【ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ】「失敗作」という烙印は妥当なのか?
2019年の『ジョーカー』は、孤独と怒り、社会からの断絶を、暴力と悲哀を織り交ぜて描ききった衝撃作だった。
ゆえに続編『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』への期待は膨れ上がり、「前作以上の暴力的衝撃」を求める声が大きかったのも事実だ。
しかし、公開後の評価は賛否が鮮明に分かれた。
その理由は、想定外の方向性にあった。
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▼ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ(オリジナル・サウンドトラック)
▼ハーレクイン - レディー・ガガ
まず数字で全体像を掴む(2025年8月9日現在の公的指標)

Rotten Tomatoes:批評家スコア31%(368レビュー)、観客スコア31%(検証済みユーザー5,000件超)。
Metacritic:メタスコア45/100(批評家62件)、ユーザースコア4.3/10(1,000件超)。
CinemaScore:D。同社の記録でコミック原作映画として史上最低。
興行:北米累計5,830万ドル、世界累計2億750万ドル。製作費はおよそ2億ドル。業界推定の損益分岐は3億7,500万〜4億5,000万ドルで、各メディアはスタジオ損失を1億2,500万〜2億ドル規模と分析。
配信・パッケージ:デジタル配信は2024年10月29日開始、Max配信は12月中旬、UHD/BDは12月下旬に発売。
数字は「批評・観客ともに低評価」「商業的に苦戦」をはっきり示す。では、なぜそうなったのか。
【作品の方向転換】暴力よりも“音楽化された内面”へ

形式
物語は全体を通して法廷と収監施設を主な舞台とし、そこで展開するアーサーの心象風景を歌と演奏という手段で視覚化・聴覚化していく。
単なるミュージカルではなく、“抑制された舞台劇”とでも言うべき作りで、ジュークボックス的引用や既存楽曲の再解釈を織り交ぜた音楽劇の語法を全面的に採用している。
場面転換や心理の揺らぎに合わせて音楽が差し挟まれ、観客は現実と幻想の境界を行き来する感覚を味わうことになる。
音楽
スコアは前作に引き続きヒルドゥル・グドナドッティルが担当。
彼女は今回、静謐な旋律から突如として不協和音へと転じる緊張感を多用し、アーサーの精神状態を音そのもので表現した。
サウンドトラックは公開直前に発売され、観客は事前に楽曲の断片を耳にしながら劇場でその文脈を確認できる構成になっている。
また、既存曲の使い方も巧みで、歌詞やメロディがシーンの皮肉や二重の意味を担う瞬間が随所にある。
撮影
撮影監督はローレンス・シェア。
IMAX対応の大型デジタルカメラを駆使し、被写体との距離感を詰めるクローズアップや、寒色寄りの色調で覆うロングショットを織り交ぜることで、現実と妄想、そして舞台的虚構の3層を視覚的に切り分けた。
ステージ照明的な強い陰影や色分解を用いることで、心理描写と空間演出が密接に結びついている。
キャスト
主演のホアキン・フェニックスとレディー・ガガによる二重奏は、単なる共演以上の化学反応を見せる。
フェニックスは抑えた演技から突発的な感情爆発まで幅広く演じ分け、ガガは異物感のあるスター性と感情的な歌唱を武器に、物語の駆動力を担った。
その組み合わせは、互いの存在が相手のキャラクター造形を変容させるような相互作用を生み出している。
【賛否の分水嶺】どこで観客とすれ違ったのか
期待のミスマッチ
前作の“路上の暴力と社会怒りのスリラー”を期待して劇場に足を運んだ観客にとって、本作の法廷劇的構成と内面の歌は予想外であり、物語全体を**“動かない物語”と感じさせる要因となった。
法廷や取調室といった閉ざされた空間で長時間を過ごす構成は、前作の街頭や地下鉄といった開かれた暴力的場面と対照的で、観客の一部はその“静止”に強い戸惑いを覚えた。
CinemaScoreのDという評価は、開幕週における一般観客の失望感**や口口コミの勢いの低さを如実に示しており、事前の宣伝や予告編から想像されたテンポ感とのギャップが表面化した結果とも言える。
テンポと重心
各種レビューでは、法廷・収監パートの長引く滞留や、物語進行の最中に挿入される歌が流れを停滞させることが繰り返し指摘された。
楽曲が物語上の意味を持つ場面も多いが、動きの少ない構図や緩やかな進行は、スリラー的緊張感を求める層には不満として受け取られた。
一方で、そうした停滞の中にこそ活きるガガの圧倒的な存在感、ローレンス・シェアの構図と光の使い方、そして音響設計の緻密さは多くの批評家や映画ファンに高く評価され、作品の芸術性を支える要素として語られている。
“ジョーカーらしさ”の再定義
ヴァラエティほか複数の批評が指摘するように、本作は「ひび割れたジュークボックス・ミュージカル」としての側面を前面に押し出している。
ここでのジョーカー像は、派手な暴力や外面的記号ではなく、関係性の共依存(共有された狂気)そのものを主題として再構築された。
二人のキャラクターが互いの狂気を反射し合う物語構造は一部から強く支持されたが、一方で神話的カタルシスや象徴的暴力表現を期待していた層には十分に響かず、受容の温度差をさらに広げる結果となった。
【それでも光るもの】コアな映画・音楽ファンが拾い上げた価値

