月2回の恋人たち
第3章 - 市場終了後の再会
午後3時32分。取引終了から2分が経った。
ゆめは画面を見つめたまま動けなかった。今日の利益は12万円。悪くはない。でも昨日の混乱を引きずって、まだ本調子ではなかった。
スマホを手に取る。健太からのメッセージはない。昨夜、長いやり取りをした後、「今度ゆっくり会って話そう」ということになっていた。
でも「今度」がいつなのか、どこで会うのか、何を話すのか、具体的には決まっていなかった。
ゆめは立ち上がって、窓の外を見た。MELLOWが見える距離ではないけれど、あの方向に健太がいる。今頃、午後のコーヒーを淹れている頃だろう。
昨日の混乱は収まった。でも、健太と顔を合わせるのはまだ少し怖かった。
3時45分。意を決して、メッセージを送った。
『お疲れさま。今日は落ち着いて取引できた。時間ある時に会えるかな』
送信した後、すぐに後悔した。「会えるかな」なんて、まるで恋人らしくない。でももう送ってしまった。
5分後、返事が来た。
『お疲れさま!良かった。今日は5時で上がり予定。MELLOWで待ってるか、どこか他の場所でもいいよ』
健太らしい配慮だった。MELLOWだと他の客やスタッフがいるから、込み入った話はしにくい。でも他の場所だと、それはそれで特別感がありすぎる気がした。
『MELLOWで大丈夫。いつもの席空いてるかな』
『確保しておく。ゆっくり話そう』
4時。ゆめは投資の記録をつけながら、今日の健太との再会に向けて心の準備をしていた。
何を話すんだろう。昨夜のLINEで大体の気持ちは伝え合ったけれど、実際に顔を合わせるとまた違うかもしれない。
一昨日の朝の微妙な空気。昨日の9時間の沈黙。今日の再会。
この3日間で、関係が変わった。でもどう変わったのか、まだはっきりしない。
4時30分。シャワーを浴びて、服を選ぶ。いつものカジュアルな格好でいいのか、それとも少しきちんとした方がいいのか。
結局、いつものジーンズとニットにした。変に気を遣いすぎるのも変だった。
5時10分。MELLOWの扉を開く。
健太がカウンターにいた。客は数人。いつもより静かな時間帯だった。
目が合うと、健太が小さく微笑んだ。その笑顔が、ゆめの緊張を少し和らげた。
「お疲れさま」
いつもの挨拶。でも声のトーンが、少し違った。
「お疲れさま。今日はどうだった?」
「まあまあかな。昨日よりは集中できた」
「良かった」
健太がコーヒーを淹れながら、時々こちらを見る。他の客がいるから、込み入った話はできない。
「後ろの席、空いてる」
健太がそっと耳打ちした。MELLOWの一番奥にある、半個室のような席。カップルがよく使う場所だった。
ゆめは頷いて、奥に向かった。
5時30分。夕刻になり主婦たちが引きあげると客が減り始める気がする。健太がコーヒーを持って席にやってきた。
「お疲れさま」
改めて向き合うと、やっぱり少し気まずかった。一昨日の夜のことが、二人の間に見えない壁を作っているような感じ。
「昨日は、ごめん」
ゆめが先に口を開いた。
「謝ることじゃないよ。俺も混乱してたから」
健太の声は優しかった。でも、どこかぎこちなさが残っていた。
「でも、急に連絡しなくなって」
「俺だって、どうしていいかわからなかった。変なメッセージ送って、余計混乱させちゃったかもしれないし」
二人とも、相手を気遣いすぎていた。それが逆に、会話を難しくしていた。
「あの」
「うん」
「一昨日の夜のこと、本当に良かったと思ってる」
ゆめがそう言うと、健太の表情が少し明るくなった。
「俺も。でも、その後の関係がよくわからなくて」
「そうなんだよね。セックスしたからって、急に変わるわけじゃないのに、なんか意識しちゃう」
「そう。普通に接していいのか、特別扱いした方がいいのか」
お互いの気持ちが同じだったことが確認できて、空気が少し軽くなった。
6時。店内の客は、ゆめたちだけになった。
「正直に言うと」
健太が少し声を落とした。
「一昨日の朝、なんて話しかけていいかわからなくて。『昨夜のこと』って話題に出すのも変だし、何も言わないのも変だし」
「わかる。私も同じ。お礼を言えばいいのか、感想を言えばいいのか」
「感想って」
健太が苦笑いした。
「良かったです、とか?」
「それはちょっと」
二人で笑った。緊張がほぐれてきた。
「でも、実際どうなんだろう。みんなどうしてるのかな」
「わからない。由香に聞くのも恥ずかしいし」
「俺も、男友達に聞けるような話じゃないし」
しばらく沈黙があった。でも、気まずい沈黙じゃなかった。
「ねえ」
ゆめが口を開いた。
「私たちって、真面目すぎるのかな」
「え?」
「だって、セックスした後の対応とか、そんなに悩むものなのかな。みんなもっと自然にやってるんじゃない?」
健太が考え込んだ。
