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競馬の国のことば。〜古井由吉「こんな日もある 競馬徒然草」を読んだ。

自分のnoteの中で最長文字数の記事。
少し編集してみました。

2023年1月24日




競馬エッセイ「こんな日もある 競馬徒然草」など。


小説家・古井由吉氏の競馬エッセイ「こんな日もある 競馬徒然草」を読んだ。

競馬月刊紙『優駿』の1986年4月号から2019年2月号までのあいだに発表されたエッセイを収録したもの。

同じく『優駿』に、「馬事公苑前便り」というタイトルで1985年4月号から1986年3月号まで一年間連載されたエッセイを収録した「折々の馬たち」という本もある。


「折々の馬たち」の方は、数年前に古本で買い、「こんな日もある」の方は、今年出版されたものを数ヶ月前に買い求めていた。

「こんな日」の方の感想文を書こうと思ったが、読んでいるうちに「折々の」の方も取り出して読み返し、しまいには本棚の奥に眠っていた芥川賞受賞作「杳子ようこ」まで引っ張り出していた。


競馬に手を染める。


「こんな日もある」の巻末に、古井由吉・年譜がまとめられており、1937年に生まれ、1967年に「夏、競馬に手を染める。」と書かれている。

手を染めるというと、悪いことを始める、というイメージがあるけど、少し調べてみると、もともとは単純に何かをし始める、というニュートラルな意味合いだったようで、年譜にこう書かれているのも、特別意味はないのかもしれない。

ただ、「折々の」の方には、母親を亡くし、お骨を霊園に納めた帰りの車上で、ラジオから流れる秋の天皇賞の予想分析に耳を傾けた話を書き、「親不孝者が、そろそろ競馬というものに触手を伸ばしかけていたというだけのことかもしれない」とも書いている。

やはり少し、うしろめたいところがあるのかもしれない。

競馬のエッセイというと、書き手が競馬と関わりを持ち始めた時の話、「手を染めた」ころの話、いわゆるビギナーズラックがあったかどうか、その辺の話が多い。

古井氏の場合、夏の福島でカブトシローを買って、その馬券は外したという。

そして同じ年の秋から冬にかけて、そのカブトシローが天皇賞と有馬記念に勝ったものの馬券は買っておらず、「どうやら競馬に乗りぞこねた」と書いている。

この感覚は、とてもよくわかる。

自分の競馬歴でいうと、1992年の秋の天皇賞で、友人の競馬新聞を見てレッツゴーターキンが気になった。しかし、馬券には手を出さなかった。

そしてそのあと、レッツゴーターキンが勝ったことを知り、「おお、勝ったのか!?」と思ったものの、心持ちとしてはごく淡白なものだった。

もしもの話だけど、レッツゴーターキンの単勝でも買って大儲けしていたら、そのまま競馬にのめり込んでいたかもしれない、と思う。


競馬と、つかずはなれず、いつしかべったり。


古井氏は1967年に初めて馬券を買ったものの、そこからすぐにべったり、とはいかなかったようで、そのあたりの経緯も「折々の」の方に書かれている。

東京競馬場に初めて足を運んだのは1972年だという。

それまでは妻の里帰りに便乗して福島競馬場に足を運んだり、あとは大レースをテレビで観戦する程度だったというから、つかずはなれず、のような状態だったのだろう。

ただ、馬事公苑の近くに住んでいたらしいので、先々、競馬に”べったり”となる予兆があったとも、言えるのかもしれない。

自分の場合、1994年に場外馬券売り場でナリタブライアンが三冠を達成する菊花賞を観戦したのが、レッツゴーターキン以来、競馬に再接近した体験だった。

ちなみに、応援していたのは菊花賞の前哨戦の京都新聞杯でナリタブライアンを破る金星を挙げた四連勝中のスターマンだった。

生来、連勝中の馬が好きなのである。

スターマンは5着に敗れた。ナリタブライアンの圧勝ぶりに感嘆はしたものの、次の週からはまたしばらく競馬とは離れた。

1995年の春シーズンは、それこそ”つかずはなれず”で。

オークスではイブキニュースターやツキノロマンを応援した覚えがあるけど、ダービーはよく覚えていない。シグナルライトを応援したような気もするけど、記憶が頼りない。

古馬路線はナリタブライアンが戦列を離れてしまい、語り草となるのはどうしてもライスシャワーの復活(春の天皇賞)と悲劇(宝塚記念)のシーズンだが、どちらも大して力を入れて見ていなかったと思う。

