別腹の向こう側 ~Beyond the separate stomach~
杯が過ぎた夜、ラーメン屋の灯りは妙に明るく見える。
バーを出たのは、夜半を過ぎていた。
いつもより杯が進んでいた。理由はわからない。気候のせいかもしれないし、話が弾んだせいかもしれない。
あるいは、飲む理由を探すために飲んでいたのかもしれない。
路地を曲がったとき、明かりが見えた。
ラーメン屋だった。
腹は満ちていた。
バーで、マスターご自慢の品のいいサンドイッチを食したところだ。
それでも足が、勝手に引き寄せられていった。
パラケルススという15世紀の錬金術師がいる。
医学の父とも呼ばれるこの奇人は、こんな言葉を残した。
「毒か薬かは量が決める」と。
あらゆるものは毒になりうる。あらゆるものは薬になりうる。
その境界は物質の性質ではなく、量と閾値が決める。
要は許容量と感受性の問題だ。
食べ物飲み物、体に取り込むもの全てにそれは当てはまる。
水や空気にさえ致死量があることを、実は多くの人は気付かずにいる。
いわんやそれは、信仰や愛など、目に見えないものにも及ぶものだ。
同じ一杯が、ある人には扉を開け、ある人には鍵をかける。
それは体質の問題だけではなく、その人が持つ記憶・感情・文脈の問題でもある。つまり閾値と許容量は固定した数値ではなく、その人の人生が決める可変の境界線だ。
さて、今夜の私は、何杯目から許容量を越えたのだろう。越えた瞬間に気づいていたか。
正直に言えば——気づいていなかった。
いや、うすうす気づいていたかもしれない。それでも杯を置かなかった。
神経科学が教えてくれることがある。
人がある行動を「したい」と意識するより、0.2秒早く、脳はすでに動き出している。報酬回路は結果を待たない。予測した瞬間に発火する。
ラーメン屋の灯りを視界に捉えた瞬間、私の脳はすでに湯気の匂いを先取りしていた。
「食べたい」という意志が足を動かしたのではない。
足が動いてから、「食べたい」という言葉が追いついたのだ。
スピノザは言う。
人は自分の欲望の原因を知らないから、自由だと思い込んでいる、と。
石が丘を転がり落ちながら「私は自分の意志で転がっている」と思い込む。私たちが「決断」と呼ぶものの多くは、すでに起きてしまったことへの、
後付けの物語かもしれない。
ではあの夜、暖簾をくぐった私は、自由だったのか。
報酬回路に命じられた兵士だったのか。
ヒュームはもう一枚、底を抜く。
自己とは、印象と観念の絶え間ない束に過ぎない——と彼は言う。
記憶、感情、感覚が一瞬結びついたもの。アルコールが回った夜、その束は少しほどける。「しっかりした私」という幻想が薄くなる。
だとすれば、あの夜の私は、最も「私」に近かったとも言える。
鎧を脱いだ束が、湯気に向かって歩いていた。
40年、カウンターの内側に立ってきた。
同じ光景を何千回も見た。明らかに過ぎている客がいる。
止めた夜もある。止めなかった夜もある。
どちらが正しかったか、今もわからない。
いや、これは正しさを基準にするものではないのだろう。
わかっているのは——人が「もう一杯」と言う瞬間の顔が、その人の最も正直な顔だったということだ。
社会的な自己が少し溶けて、欲望の輪郭だけが残る。
ただ、それを醜いと思ったことは、一度もない。
酔いのせいもあっただろうか。
たった数十メートルの間に、意味のあるようなないような逡巡をめぐらせたのち結局、暖簾をくぐった。
カウンターに座った。醤油、と言った。気づいたら言っていた。
鉢が来た。
湯気が顔にかかる。眼鏡が曇る。
箸を割りながら、ふと思った。
これは敗北ではない。
欲望の原因を知らなくていい夜が、人間にはある。
回路に従うことが、時に魂の正直さの証明になる。
スピノザが言う、存在が自己を維持しようとする力(コナトゥス)は、
禁欲の中にあるのではなく、解放の瞬間に最も純粋に現れる。
深夜のラーメンは、魂の救済だった。
ラーメンはうまかった。
