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リジー・ボーデンの終わらない日曜日

 1892年8月4日。マサチューセッツ州フォールリバーは、逃げ場のない酷暑に喘いでいた。朝から気温は上昇を続け、湿った空気が人々の肌にまとわりつく。

セカンド・ストリート92番地。

その質素な二階建ての邸宅に流れる時間は、周囲の喧騒とは無縁の、澱んだ静寂に支配されていた。

午前11時を回った頃、その静寂は一人の女性の叫び声によって、永遠に切り裂かれることになる。



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注意事項

※この記事には、歴史上の殺人事件に関する記述が含まれます。一部、事件現場の状況を示す画像や、読者によっては不快と感じられる表現を含む可能性があります。ご留意の上お読みください。




酷暑の断層

「マギー、早く来て! 父が死んでいる。誰かが入ってきて父を殺したのよ!」

叫んだのは、この家の次女、32歳のリジー・ボーデンである。台所の手伝いをしていたメイドのブリジット・サリバン(リジーがなぜか「マギー」と呼び続けていた女性)が居間に駆け込んだとき、そこには日常の風景を無残に食い破る光景が広がっていた。

馬毛のソファに横たわっていた主、アンドリュー・ボーデン。

アンドリュー・ボーデンの死体

町有数の資産家であり、冷酷なまでの倹約家として知られた男の顔面は、鋭利な刃物で幾度も叩きつけられ、もはや原型を留めていなかった。眼球は二つに割れ、鼻梁は砕け、鮮血が壁のポスターや背後のドアにまで飛散していた。

しかし、これは惨劇の序章に過ぎなかった。

通報を受け、混乱の中で駆けつけた隣人や警官たちが二階の客室へと足を踏み入れたとき、さらなる地獄が姿を現す。ベッドとドレッサーの間の狭い床に、継母のアビー・ボーデンがうつ伏せに倒れていた。

アビー・ボーデンの死体

彼女の背後から振り下ろされた衝撃は、頭蓋骨を無残に叩き割り、その一撃の重さを物語るように、床には肉片と血の海が広がっていた。

検視の結果、驚くべき事実が判明する。アビーが殺害されたのは午前9時半頃。そして夫のアンドリューが殺されたのは、その約1時間半後のことである。

この「空白の90分間」こそが、130年以上にわたる謎の核心となる。

妻が惨殺され、死体が横たわっている同じ屋敷の中で、夫は何の疑いも持たず、昼寝のためにソファに身を横たえた。そして、その間、娘であるリジーは階下で「アイロンをかけていた」「梨を食べていた」「納屋で釣りの重りを探していた」と、二転三転する証言を繰り返すことになる。

密室に近い家の中で、外部からの侵入者の形跡はどこにもなかった。返り血を浴びることなく、二人の人間を「解体」し、凶器を隠滅し、平然と助けを呼ぶことが可能な人間は誰か。

フォールリバーの住民たちが抱いた疑念は、瞬く間に全米へと波及していく。日曜学校の教師を務め、慈善活動に勤しむ「淑女」リジー・ボーデン。

彼女の内側に潜む深淵が、この日、酷暑の断層から溢れ出したのである。


家という名の聖域、あるいは監獄

リジー・ボーデン・ハウス

 惨劇の舞台となったセカンド・ストリートの邸宅は、アンドリュー・ボーデンの歪んだ精神構造を具現化したような場所であった。

当時のアンドリューは、現在の価値観に換算すれば数十億円を下らない資産を持つ、町有数の実業家である。銀行の頭取を務め、広大な不動産を所有していた彼なら、街の北側に位置する「ヒル」と呼ばれる上流階級の居住区に、壮麗な屋敷を構えることも容易だったはずだ。

しかし、彼はそれを拒んだ。利便性と節約という名目のもと、工場地帯に近い騒々しい界隈の、古びた家屋に固執し続けたのである。

その屋敷には、富豪の家には不可欠なはずのガス灯も、屋内の水道設備もなかった。冬の凍てつく夜も、夏の湿った熱帯夜も、一家はバケツで水を運び、ランプの火で生活を営んでいた。この物理的な不自由さは、そのまま家族の精神的な閉塞感へと直結していく。

特に、次女リジーと長女エマにとって、この家は「聖域」ではなく「監獄」に他ならなかった。

父アンドリューの吝嗇は、単なる節約の域を超え、一種の支配として機能していた。彼は家族が使う一銭の重みまでを掌握しようとし、娘たちが求める社会的な地位や相応の暮らしをことごとく切り捨てた。

