月2回の恋人たち
第2章 - 9時間の沈黙
午前7時45分。ゆめは健太のベッドで目を覚ました。
2回目だった。昨夜のことは、1週間前より自然だった。健太も慣れてきたのか、「これ好き?」と聞く声に余裕があった。ゆめも答えやすくなっていた。「うん」とか「そこじゃなくて」とか、素直に言えるようになった。
でも今朝は違った。いつもの朝とは、空気が違った。
健太がまだ眠っている。昨夜、MELLOWのバイトから帰ってきて、疲れていたのに付き合ってくれた。ゆめの方から誘ったのだった。1週間ぶりに会えて、昨日の投資の話をして、自然にそういう流れになった。
8時05分。あと55分で市場が開く。
ゆめは静かにベッドから出た。健太を起こしたくなかった。昨夜は遅くまで働いていたし、今日は休みの日だった。
洗面所で顔を洗いながら、鏡の中の自分を見る。少し疲れているけれど、悪い気分じゃない。むしろ、体の奥に温かいものが残っている。
8時10分。
「おはよう」
健太の声が聞こえた。振り返ると、寝ぼけた顔で立っている。
「おはよう。まだ寝てていいよ」
「いや、ゆめが起きてるなら。今日も取引?」
「うん。9時から」
いつもの会話。でも昨夜のことがあるから、なんとなくぎこちない。健太も同じような感じだった。
「コーヒー入れる?」
「ありがとう。でも時間がないから、家で飲む」
「そっか」
健太が少し寂しそうな顔をした。ゆめも申し訳ない気持ちになったけれど、取引の時間は絶対だった。
8時20分。
「また今度、ゆっくり話そう」
ゆめがそう言うと、健太がうなずいた。
「うん。昨日のこと、良かったよ」
健太がそう言った時、ゆめの頬が熱くなった。「良かった」って言われるのは嬉しいけれど、なんだか恥ずかしかった。
「私も」
小さくそう答えて、ゆめは健太のアパートを出た。
電車の中で、昨夜のことを思い返した。1週間前より確実に良くなっていた。お互いに慣れて、相手のことがわかってきて、遠慮がなくなった。それは嬉しいことだった。
でも同時に、なんだか複雑な気持ちもあった。
こうやって、関係が深くなっていくのかな。セックスをして、慣れて、また次、また次って。みんなこんな風に大人になっていくのかな。
家に着いたのは8時58分。ギリギリだった。
急いで部屋に入り、PCを立ち上げる。投資のシステムにログイン。チャートを確認。昨日のアメリカ市場は上昇。今日は期待できそうだった。
9時。市場オープン。
でも、なぜか集中できなかった。
頭の中に昨夜のことがある。健太の手、健太の声、健太の体温。そして朝の微妙な気まずさ。
ソフトバンクの板を見ているのに、数字が頭に入ってこない。
9時10分。通常なら、もう2銘柄はチェックしているはずなのに、まだ何も決められない。
これじゃダメだ。
ゆめは立ち上がって、深呼吸をした。窓を開けて、朝の空気を吸う。頭をクリアにしようとした。
でも、健太のことが頭から離れない。
昨夜は良かった。本当に良かった。でも今朝の気まずさは何だったんだろう。健太も同じことを考えているのかな。
9時15分。LINEの通知音。
健太からだった。
『おはよう。今日も頑張って』
いつものメッセージ。でも今日は違って見えた。昨夜のことがあった後だから、特別な意味があるような気がした。
ゆめは返事をしなかった。取引中は返事をしない、というルールがあった。でも今日は、返事をしたくない気持ちもあった。
なんでだろう。
9時30分。ようやく最初の取引をした。ソフトバンクを200株。でも、いつもの根拠がなかった。なんとなく、という感じの取引だった。
10時。健太からまたLINE。
『調子はどう?』
普通のメッセージ。でも、ゆめには特別な意味があるように感じられた。昨夜のことを聞いているような気がした。
返事をしない。
10時30分。また通知音。
『何かあった?いつもより返事がない』
健太が心配している。いつもなら、前場の途中で1回は返事をするのに、今日は一度もしていなかった。
でも、なぜか返事をする気になれない。
昨夜のことで、何かが変わってしまったような気がする。健太との距離感が、わからなくなってしまった。
11時30分。前場終了。
今日の利益は3万円。昨日の22万円に比べて、大幅に少なかった。集中できていなかった証拠だった。
ゆめはスマホを見た。健太からのメッセージが5件たまっていた。
『大丈夫?』
『何か言っちゃった?』
『昨夜のこと、嫌だった?』
『ごめん、心配になって』
『落ち着いたら連絡して』
最後のメッセージを読んで、ゆめの胸が痛くなった。健太が自分を責めている。昨夜のことを後悔している。
そうじゃない。昨夜は良かった。本当に良かった。
でも、どう説明すればいいのかわからない。
この複雑な気持ちを、どう言葉にすればいいのかわからない。
ゆめは返事を書こうとした。でも、何を書いても違う気がした。
「大丈夫」なんて軽すぎる。「昨夜は良かった」なんて恥ずかしすぎる。「混乱してる」なんて、健太を傷つけそう。
結局、何も送らなかった。
12時。昼休み。
普通なら投資の勉強をする時間だけれど、今日は集中できそうになかった。ベッドに横になって、天井を見つめる。
昨夜のことを、ゆっくりと思い返した。
健太は優しかった。前回より上手だった。ゆめも、前回より素直に反応できた。物理的には、間違いなく良い体験だった。
でも、その後がよくわからない。
