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明治末期|和魂と蒸気の不協和音【シリーズ「端境期」を探る】

 1905年9月5日。ポーツマス条約の調印により、日露戦争は終結した。日本は建国以来最大の危機を乗り越え、世界五大国の一翼を担う地位を獲得した。しかし、その栄光の裏側で、国内は未曾有の動揺に見舞われていた。

ポーツマス条約 日露両国講和条約及追加約款

条約内容に賠償金が含まれていないことに憤慨した民衆は、東京の日比谷公園に集結し、警察署や新聞社を襲撃した。日比谷焼打事件である。

日比谷焼討事件

この事件は、明治政府による「官」主導の近代化が限界を迎え、民衆という巨大なエネルギーが独自の政治的意志を持ち始めた象徴的な分水嶺となった。

1905年から明治が終わる1912年に至るこの数年間、日本は「戦後」という熱狂と空虚の中、物理的な近代化の完成へとひた走ることになる。

当時の東京は、物理的な変貌の極致にあった。

1903年に初めて開通した路面電車は、1906年には東京鉄道株式会社として統合され、路線の総延長は約100キロメートルに達した。

馬車や人力車という「生命体」を動力とする交通手段の横を、架線から火花を散らす鉄の塊が時速20キロメートルで通り抜ける。それは、数千年の間、人間の歩幅と馬の歩法によって規定されてきた空間概念が、電気という不可視のエネルギーによって解体される瞬間に他ならなかった。

1910年の調査によれば、東京市の人口は約218万人に達しており、急速な都市化は、かつての江戸から続く共同体構造を内側から崩壊させていた。

本稿の目的は、この1900年代後半の日本がいかにしてその身体性と精神構造を書き換えていったのかを、単なるノスタルジーではなく、当時の社会データと知識人の言説に基づき、冷徹に追跡することにある。

西洋が数百年かけて内発的に生み出した文明を、わずか数十年で外側から取り繕わねばならなかった「外発的開化」の歪み。その歪みが最も美しく、かつ残酷に現れたのが、明治末期という端境期であった。

私たちは、坂の上の雲を目指してひた走る明治人の足跡を辿ることで、近代という怪物を手に入れるために日本人が支払った代償の正体を、一万文字の紙幅を尽くして明らかにする。



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▽シリーズ 美しい時代の「端境期」を探る

馬車の轍(わだち)の隣を、初期の自動車が不器用に走る。ガス灯の淡い光が、新設された電球の鋭い輝きに飲み込まれていく。

本シリーズでは、ある時代が完成され、そして静かに崩壊を始める「端境期(はざかいき)」に光を当てます。明治末期の煉瓦街、西部開拓時代の終焉、ベル・エポックの斜陽。

古い世界の残り香と、得体の知れない未来への好奇心が交差する、残酷で美しい「あわい」の時間を記録します。

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【1】鉄道国有法(1906年)と速度の受容

ポーツマスにおける日露両政府代表団

 1906年(明治39年)3月、日本政府は鉄道国有法を公布した。これは、日露戦争での軍事輸送を通じて痛感された、私設鉄道による分断的な運営の限界を克服するための国策であった。

政府は日本鉄道、山陽鉄道、九州鉄道といった私鉄大手17社を強制的に買収し、全国に張り巡らされた約7,000キロメートルに及ぶ広大な鉄道網を国家の統制下に置いた。

錦絵に描かれた開業当初の鉄道(横浜)

この大規模な再編は、単なる資本の移動に留まらず、日本列島という物理的な「空間」そのものを、国家の意志によって一元的に管理するシステムへと作り替える行為であった。それまで各地域が持っていた独自の距離感や閉鎖性は、国家という単一のスケールに上書きされ、均質化されていったのである。

この空間変容を語る上で欠かせないのが、鉄道がもたらした「速度」という名の暴力的な衝撃である。

1900年代後半、東海道本線の急行列車は東京―大阪間を約15時間で結んでいた。江戸時代の旅人が徒歩で15日間を要したこの道のりが、わずか15時間へと圧縮された事実は、人々の身体感覚に壊滅的な断絶を引き起こした。