一方で、後妻であるアビーに対しては、彼女の親族に不動産を譲渡するなど、娘たちの目には「遺産の簒奪」と映る不可解な寛容さを見せる。

この家屋の構造自体も、住人たちの不信感を象徴していた。一階と二階を繋ぐ階段は二箇所あったが、それぞれの扉には厳重に鍵がかけられ、家の中でありながら互いの領域を侵せない「見えない壁」が築かれていた。

家族は食事の際以外、顔を合わせることすら稀であり、それぞれが自室の鍵を握りしめて生活していたという。

事件の数日前、ボーデン家を異様な事態が襲っている。家族全員が激しい食中毒に見舞われたのだ。アビーは「毒を盛られた」と隣人に漏らしていたが、アンドリューはそれを単なる食あたりとして一蹴し、腐りかけたマトン(羊肉)を翌日も食卓に並べるよう命じた。

このマトンの煮込みが、腐敗臭を放ちながら台所に鎮座していたあの日。

リジーの胸中に去来していたのは、父への敬愛か、それとも出口のない絶望だったのか。彼女は事件の前日、薬局で殺鼠剤として使われる「青酸」を購入しようとして断られている。

店員が不審に思って拒絶した際、彼女は「ドレスの汚れを落とすためだ」と、あまりに不自然な弁明を残して店を去った。

厳格な父、疎ましい継母、そして鍵の閉まった無数の扉。

フォールリバーの「淑女」として振る舞うリジーの精神は、この息詰まるような邸宅の暗闇の中で、ゆっくりと、しかし決定的に変質していったのである。彼女にとって、斧を振り下ろすという行為は、父を殺すためではなく、自分を縛り付けるこの「家」という概念を破壊するための儀式であったのかもしれない。


消えたドレスと青い炎

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 惨劇から数日、ボーデン邸は警察官と好奇の目にさらす群衆、そして消えない血の匂いに包まれていた。当時の警察捜査は、現代の私たちが知るものとは程遠い、未熟な経験則の積み重ねに過ぎなかった。指紋捜査もなければ、血液型の判別すらままならない。

現場に踏み込んだ捜査員たちは、泥靴で床を汚し、遺品を素手で扱い、真実の断片を次々と踏みにじっていった。

その混乱の最中、捜査の焦点は一点に絞られる。

「なぜ、リジーの衣服には血痕が一切付着していなかったのか」という謎である。

被害者の頭蓋を粉砕するほどの激しい打撃を加えれば、犯人は返り血の霧を浴びるはずだ。しかし、事件直後のリジーは、染み一つない青いシルクのドレスを纏い、冷静に隣人を迎え入れている。捜査陣は、彼女が全裸で犯行に及んだのか、あるいは巧みに着替えたのかという仮説に突き当たった。

その疑念を裏付けるような決定的な光景を、一人の友人が目撃している。事件から三日後の日曜日、リジーは台所のストーブの前に立ち、一着のドレスを火の中にくべていた。

「何をしているの」という問いに対し、彼女は表情一つ変えずに答えたという。 「ペンキがついて汚れてしまったから、焼いているのよ」

この「青い炎」とともに、事件の有力な証拠は灰へと帰した。警察が邸内の徹底捜索を行ったのは、その数日後のことである。

地下室の灰の中から、柄の折れた手斧の頭が発見された。

それは念入りに洗浄され、意図的に灰をまぶして隠蔽されていたが、当時の技術ではそれが凶器であると断定する術はなかった。

警察にとって、リジーを逮捕することは至難の業であった。 当時のアメリカ社会において、ヴィクトリア朝の道徳観は絶対的な権威を持っていた。日曜学校の教師であり、禁酒運動にも熱心な「中流階級の淑女」が、斧を振り回して親を解体するなどという事態は、論理以前に「生理的な不可能」として処理されようとしていたのである。

しかし、予審における彼女の証言は、あまりに不自然な矛盾に満ちていた。

「父が帰宅したとき、私は裏庭の納屋にいた」
「暑い中、納屋の二階で釣りの重りを探していた。20分か30分ほど」

真夏の昼下がり、換気のない納屋の二階は摂氏40度を超える地獄のような熱気だったはずだ。そこで30分間も釣りの道具を探していたという主張を、誰が信じられるだろうか。

