埋没 第2話「秘密」
1. 会社での日常
十一月に入り、朝晩の冷え込みが厳しくなってきた。
月曜日の朝、里江は会社のデスクで、いつも通り校閲の仕事を進めていた。パソコンの画面には、新人作家の恋愛小説の原稿が表示されている。文章を一行ずつ読み、誤字脱字をチェックし、事実誤認がないか確認する。地味だけれど、集中力が必要な仕事。
でも、今日は集中できない。
同じ行を、何度も読み返している。文字が頭に入ってこない。
手術まで、あと二十七日。
カレンダーの赤い丸が、頭の中にちらつく。十一月二十九日。金曜日。あと四週間を切っている。
里江は、デスクの引き出しを開けて、スマホを取り出す。ロックを解除して、カレンダーアプリを開く。十一月二十九日の予定欄には、「通院」とだけ書いてある。
メールアプリを開き、クリニックから届いたメールを、もう何度も読んでいる。手術前日と当日の注意事項、持ち物リスト、料金の確認。
すべて、頭に入っている。でも、また読んでしまう。
「里江」
隣の席の香織が、声をかけてくる。
里江は、慌ててスマホの画面を閉じる。
「ん?」
「さっきから、スマホばっかり見てない?」
「ああ、うん。ちょっと、用事があって」
「そっか」
香織は、それ以上聞かなかった。自分の仕事に戻る。
里江は、スマホを引き出しにしまった。鍵をかける。それから、パソコンの画面に向き直る。
原稿を読むが、やっぱり集中できない。
主人公が、彼氏に告白される場面。幸せそうな場面。
里江は、その文章を読みながら、自分のことを考える。
彼に振られたこと。駅で、新しい彼女を見たこと。あの女性の、ぱっちり二重の目。
あと二十七日で、私も変わる。
二重になる。
そうすれば、何か変わるだろうか。
2. 香織とランチ
昼休み。香織が「一緒に行こう」と誘ってくれる。
社食へ向かう。エレベーターに乗って、下の階へ。社食のフロアは、いつも混んでいる。トレーを持って列に並ぶ。今日の定食は、生姜焼き。それを注文して、テーブルに座る。
窓際の席。オフィスビルの谷間から、秋の空が見える。
「最近、忙しい?」
香織が、箸を持ちながら聞く。
「まあまあ」
「そっか。なんか、元気ないなって思って」
里江は、生姜焼きを一口食べる。
「そんなことないよ」
「でも、ずっとスマホ見てたし」
香織が、少し心配そうな顔をする。
「何かあった?」
里江は、迷う。ここで言うべきか。整形のこと。手術のこと。
香織なら、分かってくれるかもしれない。否定しないかもしれない。
「実は……」
言いかける。
香織が、箸を置いて、こちらを見る。期待するような、心配するような目。
「……ちょっと、体調が良くなくて」
結局、違うことを言ってしまう。
「え、大丈夫?」
「うん。たぶん、疲れてるだけ」
「無理しないでね」
香織が、優しく言う。
「ちゃんと病院行った方がいいよ」
「うん、考えてる」
嘘をつく。また、嘘をついた。
香織は、また食べ始め、世間話をする。会社のこと、最近見たドラマのこと。
里江は、相槌を打つ。でも、心の中では、ずっと後悔している。
なんで言えないんだろう。
香織は、親友だ。高校からの付き合い。大学も同じ、就職先も同じ。一番信頼している友達。
でも、言えない。
もし、否定されたら。もし、「そんなことしなくていいのに」と言われたら。
その言葉を聞くのが、怖い。
食事を終えて、オフィスに戻る。エレベーターの中で、香織が言う。
「何かあったら、いつでも相談してね」
「ありがとう」
里江は、微笑むが、きっと相談はしない。できない。
3. 香織とカフェで
土曜日の午後。香織とカフェで会う約束をした。
駅前のカフェ。窓際の席に座り、香織はカプチーノ、里江はカフェラテを注文する。
「久しぶりだね、こうしてゆっくり会うの」
「うん」
「仕事以外で、ちゃんと話すの、いつぶりだろう」
「そうだね」
注文した飲み物が運ばれてくる。カフェラテの表面に、ハートのラテアートが描かれている。里江は、それを見つめながら、スプーンで砂糖を入れる。
香織が、最近の話をする。会社の新人が失敗した話、上司が変なことを言った話、気になっているドラマの話。
里江は、笑顔で相槌を打つ。でも、心の中では、タイミングを待っている。
今日こそ、言おう。整形のこと。手術を受けることを。
「ねえ、香織」
「ん?」
里江が、口を開く。
「実は……」
言葉が、喉の奥で詰まる。香織が、じっと里江を見ている。
「最近、仕事で悩んでることがあって」
また、違うことを言ってしまう。
「そうなの? 何?」
「あの、新しいプロジェクトに入れられそうで、プレッシャーで」