小村大雲筆『京浜鉄道開業式行幸』(聖徳記念絵画館壁画、鉄道省奉納)。鉄道開業式の1872年10月14日、明治天皇が新橋駅に到着した際の情景を描く。

ドイツの歴史家ヴォルフガング・シヴェルブシュはその著書『鉄道旅行の歴史』において、鉄道が「空間と時間の消失」をもたらしたと指摘しているが、明治末期の日本においても、これと同じ現象がより劇的な形で行われていた。

明治初期の列車

移動はもはや、土の感触や風の匂いを伴う「連続的な身体体験」ではなく、ある地点から別の地点へと身体を「発射」するような、非連続な物理現象へと変貌したのである。

鉄道の車窓から眺める風景の変質も、人間の認知機能に大きな影響を及ぼした。かつての徒歩の旅において、風景は五感のすべてを用いて対峙すべき「実体」であった。

しかし、時速数十キロメートルで疾走する列車の窓から眺める風景は、網膜の上を高速で滑り去る、手触りのない「パノラマ」へと化した。シヴェルブシュが「パノラマ的知覚」と呼んだこの視覚体験は、風景から奥行きと具体性を奪い、世界を単なる記号的な映像へと抽象化していった。

人々は、自分たちが踏みしめている大地との有機的な繋がりを断たれ、管理された軌道の上を滑走する「観客」となったのである。この視覚の優位と身体の疎外こそが、近代人が最初に直面した感覚の剥離であった。

新橋横浜間鉄道之図(国立公文書館収蔵)。左から横浜、神奈川、鶴見、川崎、品川、新橋。

さらに、鉄道は「都市」と「郊外」という概念を創出し、日本人の生活圏を根底から再編した。

1907年(明治40年)には玉川電気鉄道、1910年(明治43年)には箕面有馬電気軌道(現在の阪急電鉄)が開通し、都市労働者が郊外に居住し、中心部へ通勤するという現代的なライフスタイルが形成され始めた。

開業時の梅田駅

これは、江戸以来の伝統であった「職住一致」という共同体構造の崩壊を意味した。移動が日常の一部となったことで、人々は故郷や地域社会という強固な縛りから解放された一方で、どこにも属さない「移動する個」としての孤独を抱え込むこととなったのである。

速度がもたらした利便性の影で、日本人の身体は、かつて持っていた野生的な地勢感覚を確実に失っていった。


【2】中央標準時と「規律」に縛られた身体

 空間が鉄道によって統合されたのと時を同じくして、日本人の「時間」もまた、国家という巨大な歯車の中に組み込まれていった。

山陽電気鉄道本線人丸前駅(明石市)ホーム上の東経135度子午線表示と明石市立天文科学館の時計塔

日本における時間の近代化は、1886年に公布され、1888年から実施された「本初子午線経度測定並計時標準ノ件」に端を発する。

これにより東経135度を基準とする中央標準時が定められたが、この制度が国民の末端まで身体的な制約として浸透し、機能し始めたのは、鉄道網の完成と大規模な工場労働が一般化した1900年代後半のことである。

それまでの日本社会に息づいていたのは、日の出と日の入りを基準とし、季節によって一刻の長さが伸縮する「不定時法」であった。

出典:https://www.gakken.jp/kagakusouken/spread/oedo/03/kaisetsu1.html

農村部の人々にとって、時間は自然の呼吸、すなわち太陽の運行と同期する流れるものであり、1分1秒を刻む機械的な時間は、西洋から持ち込まれた異質な記号に過ぎなかった。

この時代の本質的な歪みは、最先端の文明と、前近代的な蛮習の記憶が地続きで同居していた点にある。

1900年代、帝都の路上を路面電車が走り、電灯が夜を照らし始めていたが、人々の精神構造の奥底には江戸の血生臭いリアリティが色濃く漂っていた。

江戸時代の獄門(『古事類苑』)

たとえば、日本において斬首刑、すなわち刀による処刑が絞首刑へと一本化され、事実上廃止されたのは1882年の旧刑法実施時である。1900年代後半は、公式な記録から斬首が消えてわずか20数年しか経過していない。

街に張り巡らされた電線の下を歩く老人たちの多くは、白昼堂々と刀で人間の首を叩き斬る光景が「当たり前の正義」として行われていた時代を、昨日のことのように記憶していたのである。