朝起きた時の微妙な空気。お互いの戸惑い。どう接すればいいのかわからない感じ。
これが普通なのかな。みんなこんな感じなのかな。
由香に聞いてみたい気もしたけれど、まだ整理がついていないから、何を聞けばいいのかわからなかった。
12時20分。健太からまたメッセージ。
『無理しないで。ゆめのペースで大丈夫だから』
そのメッセージが、ゆめの心を少し軽くした。健太は責めていない。待ってくれている。
でも、まだ返事はできなかった。
12時30分。後場開始。
今度こそ集中しようと思ったけれど、やっぱりダメだった。チャートを見ていても、健太のことばかり考えてしまう。
13時30分。任天堂を100株買った。でも、根拠が薄かった。なんとなく、という取引が続いていた。
14時。またLINE。
『今日は仕事だから、夜までは返事しなくて大丈夫。でも心配してる』
健太がMELLOWの仕事に入ったんだった。普通の日なら、「頑張って」って返事をするのに、今日はできない。
どうしてこんなに混乱しているんだろう。
14時30分。トヨタを売った。小さな損失。今日は判断が鈍っていた。
15時30分。取引終了。
今日の利益は1万円。ここ最近で最低だった。先日の22万円が嘘のようだった。
ゆめは画面を見つめながら、自分の状況を客観視しようとした。
昨夜、健太とセックスをした。それは良い体験だった。でも今日は、なぜか彼に連絡を取れない。そして投資の調子も悪い。
この関連性は何なんだろう。
前回は過去最高の利益で、今日は最低レベル。前は健太と自然にコミュニケーションを取れて、今日は一言も返事ができない。
何かが変わった。でも、それが良い変化なのか悪い変化なのか、まだわからない。
15時30分。ゆめはスマホを手に取った。健太のメッセージを読み返す。
心配している。でも責めていない。待ってくれている。
その優しさが、逆に辛かった。
16時。ようやく、短いメッセージを送った。
『ごめん。混乱してる。悪い意味じゃないから、少し時間をください』
送信した後、すぐに既読がついた。でも返事は来なかった。
健太は仕事中だった。でも、きっと心配していただろう。
17時。投資の記録をつけながら、今日一日を振り返った。
取引の失敗よりも、健太とのコミュニケーションがうまくいかなかったことの方が気になっていた。
それって、おかしいことなのかな。
投資が一番大切だと思っていたのに、健太のことの方が心配になっている。
18時。健太からメッセージが来た。
『仕事終わった。時間はいくらでもあるから、ゆめのペースで。何も急がなくていいよ』
その優しさに、ゆめは泣きそうになった。
健太は何も悪くない。ゆめが勝手に混乱しているだけ。でも、その混乱を受け入れてくれている。
19時。ゆめは長いメッセージを書いた。
『昨夜のことは本当に良かった。健太が悪いわけじゃない。ただ、セックスした後の関係性がよくわからなくて混乱してる。どう接すればいいのか、何を話せばいいのか、わからない。これって普通のことなのかな。由香にも聞けないし、ネットで調べてもよくわからない。健太はどう思ってる?』
送信する前に、何度も読み返した。恥ずかしかったけれど、正直な気持ちだった。
送信。
5分後、健太から長い返事が来た。
『俺も同じ。昨夜は良かったけど、その後どうすればいいのかわからない。普通に接すればいいのか、特別扱いした方がいいのか。ゆめが嫌がってるんじゃないかって心配になった。でも、嫌じゃないならホッとした。今度会った時に、ゆっくり話そう。俺たちのペースで、俺たちなりの関係を作っていけばいいと思う』
そのメッセージを読んで、ゆめはようやく安心した。
健太も同じように混乱していた。同じように戸惑っていた。
それがわかっただけで、心が軽くなった。
20時。ゆめは返事を書いた。
『ありがとう。私たちのペースで、で良いね。今度会った時に話そう。今日は投資も全然ダメだった。健太のことばかり考えてた』
『それはごめん。でも、ちょっと嬉しい』
『バカ』
『今度は、取引に影響しないように気をつける』
『いや、そういうことじゃない。考えたくて考えてるわけじゃないから』
『わかる。俺も今日は仕事中にゆめのこと考えてた』
そのやり取りで、いつものペースが戻ってきた。
21時。ゆめは今日という日を振り返っていた。
朝の戸惑い。9時間の音信不通。投資の失敗。でも最後に、お互いの気持ちを確認できた。
これが恋愛なのかもしれない。
セックスをしたからって、急に大人になるわけじゃない。急に関係が完璧になるわけでもない。
少しずつ、お互いを理解していく。失敗して、話し合って、また少し進む。
それが、ゆめたちのペースなんだと思った。
22時。ベッドに入る前に、健太にメッセージを送った。
『おやすみ。今日はありがとう。明日はちゃんと取引に集中する』
『おやすみ。明日も頑張って。また今度、ゆっくり会おう』
『うん』
スマホを置いて、ゆめは天井を見つめた。
今日は失敗の多い日だった。でも、大切なことも学んだ。
健太との関係は、思っているより複雑で、思っているより大切だった。
そして、それを理解するには時間がかかるということも。
でも、それでいいんだと思った。
急ぐ必要はない。二人のペースで、二人なりの関係を作っていけばいい。
明日はきっと、もう少し上手にやれるはず。
投資も、恋愛も。
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