ジップロックの未来
あの頃の僕は、何者でもなかった。
それなのに、青年実業家の顔をしていた。
「もうすぐ現金なんてなくなる時代ですよ」
「今は種まきです」
そんな言葉を、妙に自信ありげに口にしていた。
よく分からない英語のロゴが入った名刺を差し出し、仕組みで稼ぐ話をした。けれど実際の僕は、深夜バイトと、サブカル気取りの音楽ショップの店員を掛け持ちする、ただのフリーターだった。
あの頃は、合同会社を作るのが流行っていた。
FX、間借りの店、紹介ビジネス、誰かがどこかで儲けた話。そんなものが夜ごと飛び交っていた。
当時世話になっていた先輩は、今思えばかなり危うい人だった。
でも、あの頃の僕には、その人が一番時代の先を行く人に見えた。
勧められるままFXを始めた。
勝ちもしないし、人生も変わらない。
それでもバイト先では腕を組み、
「誰でも僕みたいになれますよ」
と笑っていた。
本当は、何ひとつ掴めていなかったのに。
経営者は本を読め、と言われた。
自己啓発本を渡された。引き寄せの法則、ナポレオン・ヒル、成功者の習慣。願えば叶う、思考は現実になる。そんな言葉ばかりを飲み込んで、一般人より世の中を知っている気になっていた。
工場で働いていた頃、正社員の話をもらったこともある。
けれど、そのたびに逃げた。
正社員は安定するから、若いうちになった方がいい。
そう言われるのが嫌だった。
真剣に働くことから逃げて、
夢を追っている自分に酔っていた。
だから、不労所得だの自由な働き方だの、耳触りのいい言葉へ逃げた。
同世代で馴れ合える場所へ戻った。
恋愛も人生も、当時の僕はどこか雑だった。
ちゃんとしているふりだけは、うまかった。
彼女と出会ったのは、そんな時だった。
後輩が開いた飲み会に、大学で高嶺の花と呼ばれていた子が来ると聞いた。
英語が話せた女の子だった。
半年後には、交換留学で海外の大学へ行くことも決まっていた。
始まりと終わりが、最初から同じ場所に置かれていた恋だったのかもしれない。
なぜ彼女が僕に興味を持ったのか、今でもよく分からない。
それくらい、釣り合っていなかった。
僕は日本にいて、言葉も通じる場所にいて、それでも人生に向き合っているふりしかしていなかった。
彼女の前では、ちゃんとした人間でいたかった。
いや、ちゃんとした人間になれる気がした。
五つ上という年齢差も、最初のうちは都合がよかった。
少し大人に見せることができたし、知らないことも誤魔化せた。
彼女は救いじゃなかった。
鏡だった。
僕が持っていない未来を、彼女はもう生きていた。
劣等感をごまかすように、彼女が学んでいた国を腐したこともある。
ヨーロッパなんて、植民地政策をしていただけだと。
今思えば、どうしようもなくみっともない。
付き合う前に行った居酒屋の夜が、一番幸せだった。
二人とも辛い鍋が好きで、僕は格好つけて限界まで食べた。
まだ付き合ってもいないのに、住む場所や、仕事や、いつかの休日の話までしていた。
彼女を送る帰り道、腹が痛くて仕方なかった。
それでも平気な顔をして、背筋を伸ばしていた。
帰り際、勇気を出してキスをした。
あの瞬間、単純な僕は本気で思った。
彼女のためなら、
平凡なサラリーマンでもいいかもしれない、と。
きっかけが欲しかっただけなのかもしれない。
上辺だけのビジネスに、もう未来がないことには、気づいていたのだと思う。
彼女との時間が増えるほど、僕はこの恋に真剣になっていた。
二人だけの話ではなく、家族や将来の話に触れていくたびに、少しずつ本物に近づいている気がした。
彼女のお母さんと三人で喫茶店に入ったことがある。
彼女が席を外した、ほんの短い時間だった。
母親は紅茶をひと口飲んで、まるでよく当たる占い師が軽くジャブで言い当てるような笑顔で言った。
「あの子は、あなたとは結婚しないと思うわよ」
僕は笑ってごまかした。
それに対して真剣に言えるような土台もなかった。
その言葉だけは今でも妙に鮮明に残っている。
遠距離になるその日、空港で僕らはしばらく別れを惜しんだ。
その時の僕は、映画の主人公にでもなった気でいた。
いや、どこかで見たような安い芝居だったのかもしれない。
額と額を合わせて、
「大丈夫。僕たちは繋がってるから、遠くても大丈夫だよ」
そんなことを真顔で言った。
彼女は、少し心を打たれたような顔をしていた。
まだ僕のメッキが、剥がれていなかった頃だった。
彼女が乗っているはずの飛行機を見上げながら、
僕は、ほんの少しだけ不安を感じていた。
結局僕は、
正社員になることを目指して、
工場で契約社員として働いていた。
朝八時から、残業込みで夜八時まで。
油の匂いと機械音の中で一日が終わった。