電信によって最新の国際ニュースが瞬時に駆け抜ける一方で、地方では依然として「村八分」のような法を超えた私刑が黙認され、狐憑きや加持祈祷が科学的な治療と同等、あるいはそれ以上の切実さをもって信じられていた。

この規律化が最も苛烈に現れたのは、1911年に公布された工場法成立前後の生産現場である。大規模な紡績工場では、1分単位で労働時間が管理され、遅刻や休憩時間の超過は厳格な罰金の対象となった。

工場の汽笛は、それまでの共同体の安らぎを告げる音ではなく、労働者を機械へと繋ぎ止める命令の咆哮へと変貌した。

当時の女性労働者の記録には、暗いうちから汽笛に叩き起こされ、機械の速度に合わせて身体を動かし続けることへの極度の疲弊が綴られている。時間はもはや自然の恵みではなく、一刻も早く過ぎ去ることを願う苦役の尺度へと堕したのである。

また、電灯の普及はこの支配を決定的なものにした。

東京電灯の発電所

1900年代後半、東京電燈による電力供給が安定し始めると、都市から夜という名の休息が物理的に剥奪されていった。電灯は闇を非効率なものとして排除し、24時間絶え間なく稼働し続ける近代社会の礎を築いた。人々は太陽が沈んだ後も、人工的な光の下で労働し、あるいは消費に耽ることを強いられたのである。

時間の国家独占とは、人間から闇という内省の時間を奪い、すべての瞬間を生産と消費の回路へと強制的に接続する、不可逆的な文明の転換であった。

当時の新聞コラムには、不夜城と化した銀座を歩く人々が「昼夜の区別を失い、神経が休まる時がない」と訴える声が残されている。

刀が支配した静寂の闇から、電気が支配する不眠の光へ。明治末期の人々は、その巨大な振幅の中で、自らの身体感覚を必死に繋ぎ止めようとしていたのである。


【3】夏目漱石が喝破した「外発的開化」の正体

1912年の夏目漱石

 物理的な空間と時間が国家という巨大な機構に統制される一方で、日本人の「内面」には深刻な不協和音が生じていた。

1911年8月、文豪・夏目漱石は和歌山で行った講演『現代日本の開化』において、日本の近代化の本質を「外発的」であると断じた。

西洋の開化が内側から湧き上がる必要性に駆られて数百年の歳月を費やし、一歩一歩進んできた「内発的」なものであるのに対し、日本のそれは外部からの圧力によって、短期間で無理やり形を整えさせられた「皮相の開化」に過ぎないと喝破したのである。

漱石はこの強引な変容が日本人の精神に過度な負担を強いていると分析し、その結果として「神経衰弱」が蔓延している現状に強い警鐘を鳴らした。

当時の知識層や学生にとって、近代化とは単なる利便性の享受ではなかった。それは江戸以来の伝統的な倫理観を「古臭いもの」として切り捨て、西洋的な個人主義と過酷な競争原理を無理やり接ぎ木する、痛みを伴う改造手術に近いものであった。

1900年代後半の東京朝日新聞や読売新聞の社会面には、現代の適応障害やうつ病を想起させる「神経衰弱」という言葉が頻出している。

第一高等学校本館玄関前の漱石(1907年2月)

1908年に発表された漱石の小説『三四郎』の中で、広田先生が放つ「日本は滅びるね」という言葉は、日露戦争の勝利に浮かれる大衆の裏側で、あまりに速すぎる文明の進歩に魂が追いつけなくなった、知識人たちの絶望的な予感を代弁していたのである。

この精神的負荷をさらに加速させたのが、先述した「不夜城」の光である。1882年に銀座の大倉喜八郎邸前で初めて公開されたアーク灯の眩い光は、かつての提灯や行灯が作り出した「影を慈しむ闇」を暴力的に駆逐した。光は産業の効率を飛躍的に高めたが、同時に人間が思索し、内省するための「闇」を奪い去った。

漱石の作品群において、しばしば電灯の光が冷たく、人を孤独に突き放すものとして描かれるのは、それが個人の内面に潜む闇までも白日の下に晒し、逃げ場を失わせたからに他ならない。