「そっか。でも、里江なら大丈夫だよ。真面目だし、仕事できるし」
香織が、励ます。
「ありがとう」
里江は、カフェラテを飲む。温かい液体が、喉を通っていく。
言えなかった。また、言えなかった。
その後も、会話は続く。香織が、明るく話してくれる。里江は、笑顔で相槌を打つ。でも、心の中では、自分に苛立っている。
一時間ほどして、カフェを出る。駅で別れる。
「じゃあね」
「うん。また」
香織が、手を振る。里江も、手を振り返す。
香織が改札を通って、見えなくなる。
里江は、しばらくその場に立っていた。
結局、何も言えなかった。何も変わらなかった。
一人で帰る道。人混みの中を歩きながら、胸の奥が重くなる。
4. 母からの電話
日曜日の夜。里江は、ソファに座ってテレビを見ていた。バラエティ番組。芸能人が、スタジオで笑っている。
スマホが鳴る。画面を見ると、母からの着信。
少し迷ってから、通話ボタンを押す。
「もしもし」
「里江? 今、大丈夫?」
「うん、大丈夫」
「あのね、来週の日曜日なんだけど」
「お兄ちゃんのところの子の、一歳の誕生日なの」
「ああ、そうなんだ」
「みんなでお祝いしようと思って。里江も来られる?」
里江は、カレンダーを見る。来週の日曜日。十一月十日。手術まで、十九日前。
「日帰りでいいから。お兄ちゃんたちも来るし」
断る理由が、思いつかない。仕事があるわけでもない。予定があるわけでもない。
「分かった。行く」
「本当? よかった」
母の声が、明るくなる。
「じゃあ、お昼前に来てくれる? お昼ごはん、一緒に食べましょう」
「うん」
「楽しみにしてるわね」
「うん。じゃあね」
電話を切る。
里江は、スマホを膝の上に置いた。実家に帰る。母に会う。手術の十九日前。
もし、母に整形のことを言ったら、何と言われるだろう。
きっと、反対される。「お金の無駄」「生まれたままの顔が一番」と言われる。
だから、言わない。言えない。
テレビの音が、小さく聞こえている。
里江は、ソファに座ったまま、しばらく動かなかった。
5. 実家へ帰省
十一月十日。日曜日。
里江は、朝早くに起きて支度をした。電車で二時間半ほどかかる実家まで、久しぶりの帰省。前回帰ったのは、いつだっただろう。半年ほど前だろうか。
電車に乗り、窓の外を見る。都会の風景が、だんだんと田舎の風景に変わっていく。ビルが減り、田畑が増える。見慣れた景色。子どもの頃から見てきた景色。空が、広い。
最寄り駅に着く。改札を出ると、母が待っていた。
「里江、久しぶり」
「うん」
母は、少し痩せたように見える。髪に、白いものが増えた気がする。でも、元気そう。
「元気そうね」
「お母さんも」
駐車場へ向かう。母の運転する車に乗り込む。助手席に座ると、車の中の匂いが懐かしい。芳香剤の香り。
車が動き出す。母が、運転しながら話す。
「お兄ちゃんたち、もう家に着いてるわよ」
「そうなんだ」
「子どもが、すごく大きくなってて。もう歩けるのよ」
「へえ」
「里江も、早く結婚して、子ども産まないとね」
また、その話。里江は、窓の外を見る。流れていく景色。田んぼ、小さな家、山。
「うん」
短く答える。それ以上、何も言わない。
車は、見慣れた道を走る。コンビニ、小学校、公園。子どもの頃、遊んだ場所。通学路。何も変わっていない。
家に着く。二階建ての一軒家。玄関の前に、兄の車が停まっている。
「着いたわよ」
母が、車を停める。
里江は、深呼吸をしてから、車を降りた。
6. 母の言葉
「ただいま」
「おかえり」
父の声が、奥から聞こえる。
リビングに入ると、兄夫婦と、甥がいた。兄は、ソファに座ってスマホを見ている。義姉は、甥を抱いている。甥は、もうすっかり大きくなっている。
「久しぶり」
里江が言うと、兄が顔を上げる。
「おお、里江。元気だった?」
「まあまあ」
甥が、里江を見る。大きな目で、じっと見つめる。それから、顔をしかめて泣き出す。
「ごめんなさい、人見知りの時期なの」
義姉が、慌てて甥をあやす。
「大丈夫」
里江は、微笑む。でも、心の中では少し傷ついている。
昼食の準備を手伝う。母と台所に立ち、野菜を切り、皿に盛る。母が、話しかけてくる。
「仕事、順調?」
「うん、まあまあ」
「彼氏は?」
また、その質問。
「……いない」
「そう」
母の「そう」という言葉が、重い。それ以上は聞かない。でも、その沈黙が、かえって重苦しい。
父、母、兄夫婦、里江、そして甥。久しぶりの家族の集まり。
ケーキでお祝いをする。甥は、ケーキを手づかみで食べて、顔中クリームだらけになる。みんなが笑い、写真を撮る。幸せな光景。