「でも、俺たちは俺たちのペースでいいんじゃない?無理に他の人に合わせる必要はないと思う」
「そうかな」
「だって、一昨日のことも、ゆめが嫌がらないかすごく心配だったし、俺だって経験豊富じゃないし」
健太の正直さが、ゆめを安心させた。
「私も、全然わからないことばかりだった。でも、健太が優しくしてくれたから」
「ゆめも、素直に反応してくれたから、俺も安心できた」
6時30分。店の照明が少し暗くなった。営業終了が近づいていた。
「あのさ」
健太が少し躊躇してから言った。
「今度は、もう少し自然に過ごせるかな」
「どういう意味?」
「一昨日は、お互い意識しすぎてたと思うんだ。でも今度は、普通に一緒にいて、自然にそういう流れになったら、っていう感じで」
ゆめは健太の言葉を考えた。確かに、一昨日は「セックスをする日」みたいな特別感があった。それが逆に、プレッシャーになっていたのかもしれない。
「そうだね。もっと普通に、日常の延長で」
「うん。無理に特別なことにしなくても」
「でも」
ゆめが言いかけて止まった。
「何?」
「頻度とか、どうなんだろう」
「頻度?」
「みんなどのくらいしてるのかな、って」
健太が少し赤くなった。
「それは、俺たちが決めることじゃない?他の人のことは関係ないと思う」
「そうかな」
「だって、ゆめのペースもあるし、俺のペースもあるし。投資の忙しさもあるし」
ゆめは健太の言葉にホッとした。そうだった。他の人と比較する必要はない。
「じゃあ、私たちのペースで」
「うん、俺たちのペースで」
7時。MELLOWの営業が終了した。
健太がレジを締めながら、ゆめは今日の会話を振り返っていた。
昨日の混乱が、だいぶクリアになった。お互いが同じような戸惑いを感じていたこと、同じように相手を気遣っていたこと、そして同じように「自分たちのペース」を大切にしたいと思っていることが確認できた。
「今日はありがとう」
健太が作業を終えて、ゆめのところに来た。
「私こそ。すっきりした」
「俺も。昨日はモヤモヤしてたから」
外に出ると、夕暮れの空が広がっていた。
「今日はどうする?」
健太が聞いた。自然な質問だった。特別な意味を含ませているわけでもなく、プレッシャーをかけているわけでもなく。
「どうしようか」
ゆめも自然に答えた。一昨日のような特別感はなかった。でも、それが良かった。
「ご飯食べに行く?」
「いいね」
二人は並んで歩き始めた。
いつもの関係に戻った、という感じではなかった。確実に何かが変わっていた。でもそれは、関係が複雑になったということではなく、むしろシンプルになったような感じだった。
お互いを気遣いすぎることもなく、遠慮しすぎることもなく、でも大切に思う気持ちは変わらない。
そういう関係になれたような気がした。
8時。小さな居酒屋に入った。
「カンパイ」
ビールのグラスを合わせる。いつもの動作だった。
「そういえば」
健太が思い出したように言った。
「昨日、投資の調子悪かったって言ってたけど、やっぱり俺のせい?」
「そういうわけじゃないけど」
ゆめは正直に答えた。
「集中できなかった。健太のことばかり考えてて」
「ごめん」
「謝らないで。私が勝手に考えてただけだから」
「でも、投資に影響するのは良くないよね」
健太が心配そうな顔をした。
「大丈夫。今日はちゃんと集中できたし」
「そう?」
「うん。昨日で、気持ちの整理がついたから」
「良かった。ゆめの投資、応援してるから」
健太の言葉が、ゆめを安心させた。恋人関係になっても、お互いの大切なことを尊重し合える。それが確認できて嬉しかった。
9時。食事を終えて、外に出る。
「今日はありがとう」
ゆめが言うと、健太が微笑んだ。
「こちらこそ。また、普通に会えるようになって良かった」
「普通に、ね」
「でも、普通が一番いいと思う」
ゆめも同感だった。特別すぎる関係は疲れる。でも、ただの友達以上の関係。そのバランスが、今の二人にはちょうど良かった。
「また明日」
「うん、また明日」
別れ際のキス、とかはしなかった。でもそれで良かった。
今日は「話し合う日」だった。次に会う時は、また違う日になるだろう。
10時。家に帰って、ベッドに入る前に、今日のことを振り返った。
健太との関係が、また少し進んだ気がした。でも「進んだ」というより「落ち着いた」という感じだった。
お互いのペースを理解し合えた。お互いの気持ちを確認し合えた。そして、お互いを尊重し合うことの大切さも再確認できた。
これから、どんな関係になっていくんだろう。
でも、急がなくていい。二人のペースで、二人なりの関係を作っていけばいい。
そう思えるようになったのが、今日の一番の収穫だった。
明日は、きっともっと自然に過ごせるはず。
投資も、恋愛も、自分らしく。
いいなと思ったら応援しよう!
応援いただけたら嬉しいです。