さらに、彼女の言動には、悲劇のヒロインを演じているような、どこか芝居がかった不気味さが漂い始めていた。泣き崩れることもあれば、冷徹なまでに事務的な口調に戻る。彼女の瞳の奥に宿っていたのは、家族を失った悲しみではなく、ついに手に入れた「自由」への静かな高揚感ではなかったか。

1892年12月、リジー・ボーデンはついに二重殺人の容疑で正式に起訴される。 全米の新聞は「斧を持つ淑女」のセンセーショナルな物語を報じ、大衆は固唾を飲んで裁判の幕開けを待った。

それは、一人の女性の罪を問う場であると同時に、当時の社会が抱いていた「女性観」そのものを裁く、壮大な法廷劇の始まりでもあった。


審判の日の沈黙

裁判中のリジー・ボーデン、ベンジャミン・ウェスト・クリネディンスト撮影

 1893年6月、マサチューセッツ州ニューベッドフォード。全米が注目するなか、リジー・ボーデンの裁判が幕を開けた。法廷に現れたリジーは、黒い喪服に身を包み、手には扇子と聖書を携えていた。その姿は、冷酷な殺人者というよりも、悲劇に見舞われた敬虔なキリスト教徒そのものであった。

検察側は、動機として「遺産相続を巡る確執」を提示し、ドレスを焼いた事実や青酸購入の試みといった状況証拠を積み上げた。しかし、彼らの前には、当時の司法制度と社会通念という巨大な壁が立ちはだかっていた。

弁護側が展開した戦略は、きわめてシンプルかつ強力なものだった。

「リジー・ボーデンのような上流階級の淑女に、このような野蛮な犯行が可能だろうか?」

弁護人のジョージ・ロビンソン元州知事は、陪審員である12人の男性たちに向かって、執拗に訴えかけた。当時の家父長制社会において、女性は「守られるべき、か弱き存在」であり、物理的な暴力、ましてや実の親を解体するような残虐性は、彼女たちの生理にそぐわないと信じられていたのである。

この「ジェンダーという名の死角」こそが、リジーに与えられた最大の武器となった。

裁判中、検察側が決定的な証拠として提示しようとした「リジーの矛盾だらけの予審証言」は、法的手続きの不備を理由に証拠採用を却下された。

さらに、彼女が青酸を買おうとした事実までもが、直接的な殺害手段ではないとして排除されていく。検察の包囲網は、法廷という聖域の中で、一枚ずつ剥がれ落ちていった。

そして、決定的な瞬間が訪れる。

検察側が、犠牲者である父アンドリューの「切断された頭蓋骨」を証拠品として法廷に持ち出したとき、リジーは劇的に失神したのである。 この失神が、緻密に計算された演技だったのか、あるいは抑圧された精神の限界だったのかは誰にもわからない。

しかし、この光景を目の当たりにした陪審員たちの心には、「このような繊細な女性が、あのような凄惨な犯行を行えるはずがない」という確信が刻み込まれた。

評議の結果が出るまでに、わずか1時間余りしかかからなかった。

1893年6月20日、午後4時35分。
陪審員長が告げた言葉は、

「Not Guilty(無罪)」であった。

その瞬間、法廷内には歓喜の叫びが響き渡った。女性たちはハンカチを振り、リジーは涙を流して弁護士にすがった。彼女は勝ったのである。法の裁きを逃れ、父が遺した莫大な資産を手にし、自由の身となったのだ。

しかし、裁判所を一歩外に出た彼女を待っていたのは、勝利の凱旋ではなかった。 法は彼女を裁かなかったが、フォールリバーの街と、そこに住む人々は、彼女を放免しなかった。

1893年、ボーデンを無罪とした陪審員

判決後、リジーが教会に足を踏み入れると、人々は一斉に席を立ち、彼女の周囲には不自然なほどの「空白」が生まれたという。

彼女が手に入れた「自由」は、同時に、永遠に解けることのない疑念の檻でもあった。32回振り下ろされたとされる斧の音は、法廷の静寂に消えたのではなく、彼女のその後の人生において、重く冷たく響き続けることになる。


メイプルクロフトの亡霊

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 無罪判決からわずか数週間後、リジー・ボーデンは長年憎んでいたセカンド・ストリートの家を捨てた。彼女は父から相続した莫大な遺産を惜しみなく投じ、フォールリバーで最も格式高いエリアである「ヒル」に、壮麗なヴィクトリア調の邸宅を買い取った。