次にしっかりとした記憶があるのは、ヒシアマゾンが参戦した、当時はまだ2000mで夏に行われていた高松宮杯で、スターバレリーナを応援していた。

いつも追い込みで勝っていたヒシアマゾンが驚きの逃げの手に出てつぶれ、勝ったのは左回り巧者マチカネタンホイザだった。

たしか、この夏はフジヤマケンザンが勝った七夕賞も場外馬券売り場で見ていた気がする。

書いていると思い出してきた。

秋には、オールカマーの週に初めて競馬専門誌のGallopを買い、レガシーワールドやマーベラスクラウンを知り、去勢馬というのが存在することを知った。

レースは、高松宮杯を落としたヒシアマゾンが勝ち、2着はのちにハーツクライの母となるアイリッシュダンス。懐かしい。。

股関節炎で春のG1に出られなかったナリタブライアンが秋の天皇賞から復活し、クラシック路線にはフランス遠征帰りのダンスパートナーや上がり馬のマヤノトップガンがいた。牝馬路線のブライトサンディーやフェアダンス、サクラキャンドルなども思い出す。

このぐらいにはもう毎週観戦していたと思うが、競馬場での思い出がない。
年が明けて1996年の中山開催が、改修工事の影響で府中開催となり、金杯に行ったのが初めての競馬場観戦だったと思う。

この金杯はベストタイアップが勝った。新聞にグリグリの本命を表す「◉印」がずらりと並んでいたように記憶している。

この頃はもう、べったりだった。

・・このぐらいの時期の馬はいちばんよく覚えていて、名前を出しているとキリがないのでこの辺で、、。


人の記憶を借りて、昔の競馬を見る。


「こんな日」の方に、古井氏が古山高麗雄さんの『優駿(1986年2月号)』に掲載された「戦後自分史」という有馬記念観戦記を読み、古山さんの文章も興味深いが、使われている写真も眺めて欲しい、と書いている。

その写真は、第一回有馬記念(中山グランプリ)のもので、1956年のもの。

古井氏は、「おそらく発走直前の、外埒フェンスからスタンドにかけての観衆風景」であろうと書いている。

観衆を観察する古井氏の文章を引用する。

満員の盛況である。立錐の余地もないといってよい。しかしずいぶん、何といったらよいか、行儀のよい詰まり方に見えないか。
(・・中略・・)全体として、なにかひどく生真面目な雰囲気が張っている。

男性たちの多くは膝下まで長い厚手のオーバーを着こんでいる。あの頃はまだ、暖房も不備で、栄養も足らなかったのだろう、冬場は寒かった。女性たちのは裾がもっと長いが、生地はいくらか薄手のようだ。上等だったのだろう。和服姿の女性たちも見える。街にも和服は多かった。半コートやジャンパーを着た若い人たちもいる。

白いマスクが見える。風邪にその効能がまだかたく信じられていた時代だ。

ほとんどの人がすでに無帽だ。その三年ほど前ならば、もっともっと帽子の姿が多かっただろう。学生たちが学帽をかぶらなくなったのも、昭和の三十年頃が境目だったかと思う。

身なりはおしなべて、競馬場としては、ずいぶんきちんとしている。(・・中略・・)あんがい端正にしているのだ。今の競馬客の身なりのほうが、よほどラフにくつろいでいる。これにはまあ、時代の事情もあったのだろう。TPOによってオメシカエをするほどには、豊富な衣装は持ち合わせてなかった。

身なりはたしかに粗末である。しかしその着こなしは、野暮ったいといえばそれまで、今よりもはるかに生真面目であった。戦後十一年にして、この第一回有馬記念の観衆風景に、それがはっきりうかがえる。

いや、やはり顔だ。人々の顔つきが、今の世の人間たちと、これこそはっきりと違う。まず、食料難のまだふっ切れていない時代のことで、顔の肉がやはり痩せている。肉が薄ければ、目鼻だちが強く、くっきりと浮く。

写真は発走直前のものと見たが、さらによくよくにらむと、すでに興奮をスタートさせてしまった顔もあり、アラッと黄色い声をもらしかけた和服の女性の姿も見えるので、あるいは馬たちはもう走っているか。(・・中略・・)どちらにしても動への境の静だ。人が眼ばっかりになる時だ。しかし何事も大元は純一な欲求にある。物質的な欲求を精神的な欲求に変えるにも、賭けを豊かな遊びへ高めるためにも、大元に健やかな欲求があってこそのことだ。これを枯らすわけにはいかない。老いも若きも。


以下が、その観衆の写真。

優駿(第一回有馬)

古井由吉はこの写真を見ながら、上記引用したような細やかな観察を加えつつ、自らの思い出を重ねる。

といっても、古井氏はこの時はまだ競馬に手を染めていない。

この日、大学生だった古井氏は日本橋の百貨店でアルバイトとしてジャンパーの特売場に立ち、年の瀬の日曜日の目の回る忙しさの中、9時から6時まで働き、手当はアゴ(食費)・アシ(交通費)つきで四百円だったという。

対して、中山競馬場で行われた有馬記念、連勝単式が三百九十円。百円札二枚で馬券を買っていたら配当が七百八十円、投資二百円との差し引きで五百八十円の儲け

この回のエッセイは、「そんな日もある。」と締められる。

自らはその日、競馬場にはいなく、百貨店で働いていた。でもその時の競馬場の観衆風景をのちに写真で見て、その服装や顔つきから時代背景にまで思いを馳せ、自らの思い出と重ねる。