それでも彼女には、毎日のようにメールを送った。
少しずつ言葉を変え、今日あったことを書いたつもりだった。
彼女の時間があるときは、Skypeでもやり取りをした。
時差があっても、僕なりに繋ぎ止めようとしていた。
彼女が受けた授業の話をメモして、
「勉強になるね」と返す。
そんなふうに、上辺だけを取り繕っていた。
だが、僕の日常は違った。
自分から動かなければ、
何も変わらない平凡な日々だった。
仕事、疲れた、眠い。
でも、大丈夫だよ。
そんなことを言って、
自分をごまかしていただけだった。
彼女は現地で学び、世界を広げていった。
経済、制度、歴史。
僕が本やネットで拾ってきた薄い知識とは、重さが違った。
就職活動の相談をされたこともあった。
まともに就活をしたこともない僕は、それでも年上の顔をして、それらしい助言をした。
僕は横文字を並べて、資産配分だの、投資戦略だの、効率だの、得意げに語っていた。
何者でもないくせに、数字だけは語りたがった。
金を娯楽に使うのは無駄だと、本気で思っていた時期もある。
思い出より積み上げ、今より未来。
そうでもしなければ、
彼女と並べない気がしていた。
三十手前の僕には、結婚や安定がちらついていた。
二十代前半の彼女には、まだ自由や可能性のほうが自然だったのだと思う。
その違いに、僕だけが気づいていなかった。
大学生なら遊びたい時期だったはずだ。
新しい友人も、街も、自由もあったはずだ。
それなのに、僕と同じ価値観で、まだ何年も我慢する未来を想像させられていたのだとしたら。
今になって、少し気の毒に思う。
クリスマスには絵葉書が届いた。
異国の街並みと、短いメッセージ。
僕は何度も読み返したくせに、返す言葉だけはうまく書けなかった。
空港へ迎えに行った日、僕は少しドラマを期待していた。
人混みの向こうから彼女が駆け寄ってきて、再会を喜ぶような、そんな安い映画みたいな場面を。
けれど僕は、彼女を見つけられなかった。
すぐ近くまで来ていたのに、気づかなかった。
先に僕を見つけた彼女が、少し呆れたように笑った。
「あ、こっちだよ」
僕は、メガネをかけていたから分からなかった、みたいなくだらない言い訳をした気がする。
本当は、目の前の現実を見る準備ができていなかっただけかもしれない。
再会してしばらくは、平穏な日々が続いた。
けれど少しずつ、会話の端々にすれ違いが混じるようになった。
留学から一年ほど経った頃、彼女から別れを告げられた。
彼女は言った。
「だってメール、コピペみたいにしか感じないし。英語も勉強するって言ったのに、全然じゃん」
図星ではなかった。
でも、外れてもいなかった。
英語も勉強すると言っていた。
英検三級と、昔かじった短期留学の話だけで、どこか通用する気になっていた。
忙しいを言い訳にしているうちに、約束したことさえ忘れていた。
彼女が広げていく世界と、僕が守っていた毎日は、同じ話題を持てなくなっていた。
別れが決まったあと、前から約束していたディズニーランドへ行った。
僕が半ば意地になって頼み込み、彼女は少し困った顔のまま付き合ってくれた。
楽しかった気もする。
何を話したかは、あまり覚えていない。
終わることだけが、ずっとそこにあった。
帰りに喫茶店へ入って、最後の食事をした。
いつも頼んでいたメニューに、その日だけはなぜか僕の嫌いな具が挟まっていた。
とことんついてないな、と思った。
「私なんて、釣り合わないよ」
彼女がそう言った時、僕はうまく返せなかった。
神なんていない、と思った。
でも本当は、自分に怒っていた。
何者にもなれなかった自分に。
そして、未来を閉じた彼女にも、一人で勝手に腹を立てていた。
別れた直後、やけにマッチョな歌詞のアーティストを流して、自分を鼓舞した。
それからまた元の場所へ戻り、
「可愛い子紹介してよ」
なんて言えた。
変わったつもりで、何も変わっていなかった。
もし、彼女との未来が続いていたら。
その世界線では、変わる必要もないまま、休日の昼から酒を飲み、仕事の愚痴を言い、ストレスから逃げていたのかもしれない。
「俺は可愛い嫁をもらったから」
そんな自慢だけを、繰り返していたかもしれない。
もし続いていた未来なら、居酒屋も、あのキスも、花火も、破滅へ向かう途中の思い出になっていたのかもしれない。
だから思う。
あの恋が美しいのは、叶わなかったからじゃない。
壊さずに済んだからだ。
ジップロックに入れたみたいに、空気に触れず、酸化しない未来。
開けなかったからこそ、腐らなかった未来。
それが、僕にとってのベターだった。
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