制御。
本来、個人や現場が考えるべきことを、ルールやプロセスで置き換えてしまうもの。
厄介なのは、この二つが外見上、ほとんど区別がつかないことです。
台風の通達ひとつ取っても、書き方次第で全く違う性質になります。
「各自の状況に応じて判断してください。迷ったら上長に相談を」
これは判断を促す制御です。しかし…
「推奨として在宅を活用し、出勤は上長の許可を」
これは判断を代替する制御です。
文字数はほとんど同じ。
しかし、受け取る側の脳に起きることは、まるで違います。
前者は考えることを要求します。
後者は、考えないことを——いや、正確には「考えなくてもいい」と意図せず奨励しています。考えるとリスクを引き受けることになるからです。
五
なぜ今、これが以前より目立つようになったのか。
失敗そのものより、失敗後の説明責任の方が重くのしかかる時代になったからではないか——というのが、私の感覚です。
「なぜそう判断したのか、説明できますか」という問いの重さが、以前より増しました。
ところが、本当に優れた判断というのは、目に見える数字や事実は当然に踏まえるとして、そこにプラス、説明しにくいものを加えた判断です。
「現場の空気」
「長年の経験値」
「数字や事実には出ない違和感」
——そうした感覚的なものは、得てして合理的に説明しづらいものです。
結果として、説明しやすい判断が優先される。ルールに従った判断、責任が分散される判断、誰にも責められにくい判断。
つまり、判断の外部委託に最も近い選択が、最も「安全」な選択に見えてしまう。
健全さを担保するために説明責任を強化しようとしたはずが、説明しやすい判断に慣れることで、深く考えない思考様式を育ててしまう。
これもまた、意図と結果がすれ違う、静かな皮肉です。
六
当然、私自身もこの構造の外にはいません。
説明しやすい判断に逃げたくなることもある。
前例に従っておけば楽だと感じることもある。
誰かに判断を委ねて、責任から距離を置きたくなる衝動だって、ないとは言えません。
人間は判断することに疲れやすい生き物です。消耗するし、責任が伴うし、外れたときの後悔も残る。
だからこそ、判断を誰かに委ねられる仕組みがあれば、自然と頼りたくなる。
問題は、その「自然な反応」が組織全体の空気になったとき、何が起きるかです。
台風の通達ひとつで、劇的に何かが変わることはありません。
しかしこういったことが、毎週、毎月、毎年積み重なっていきます。
「考えないほうがマシだ」という経験が、静かに、しかし確実に蓄積されていく。
そしてある日、本当に重大な判断を迫られる場面が来たとき——組織は、その判断する筋肉を、すでに失っていることに気づくかもしれません。
いや、気づかないかもしれません。それが一番怖いところです。
七
「でも、社員を守る制度は必要でしょう」と言われることがあります。
もちろん必要です。精神論で無理をさせる時代には戻りたくありません。
だからこそ、この問題は厄介なのです。
良かれと思って積み重ねたものが、じわじわと判断力を侵食していく。しかもその侵食は、生産性指標にも、満足度アンケートにも、なかなか表れません。
ただ、提案を出すときの微妙な躊躇とか、「誰かが決めてくれるのを待つ」という空気とか——そうしたものとして、静かに、しかし確実に蓄積されていく。
私があの通達を読んで感じた居心地の悪さは、おそらくそのあたりにあったのだと思います。
台風への対応ではなく、通達が象徴する「思考の停滞」そのものへの、静かな違和感。
考えることは、確かに消耗します。
それでも私は、今日もこうして余計なことを考え続けています。
習慣なのか、性分なのか、ただの職業病なのか…
台風は、明日中には通り過ぎるだけなのに。
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