鉄道がもたらした「速度」と、電灯がもたらした「不眠」は、日本人の神経を極限まで摩耗させ、社会全体に一種の「焦燥感」を定着させた。

また、1900年代は「科学」と「迷信」が激しく衝突した時代でもあった。大学で最新の物理学や英文学を学ぶエリート学生たちが、下宿先では狐憑きを恐れ、加持祈祷に頼るという光景が日常的に見られた。

御船千鶴子(1910年)
透視能力を持つ超能力者と言われていた

1910年には、透視能力を持つとされる女性をめぐる「千里眼事件」が世間を騒がせ、帝国大学の博士たちが真剣にその科学的検証に挑んだ。これは、理性的であろうとする近代的な自我と、数千年の記憶に根ざした非理性的な身体感覚との間での、壮絶な摩擦の現れであったと言える。

漱石が指摘した「外発的」な近代化の歪みは、単なる知識の不足ではなく、人間の肉体と精神が、異なる二つの時代に引き裂かれているという、端境期特有の病理そのものであった。

明治末期の人々は、文明の恩恵を謳歌する煌びやかな表舞台の裏側で、近代という名の孤独な迷宮を彷徨い始めていたのである。


【4】赤煉瓦建築と百貨店、消費社会の萌芽

 精神の深淵に病理が刻まれる一方で、都市の表面もまた劇的な変貌を遂げていた。明治末期の東京において、建築は単なる居住の場から、国家の威信と資本の力を誇示する「劇場」へと作り替えられた。

その象徴が、1908年(明治41年)に着工された東京停車場(現在の東京駅)である。

竣工当時の東京駅(前庭より)

建築家・辰野金吾が設計したこの巨大な赤煉瓦の構造物は、それまで日本の街並みを構成していた木と紙の「柔らかな皮膚」を剥ぎ取り、石と鉄という「硬質な意志」を都市の心臓部に突き立てた。

辰野金吾

震災や火災という天災に対し、永続的な堅牢さで対抗しようとする西洋的建築思想は、自然を畏怖の対象から制御すべき客体へと変質させる、物理的な宣言であった。

この建築様式の変化は、人々の歩行体験と視線のあり方を根本から変えた。かつての江戸の街並みは、低い軒先が連続し、生活の気配が路地へと溢れ出す親密な空間であった。

しかし、1900年代後半の丸の内や銀座に立ち並び始めた煉瓦造りのビルディングは、厚い壁によって内と外を厳格に分断し、無機質な景観を作り出した。人々は建物の内部に何があるのかを直接知る術を失い、代わりに「窓」を通して世界を断片的に眺めることを強いられた。都市は生活の場であることをやめ、視覚的に消費されるべき「スペクタクル」へと変貌したのである。

この視覚的な消費を加速させたのが、1904年(明治37年)に三越呉服店が発表した「デパートメントストア宣言」である。

明治時代の三越百貨店

三越はそれまでの「座売り(店員が商品を持ってくる形式)」を廃し、商品を陳列して客が自由に見て回る「陳列販売」を導入した。これは日本における「ウィンドーショッピング」の誕生を意味する。

1910年(明治43年)前後の銀座には、最新のモードを飾ったショーウィンドーが並び、夜間は電灯によって煌々と照らし出された。人々は商品を買うという目的以上に、「見る」という行為そのものに快楽を見出し始めた。

三階休憩室の「竹の間」。
煤竹の腰羽目に、竹が描かれた絹貼りの壁。
休憩室は各階にあり、一、二階はヨーロッパ調。

百貨店という巨大な消費の迷宮は、人々の欲望を記号化し、均質化していった。

1911年(明治44年)に三越の新館が落成すると、そこには日本初の「エスカレーター」や「エレベーター」が設置され、階層ごとに分類された商品群が人々の目を楽しませた。

ここでは、かつての身分や家格ではなく、どれだけの「貨幣」を所有し、何を「選択」するかによって個人の価値が測られるようになった。

三越フロアカウンター。明治時代

江戸以来の伝統的な美意識は、大量生産される工業製品や西洋風の流行の中に埋没し、人々は「自分は何者か」という問いへの答えを、購入する商品の中に求めるようになったのである。

都市の皮膚が煉瓦へと張り替えられ、街角にショーウィンドーの光が溢れる。その煌びやかな光景の裏側で、日本人は自らのアイデンティティを「生産者」から「消費者」へと移行させていった。