彼女はその屋敷に「メイプルクロフト」という名を刻み、ついにかねてからの念願であった「上流階級の淑女」としての生活を手に入れたのである。

しかし、その門扉が閉じられたとき、リジーの時計の針はあの日から止まったままとなった。

彼女が望んだ華やかな社交界は、殺人容疑をかけられた女を最後まで受け入れることはなかった。かつての友人たちは彼女を避け、教会での居場所も失われた。

子供たちは彼女の屋敷の前で「リジー・ボーデンは斧を持って、お母さんを40回、お父さんを41回叩いた」という有名な数え歌を歌い、窓に石を投げつけた。

Lizzie Borden took an axe(リジー・ボーデンは斧を取り)

And gave her mother forty whacks.(母さんを40回打った)

And when she saw what she had done (自分がした結果に気づき)

She gave her father forty-one.(今度は父さんを41回打った)

リジーはこの拒絶に対し、逃避ではなく「傲慢な沈黙」で応えた。彼女は決してこの町を離れようとはしなかった。自分を怪物と呼ぶ者たちの視線にさらされながら、豪邸の中で孤独に、しかし贅沢に暮らし続けることを選んだのである。

晩年の彼女が心を通わせたのは、人間ではなく、屋敷に集まってくる小鳥たちや数匹の犬、そして当時スキャンダラスな存在であった演劇界の俳優たちだけだった。

Emma Lenora Borden

1905年、唯一の味方であった姉のエマまでもが、リジーとの間に「決定的な亀裂」が生じたとして、静かにメイプルクロフトを去った。それ以降、二人が死ぬまで言葉を交わすことは二度となかった。姉が目撃した、あるいはリジーが告白した「真実」が何であったのかは、今も深い闇の中にある。

1927年6月1日。リジー・ボーデンは慢性的な疾患により、66歳でその生涯を閉じた。彼女の遺言に従い、葬儀は極秘裏に行われ、参列者はごくわずかな使用人のみであったという。

彼女の亡骸は、皮肉にも彼女が殺したと目される父アンドリュー、そして継母アビーと同じ墓所に、何事もなかったかのように埋葬された。

リジー・ボーデンとは、
一体何者だったのか。

近年のプロファイリング技術は、彼女が幼少期から抱えていたであろう精神的欠陥や、父からの虐待に対する過剰防衛の可能性を指摘している。あるいは、エド・ゲインのように、歪んだ家庭環境が生み出した純粋な「悪」の化身であったのかもしれない。

しかし、物的な証拠が失われた今、あらゆる仮説は推測の域を出ない。

彼女が死の間際まで守り抜いた沈黙。それは、自らの罪に対する反省ではなく、自分を虐げた世界に対する、冷徹なまでの復讐の完了だったのではないか。

フォールリバーの街には、今もあの日の熱気が残っている。かつての惨劇の舞台は現在、ベッド・アンド・ブレックファストとして一般に開放され、観光客はリジーが食べたのと同じ献立を口にし、父が絶命したソファの複製の上で夜を過ごす。

リジー・ボーデンの日曜日は、今も終わっていない。

彼女が振り下ろした斧の残響は、歴史の断層から、私たちの倫理と理性を静かに嘲笑い続けているのである。


参考文献

  • Edmund Pearson, "The Trial of Lizzie Borden" (1937) 事件から数十年後に編纂された、最も古典的かつ詳細な裁判記録の一つ。客観的な視点から当時の法廷でのやり取りを再現している。

  • Victoria Lincoln, "A Private Disgrace: Lizzie Borden by Daylight" (1967) フォールリバー出身の著者が、地元の伝承や独自の調査に基づき執筆。リジーが抱えていたとされる精神的疾患(てんかん説)に踏み込んだ意欲作。

  • Arnold R. Brown, "Lizzie Borden: The Legend, the Truth, the Final Chapter" (1991) 「ボーデン家の隠し子」による犯行説を唱える。従来の「リジー犯人説」に疑問を投げかける、もう一つの視点を提供している。

  • Cara Robertson, "The Trial of Lizzie Borden" (2019) 近年の法学的・歴史学的知見に基づいた最新の分析。当時の新聞報道がいかに世論を形成し、裁判に影響を与えたかを詳細に解剖している。

  • Fall River Historical Society (公式資料) リジー・ボーデンに関する世界最大のアーカイブ。彼女の直筆の手紙や遺品、当時の警察資料を保管しており、本稿の細部描写の裏付けとしている。

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