演出の一貫
歌は決して“派手な余興”として挿入されているのではなく、証言不可能な心理の代替言語として、物語の内側で重要な役割を果たしている。
旋律や歌詞はキャラクターの言葉にならない感情をすくい取り、それを直接観客に投げかける。
聴こえてくる音が“内的現実”なのか、それとも“舞台上の演出”としての虚構なのかがあえて判別しづらい編集がなされ、観客は常に両義的な感覚に晒される。
この信頼できない語りを音楽で更新する手法は、映像と音の境界を崩し、物語の認識構造そのものを揺さぶる試みとなっている。
二人の化学反応
ホアキン・フェニックスの硬質で計算された身体表現と、レディー・ガガの過剰なまでに強烈なスター性が交差することで、衝突ではなく偏向という特異なエネルギーが生まれる。
二人が同じ画面に収まる瞬間、視線のやり取りや立ち位置の変化が画面の重心をゆらし、その不安定さが関係性の危うさを浮かび上がらせる。
特に独白から曲へとシームレスに移行する場面では、呼吸の設計が緻密に練り込まれており、演技と録音、そして照明効果が三位一体となって初めて成立する、舞台にも匹敵する贅沢な見せ場が成立している。
視覚設計
舞台照明的な色分解やライティングを基調に、雨粒や水面反射などを駆使して画面に多層的な奥行きを与えている。
IMAXフレーミングによって生まれる“余白の圧”は、観客の視覚に持続的な緊張感を与え、フレームの外に広がる未知の空間を意識させる。
ここでは暴力描写の量で勝負するのではなく、知覚の暴力とも言える映像的圧迫感で物語を押し切る美学が貫かれており、視覚そのものが物語の一部として機能している。
評判の二極化を読み解く
批評家は割れる
RTとMCの数値が示す通り、称賛と落胆がほぼ拮抗している。
肯定派は「大胆な形式実験」「レディー・ガガの存在感と撮影の強度」「音楽と映像の融合による新鮮さ」などを高く評価し、本作を“型破りな挑戦”と位置づけている。
一方で否定派は「物語の停滞」「法廷パートへの依存」「“歌うジョーカー”というコンセプトの軽さ」に加え、「前作の衝撃的な暴力や緊張感が薄いこと」「テンポの緩慢さが緊張を削ぐこと」など、構造面と演出面の双方から批判を展開している。
観客は厳しい
CinemaScore DとRT観客31%という数字は、一般層の受容失敗を極めて明確に物語っている。
特に、予告編や前作から喚起された期待像(暴力性や社会的怒りを核とした物語)と、実際に提示された語り口(内面重視の法廷劇と音楽演出)の落差が大きすぎたため、口コミでは“裏切られた”という感想が目立った。
SNS上でも初週以降の熱量が急速に低下し、好意的レビューは一部の映画通や音楽ファンに限られる傾向が強まった。
興行の帰結
開幕週から期待を下回る成績でつまずき、2週目には81%減という急降下を記録。
これは大型スタジオ作品としては極めて異例の落ち込みで、北米・海外ともに持続的な観客動員が難しい状況に陥ったことを意味する。
口コミの弱さは数字に直結し、興行分析では「初動型で終わった典型例」として扱われている。
結果として、興行収入は製作費と宣伝費を賄うには遠く及ばず、商業的には大きな損失を抱える形となった。
“狙った失敗”説の背景

引用:https://lp.p.pia.jp/article/essay/37963/404566/index.html
一部の映画ファンや評論家の間では、「トッド・フィリップス監督はあえて大衆受けを捨てたのではないか」という説が根強く語られている。
この見解は、前作で得た圧倒的な商業的成功を意識的に反転させ、続編をあえて“反ブロックバスター”として構築することで、ジョーカーというキャラクターをより純粋な映画的実験の素材へと変換する戦略だったとするものだ。
ここでいう“反ブロックバスター”とは、観客に与えるカタルシスを意図的に削ぎ落とし、従来のエンターテインメント文法を外れた構造と語り口を採用する手法を指す。
大衆的な暴力や爽快感を拒否し、音楽・舞台演出・心理描写といった芸術性の高い要素に重心を移したのは、キャラクターを消費型の娯楽商品として消費されることから守る意図があったとも解釈できる。
このような方針のもとでは、興行的損失や低評価は必ずしも“失敗”ではなく、むしろ芸術的純度や監督の創作ビジョンを貫くための代償として受け入れられた可能性がある。
さらに、この挑戦は観客の分断や議論を誘発し、作品を単なる続編から文化的現象へと昇華させる効果すら狙っていたのではないかという推測もある。
興行・評判の両面で『ジョーカー2』は失速したが、それが意図的だった可能性も否定はできない。
大衆映画としては失敗だが、形式実験としては議論に値し、個々の場面はしばしば見事である。
ジョーカーは再び観客の予想を裏切った。それが成功か失敗かは、何を映画に求めるかで変わるだろう。
主要データ出典(抜粋・公開情報)
Rotten Tomatoes(スコア・公開日・米興収)
Metacritic(メタスコア/ユーザースコア)
CinemaScore(来場者評価)
Box Office Mojo/IMDb(興行詳細)
ヴェネツィア国際映画祭プログラム
各主要メディアのレビューとボックスオフィス記事。日付はいずれも作品公開〜2025年8月の公表値。
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