1900年代末、東京駅の巨大な骨組みが空へと伸びていく様子を眺めながら、当時の人々はそこに輝かしい未来を幻視した。しかし、その強固な煉瓦の壁が、かつての日本が持っていた「内側から滲み出るような情緒」を永遠に遮断してしまったことに、気づく者は少なかった。

都市は巨大な装置となり、人間はその歯車に適合するために、自らの感覚を削ぎ落としていったのである。


【5】終わりゆく「武」の残照

最晩年の明治天皇の写真(1912年〈明治45年〉

 1912年7月30日。明治天皇の崩御という報は、号外となって列島を駆け抜けた。それは単なる一国家元首の死を意味するものではなかった。

大喪の礼の様子(1912年〈明治45年〉)

近代日本という巨大な物語の「神」であり、精神の支柱であった存在が消失したことを意味していた。街に溢れていた祝祭的な喧騒は一変し、人々は深い沈黙に包まれた。

しかし、この「明治」という時代の終わりを、物理的な死以上に残酷かつ鮮烈に日本人の脳裏に刻みつけたのは、同年9月13日、大喪の礼の日に行われた陸軍大将・乃木希典とその妻・静子の殉死であった。

乃木希典

乃木は、日露戦争における旅順攻囲戦を指揮した「軍神」であった。その彼が、天皇の棺が宮城を出発する号砲を合図に、古式ゆかしい作法に則り自らの腹を切り裂いた。傍らには共に命を絶った妻の姿があった。

自刃当日、早朝の乃木夫妻

この衝撃は、近代化の恩恵を謳歌し始めていた日本社会を根底から揺さぶった。1900年代後半、鉄道や電灯、百貨店といった西洋的な合理主義に慣れ始めていた国民にとって、刀で自らの命を絶つという行為は、あまりに古風で、野蛮で、しかし無視できない精神的な崇高さを湛えていたのである。

当時の新聞は、この事件を「大将の死」という枠を超えて、一つの時代の精神が自壊した瞬間として報じた。

夏目漱石は、この乃木の死に強い衝撃を受け、後に代表作『こころ』を執筆することになる。作品の中で「先生」は、乃木の殉死を聞き「明治の精神が乃木さんと共に死んだ」と感じ、自らも死を選ぶ。

漱石が看破したのは、効率と速度を追求する近代というシステムの中では、もはや乃木のような「武士的な誠実さ」は生存不可能であるという冷徹な事実であった。乃木の刃が肉体を貫いた瞬間、江戸から引き継がれてきた肉体的な知と倫理は、完全に歴史の彼方へと追いやられたのである。

『ニーヴァ』誌に掲載された乃木の挿絵

乃木の殉死は、明治という「端境期」に打たれた決定的な終止符であった。彼が死を選んだその時、街では最新の電報がそのニュースを秒単位で全国へ伝え、人々は路面電車に乗って大喪の礼を見守っていた。

最先端の通信技術と、前近代的な割腹。この凄まじい対比こそが、本稿で追ってきた「明治末期」という時代の正体であった。

1912年9月13日を境に、日本はもはや「古い日本」の残り香に頼ることを許されなくなった。日本人は、乃木という最後の防波堤を失い、完全に剥き出しの「近代」という荒野へと放り出されたのである。


近代化の代償と、我々が失った「闇」

大政奉還

 明治という時代は、日本人が数千年の眠りから覚め、自らの骨格を組み替えた壮大な変態の記録であった。

1900年代から1912年に至る数年間、我々は鉄道によって空間を圧縮し、中央標準時によって時間を均一化し、赤煉瓦の建築によって自然を排除した。その結果得られたのは、列強と肩を並べる国力であり、夜を昼に変える光であり、海を越えて届く最新の知識であった。

しかし、その輝かしい進歩の裏側で、我々が支払った代償もまた計り知れない。谷崎潤一郎が惜しんだ「陰翳」の美学、漱石が警鐘を鳴らした「神経の安らぎ」、そして乃木が体現した「身体的な倫理」。

それらはすべて、効率と速度という近代の指標の前では切り捨てられるべき「非効率」として処理された。明治末期の日本人が抱いた「美しき違和感」は、現代の我々がデジタル化という荒波の中で感じる焦燥感の源流でもある。