古山高麗雄さんの記憶を借りて、自分は見ていない第一回有馬記念を観戦しているような、不思議な一日のエッセイだ。

そしてその時代に生まれてもいない自分がこのエッセイを読み、そんな時代があったんだ、と思いを馳せる。なにか、とても不思議だが豊かな気持ちにもなる。


競馬の国の言葉、競馬の国の住人。


「こんな日もある」の巻末には、同じく小説家の高橋源一郎さんが解説を書いている。

解説の中で、古井由吉のエッセイには「競馬の国の言葉」、「文学の国の言葉」、「ふつうの言葉」が使われており、「競馬の国の言葉」は、競馬をやらないふつうの人にはわかりにくい、と書かれている。

かなり昔、「杳子」を読んだ。

もちろん、バリバリの「文学の国の言葉」で書かれている。

杳子は深い谷底に一人で坐っていた。

と、「ふつうの言葉」で始まるが、そのあとはおよそふつうの人には理解しがたい、「文学の国の言葉」で物語が語られ、かなり昔に読んだときも、最近久しぶりに読み返したときも、一度には読み通せなかった。

かなりの集中力をもって文章に挑まないと、いつまでたっても文章との距離が縮まらない、そんな感覚がある。

古井氏の競馬エッセイには、高橋源一郎さんが言う通り、「ふつうの言葉」と、「競馬の国の言葉」と、「文学の国の言葉」が使われており、自分にとっては読みやすかったり、読みにくかったり、知らず知らずのうちに読むペースに緩急が付いているような、ぼーっと読んでいると、意味もわからず読み飛ばしていた、みたいな感覚がある。

このエッセイを読んで特に楽しかったところは、自分が競馬を始めた頃に好きだったロイヤルタッチやカネツクロスが登場するところ。

若葉ステークスでロイヤルタッチが敗れた。跳びの綺麗な馬だけに道悪が心配されたが、まずまず軽快なフットワークに見えて、向正面では早目に好位についた。それにしても馬体がやさしすぎて、走り方がふわふわと軽すぎるように思われた。あとから考えれば、道悪の地面にやはり脚がよくついていなかったのだ。重心も高かった。三コーナー過ぎて一度あがりかけて、上がりきれなかった。あれも足を取られかけたのだろう。それでもあらためてあがって、直線で先頭に立った時には、ちぎるかと思われた。そこへ重戦車のような勢いでミナモトマリノスが駆け抜けた。同じような体重なのにこちらのほうがはるかに頑丈な体格に見えた。重心の高い低い、脚が地についているかいないかの差なのだろう。

日経賞でも一番人気のカネツクロスが、この馬も昨年秋の毎日王冠の道悪で惨敗しているのでどうかと思われたが、スタート直後から先頭に立って軽快に逃げ、やはり走り方がふわふわと軽すぎるように見えたが余裕はあり、そのまま衰えも見せずに四コーナーをまわり、さてどんなものかと見ていたら、ゴール前で往年の道悪の鬼ホッカイダイヤを母方の祖父に持つホッカイルソーに迫られ、一気にかわされた。失速したというよりは加速がつかなかったと言うべきで、前走のAJCCで先頭で逃げた上で三三秒九の末脚を使ったのと大違いである。レースは二分三七秒四の、上がりが三七秒一、良馬場より三秒から四秒よけいにかかっている。これなら、道悪上手のつけこむ隙はいくらでもある。

競馬を25年やってきて、それなりに「競馬の国の言葉」を理解する自分としては、すらすらと読めてしまう。

でも、ふつうの人の視線で読めば、「道悪」という競馬用語によって、文章を読んでいく集中力が遮断されてしまうのかもしれない。「道悪」ですらなんのことかわからないところに、「道悪の鬼」とくるから、ふつうの人はここで読み進めることを断念するか、読み飛ばしてしまうのかもしれない。

しかし、ロイヤルタッチとカネツクロスに思い入れのあった自分としては、古井由吉がこのような文章で、彼らが負けた日のことを書いてくれているのはありがたく感じる。

若葉ステークスまで土つかずの三連勝で、ここも勝ち連勝を四に伸ばし、堂々とクラシック初戦に挑むことを多くの競馬ファンが期待していたロイヤルタッチは、このレースでミナモトマリノスに負け、その後も負け続けることになる。

カネツクロスにしても、この日経賞を負けたのを皮切りに引退まで負け続けることになる。

二頭を応援していた自分にとって、あの若葉ステークスと日経賞の思い出はほろ苦い。ただ、古井由吉の描写によって、ああそうだった、そうそう、そんな感じの負け方だった、と、思い出が補強され、ほろ苦くはあるものの、記憶の中によりしっかりと定着されていく気がする。

「競馬の国の言葉」を、意識して覚えたわけではもちろんないのだけど、長く競馬をつづけているうちに、知らず知らずのうちに競馬の国の住人になっていた。

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