雑記2023/5/25 「絶対音感について」
・私は絶対音感を保持していない凡人だと自認しているが、絶対音感を保持している人と似たようなタスクをクリアできる。それを指摘しながら、絶対音感という曖昧な語を少し丁寧に捉え直したい。
・絶対音感というのは綺麗な音が鳴ればその音名を言い当てられる能力。相対音感というのは基準音を与えられれば他の音についても相対位置を把握して音名を言い当てられる能力。そんな説明が一般的だ。
・ただ、相対音感だけあれば少しの工夫で、ヒントなしに音名を言い当てられたりする。私の場合は身体感覚を使っている。
・「ド(C3)」を発声した時の喉への力の入れ方や、咽頭や鼻腔に響く感覚を覚えているので、いつでも再現できる。だからそこを参照すれば道具なしにどんな音名もわかる。サイレンの音とか金属音とかも音名として概ねわかる。概ねというのは音名の違いにならない細かいピッチの差は再現できないという感じ。
・これと似たようなことをやっている人は結構いると思う。
・「ド」を再現した後、他の音名を当てるために「ドレミファ……」と毎回唱える必要があるかというとそういうわけではない。一度「ド」の表象を脳内に得ると、言わば”アクティベート”状態になって大体の単音は即答できるようになる。
・結局、Cの長音階なら準備動作を含めて3秒以内には答えられてしまう。調号がつくとちょっと不安定だけど、それは慣れの問題だと思っている。
・こうなると、なんとなく使っていた絶対音感という言葉、これが何に特徴づけられるのか考える必要が生まれる。訓練で準備動作を0.5秒で済ませられるようになったら、全ての音に音名がついて聞こえる人と見分けがつかないからだ。
・では、見分けがつかないことを受け入れたうえで、絶対音感を「音高のそれぞれを長期記憶のボキャブラリーとして保持している人」として定義しよう。この定義にはそれなりの強度がありそうだ。
・理想的にアクティベートされた状態の私は絶対音感の人と変わらない。音名当てクイズを何問も続けていると、音が音名として聞こえる感覚に辿り着く。
・ただし、その状態があくまでその場限りの短期記憶に止まることは大きな違いだ。絶対音感の人は音(またそれを聞いた時の内的印象)に音名を結びつける学習を続けてとっくに長期記憶になっていることで特徴づけられる。
・もう一つ指摘したい。
・私は最近、音名当ての実験ばかりやっていたせいか、声に出さなくても「ド」を脳内に表象することができるようになってきている気がする。「ド」を出すつもりで喉に力を入れて息は出さないということをすると、その予備動作だけでアクティベート状態になるのだ。不意打ちで答えるのと予備動作だけして答えるので比べると、音名当ての精度が大いに変わる。
・アクティベートが聴覚刺激に依らなくても起こる。これは典型的な条件付けと解釈すべきだと感じる。ベルの音を聞いただけでよだれを垂らすのと同じ。決まった方法で喉に力を入れるだけで、「ド」の聴覚刺激を受けた時の内的印象が再現される。
・この条件付けはある意味、予備動作と「ド」を聴いた感覚を結びつける「長期の記憶」ではある。ならば、先の定義で指す「長期記憶」と同一のものと言っていいのか?それはきっと違うだろう。
・私が身体感覚を生かして得つつある結びつきは、原始的な連合学習に近いもので、刺激と刺激の結びつきにすぎない。対して絶対音感のある人が保持する結びつきは、「ド」という表象と「ド」を聴いた感覚を結びつけるもので、概念と刺激の結びつきなのであろう。脳部位とかいうとアレだけど関わる脳部位も違うはずだ。
・その違いを表現するためにも定義には、言語的表象との結びつきであるという言及が必要かもしれない。「音高の内的印象それぞれを言語的表象と結びつけた長期記憶として保持している人」なんてどうだろうか。
・私は曲を聴いても音名なんて聞こえないし、耳コピにもめちゃくちゃ手間取る。あくまで音を相対的にしか捉えていない自分は絶対音感ではない。
・そう思うほど、絶対音感という概念には絶対性があると信じている。グラデーションは当然あるけど、感じているものが自分とはまるで違う人々がきちんと存在するだろう。だからこそ、その人々を特徴づける手続きに興味を持ち、定義に疑いを立ててみた。
・最後の余談だけど、自分の身体を開発する感じってかなり楽しい。スポーツをずっと嫌いでいるせいでこれが新鮮なんだろう。