我々は今、再び新しい時代の端境期に立っている。100年以上前、煤煙の漂う帝都で人々が抱いた戸惑いと好奇心。その記憶を辿ることは、完成されすぎてしまった現代の文明から、失われた「手触りのある世界」を取り戻すためのヒントとなるかもしれない。

明治という季節は終わったが、その残照は、今なお我々の精神の奥底で微かに揺らめいている。


【明治末期関連の雑学】

1. 視線の漂流:右から左、左から右への混迷

明治時代の街角は、読字の方向が一定しない視覚のカオスであった。江戸時代以来の伝統的な看板は「右から左」へと書かれていたが、これは厳密には横書きではなく「1行に1文字しか書かない縦書き」という認識であった。一方で、西洋の辞書や理数系の教科書、あるいは1885年頃から登場した「左から右」への横書き広告が混在し始めた。人々は看板を見るたびに、それが旧来の「縦書きの一行」なのか、新しい「西洋式の横書き」なのかを瞬時に判断せねばならず、視覚的な疲弊を助長させていたのである。

2. 「和洋混淆」の胃袋:ライスカレーとコロッケの民主化

1900年代後半、それまで上流階級や軍隊の特権的な食事であった西洋料理が、都市部の「洋食屋」を通じて一般大衆へと降りてきた。特にライスカレーやコロッケは、米飯という日本の主食に無理やり西洋のソースや調理法を接ぎ木した「和洋のハイブリッド」であり、まさに当時の日本の姿そのものであった。1910年頃には、銀座の「煉瓦亭」などでモダンな食事を楽しむことが中産階級のステータスとなり、食卓からも江戸の香りが急速に失われていった。

3. 外見の歪み:シルクハットと下駄の同居

明治末期の路上において、士族の末裔や新時代の官僚たちの服装は、過渡期特有の滑稽さと悲哀を湛えていた。頭には西洋式の山高帽(ボーラーハット)を被り、手には蝙蝠傘を持ちながら、足元は伝統的な下駄を履くといったスタイルが珍しくなかった。1872年の礼服採用以来、公的な場では洋装が義務付けられたが、個人の肉体感覚は依然として和装の解放感を求めていた。この「頭は西洋、足元は東洋」という不一致こそが、外発的開化を生きる日本人の身体的なリアリティであった。

4. 科学と迷信のデッドヒート:千里眼事件の熱狂

1910年(明治43年)、日本中を熱狂させた「千里眼事件」は、まさに近代知性と古来の神秘観が正面衝突した象徴的事件である。透視能力を持つとされる御船千鶴子らの真偽をめぐり、帝国大学の博士たちが大真面目に科学的検証を試みた。電信や鉄道といった「目に見えない力」が現実を動かし始めた時代、人々は科学と魔法の境界線をまだ明確に引くことができず、最新の知性と最古の恐怖が同じテーブルに並んでいたのである。

5. 翻訳語の氾濫:創られた「日本語」

我々が今日当たり前に使用している「社会」「自由」「権利」「哲学」「彼女」といった言葉は、その多くが明治時代に西洋語の概念を当てはめるために捏造された翻訳語である。1900年代、これらの新しい言葉が新聞や雑誌を通じて急速に普及したが、当時の人々にとってそれは、意味内容は理解できても身体的な実感を伴わない「宙に浮いた言葉」であった。夏目漱石が感じた精神の不安定さは、こうした「自分の血肉となっていない言葉」で思考せねばならない不自然さにも起因していた。


参考文献

夏目漱石『現代日本の開化』 / 夏目漱石『三四郎』 / 夏目漱石『それから』 / 谷崎潤一郎『陰翳礼讃』 / ヴォルフガング・シヴェルブシュ『鉄道旅行の歴史―19世紀における空間と時間の工業化』 / 乃木希典『遺言条々』 / 藤森照信『明治の東京計画』 / 初田亨『百貨店の誕生』 / 一柳廣孝『「千里眼」事件:科学とオカルトの明治日本』 / 兵藤裕己『「声」の国民国家―明治日本とラジオ放送』 / 東京都統計年鑑(明治43年版) / 明治刑法史稿 / 日本鉄道史(中巻) / 三越三百五十年史

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