でも、里江は、その輪の中にいながら、どこか遠くにいるような気がした。
午後、兄夫婦は帰っていき、父は二階の部屋へ。静かになったリビングに、母と里江だけが残る。
テレビがついている。ニュース番組から、バラエティ番組に切り替わる。
CMになる。化粧品のCM。それから、美容外科のCM。
「二重整形、初回限定価格」
女性の顔が、画面に大きく映る。ビフォーアフター。一重から二重へ。
里江の手が、止まる。お茶を飲もうとしていた手が、宙で止まる。
母が、テレビを見ながら言う。
「ふうん」
それから、少し間を置いて。
「最近、こういうの多いわね」
母が、続ける。
「でも、整形する人の気持ち、分からないわ」
里江の心臓が、早く打つ。
「生まれたままの顔が一番よ」
その言葉が、胸に刺さる。
母は、テレビを見たまま、続ける。
「お金の無駄よね。そんなことにお金使うなら、他のことに使えばいいのに」
里江は、何も言えない。ただ、お茶を飲む。温かい液体が、喉を通っていく。でも、味は分からない。
母が、こちらを見る。
「里江は、どう思う?」
里江は、顔を上げる。母が、こちらを見ている。
「……分かんない」
「そう? 私は、やっぱり自然が一番だと思うわ」
母は、そう言って、また テレビに視線を戻す。
里江は、何も答えなかった。ただ、黙って座っている。
テレビでは、次の番組が始まっている。お笑い芸人が、スタジオで騒いでいる。
里江は、胸の奥が重くなるのを感じていた。
7. 自分の部屋で
夕食を終え、片付けを手伝ってから、里江は自分の部屋に戻った。二階の奥、昔使っていた部屋。
ドアを開けると、そこには学生時代のままの部屋がある。勉強机、本棚、ベッド。壁には、昔貼ったポスター。もう色あせている。アイドルグループのポスター。今は、もう解散している。
ベッドに座り、部屋の中を見回す。本棚には、高校時代の教科書、大学の教科書。もう使わない参考書。昔読んだ小説。
窓の外を見ると、変わらず小さな木が植えてある。父が大切に育てている木。秋の風に、葉が揺れている。
母の言葉が、頭の中で繰り返される。
「生まれたままの顔が一番」
「お金の無駄」
じゃあ、私は何なんだろう。この顔で苦しんできたのに。毎日、アイプチをつけて、偽物の二重を作ってきたのに。彼に振られて、自分の顔が嫌いで、変わりたいと思ったのに。
それは、間違っているのか。
お金の無駄なのか。
涙が出そうになる。でも、泣かない。泣いたら、母に聞かれるかもしれない。下の階に、声が届くかもしれない。
手持ち無沙汰にベッドに横になる。子どもの頃から見てきた白い天井。何も変わらない。
スマホを取り出して、カレンダーアプリを開く。手術の日付。十一月二十九日。あと十九日。赤い丸がついている。
その日が来れば、変わる。母が何と言おうと、変わる。
でも、母には言えない。一生、言えないかもしれない。
身体を起こし窓の外を見る。庭の木が、風に揺れている。静かな夜。遠くで、犬の鳴き声が聞こえる。
里江は、しばらくそのまま横になっていた。
8. 帰りの電車
翌朝、早めに実家を出ることにした。
「もう帰るの?」
母が、少し残念そうに言う。
「うん。明日、仕事だから」
「そう。また帰っておいでね」
「うん」
母が、駅まで送ってくれる。車の中で、また母が話す。
「体に気をつけてね」
「お母さんも」
「ちゃんと食べてる?」
「食べてるよ」
「彼氏、できたら教えてね」
「うん」
ほどなく駅に着く。
「じゃあね」
母が、手を振る。里江も、手を振り返す。
改札を通り、ホームに上がり、電車を待つ。数分後、ちょうど電車が来る。
座席に座って、どこを見るでもなく、窓の外を見る。駅が遠ざかる。母の姿は、もう見えない。
里江は、窓に映る自分の顔を見る。一重の目。アイプチをつけているから、二重に見える。でも、偽物。
母の言葉が、まだ耳に残っている。
「生まれたままの顔が一番」
でも、私は変わりたい。
その気持ちは、消えない。母が何と言おうと、消えない。
もう一度窓の外に視線を移す。田舎の風景が、流れていく。田畑、小さな家、山。それから、だんだんと都会の景色に変わっていく。
里江は、スマホを取り出し、カレンダーアプリを開く。何度同じことを繰り返しているかわからない。
十一月二十九日。
あと十九日。
その日を、じっと待っている。
誰にも言わない。誰にも理解されなくていい。
これは、私だけの決断。私だけの秘密。
そう思うことで、少しだけ、楽になった。
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