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埋没 第4話「手術」




1. 待合室
待合室のソファに座って、里江はじっと時間が過ぎるのを待っていた。
壁にかかった時計を見る。午前9時55分。あと5分。
待合室には、他にも数人の患者がいる。全員、女性。年齢は、20代から40代くらいまで。みんな、マスクをしている。中には、サングラスもかけている人もいる。誰も、話をしていない。静かに、ただ待っている。

クラシック音楽が、小さく流れている。穏やかな曲。でも、今の里江には、その音楽が遠くから聞こえてくるように感じる。
ローテーブルに、雑誌が並んでいる。里江は、そのうちの一冊のファッション誌を手に取る。表紙には、ぱっちり二重の笑顔のモデル。
ページをめくると、メイクが特集されている。アイメイクのやり方。二重の人向けのメイク。
以前なら気になって読む記事だったが、今日はすぐに、閉じる。

時計を見る。午前9時58分。
心臓が、早く打っている。手のひらに、汗がにじむ。
いつもの様に、深呼吸をするが、落ち着かない。スマホを取り出そうとして、やめる。今、スマホを見ても、余計に不安になるだけだ。
バッグを握りしめる。中には、現金30万円。今日、ここで払う予定のお金。
時計を見ると、午前10時。
まだ呼ばれない。

数分後。
「小林様」
里江は、ビクッとして顔を上げる。看護師が、こちらを見て微笑んでいる。30代くらいの女性。
立ち上がり、雑誌をテーブルに戻す。
バッグを持って、看護師のもとへ向かう。
「こちらへどうぞ」

2. 更衣室
看護師に案内されて、廊下を歩く。白い壁、清潔な床。靴音だけが、静かに響く。
いくつかドアがあって、その一つの前で止まる。
「こちらで、お着替えをお願いします」
ドアを開けると、小さな更衣室。ロッカー、鏡、椅子。シンプルな空間。
「手術着に着替えてください。荷物は、こちらのロッカーに入れてください」
看護師が、手術着を渡す。薄い緑色の、ゆったりした服。袖が長く、裾も長い。
「着替えが終わったら、ノックしてください」
「はい」
看護師が出ていく。

里江は、一人になった。
鏡を見る。すっぴんの顔。一重の目。寝不足のクマ。
これが、今までの自分を見る、最後。
バッグを置いて、服を脱ぎ始める。パーカーを脱ぎ、ジーンズを脱ぐ。下着だけになる。何かトラブルがあった時、恥ずかしい思いをしないように、少し下着にも気を遣った。
手術着を着る。ゆったりしていて、体に纏わりつく感じがない。袖を通して、前で合わせ紐を結ぶ。

鏡を見る、手術着姿の自分。まるで、病人のよう。いや、今日は病人なのかもしれない。
服を、ロッカーに入れ、バッグも入れる。でも、財布だけは取り出した。会計で必要になるお金が気になる。
でも、今から手術なのに、財布は持っていけないと思い直し、ロッカーにしまう。
深呼吸をして、ノックをする。
すぐに、看護師が待っていてドアが開く。
「では、こちらへ」

3. 手術室の前
廊下を、さらに奥へ。
足の震えを自覚する。
前を歩いていた看護師が、止まる。
ドアに「手術室」と書かれたプレートがついている。
里江は、そのプレートを見つめる。この扉の向こう。あの部屋で、自分の顔が変わる。
「大丈夫ですか?」
看護師が、優しく聞く。
「はい」
声が震える。
「緊張しますよね。でも、すぐに終わりますから」

看護師が、ドアを開ける。
里江は、息を呑む。
中は白い部屋で、手術台が、部屋の中央にある。その上には、大きなライト。壁には、機械、モニター。トレーに、器具が並んでいる。金属の器具。ピンセット、ハサミ、針。

「おはようございます」
医師が、中で待っていた。前回、カウンセリングで会った山田医師。白衣を着て、マスクをつけ、目だけが見える。
「おはようございます」
里江は、元気に答えたつもりだったが、小さく声が、かすれた。

「では、こちらへどうぞ」
看護師が、手術台を示す。
里江は、ゆっくりと近づく。手術台。革張りのような素材。少し高い位置にある。
手術台に座り、横になる。看護師が、手を貸してくれる。
仰向けになると、白い天井が見える。大きなライトが、真上にある。まだ、点いていない。


「緊張していますか?」
「はい」
「大丈夫ですよ。私も何百回とやっている施術です。リラックスしてください」
医師の声は、穏やか。でも、里江の心臓は、止まらない。
「では、まず目の周りを消毒しますね」
看護師が、コットンのようなもので、まぶたの周りを拭く。冷たくて、アルコールの匂いがする。

「それから、デザインを決めます」
医師が、何かペンのようなもので、まぶたに印をつける。触れる感覚。くすぐったい。
「目を閉じないでくださいね」
「はい」
でも、目を開けているのが辛い。上のライトが、眩しい。
「では、麻酔をかけますね」

4. 麻酔
看護師が、トレーを持ってくる。その上に、注射器がいくつか並んでいる。細い針がついている。
里江の心臓が、激しく打つ。
「少し痛みますが、すぐに効いてきます。針を刺す瞬間だけ、我慢してください」
医師が、注射器を手に取る。
里江は、じっと天井を見つめる。目を閉じたい。でも、閉じてはいけない。
針が、まぶたに近づくと、視界の端に、銀色の針が見え、さらに緊張を煽る。

チクッとする。
痛い。
予想以上に痛い。
でも、声を出さずに我慢する。
液体が、まぶたに注入される感覚。じわりと広がる。冷たい。そして、じんじんとする。まぶたの中に、何かが入り込んでいく感覚。
「はい、右目終わりました」
医師が、注射器を置く。
「もう一度、左目もお願いします」
次は、左目。
また、針が近づき、チクッとする。
同じ痛み。同じ感覚。
じわりと、冷たい。
「はい、左目も終わりました」
医師が、注射器を置く。
「少し待ちますね。麻酔が効いてくるまで、二、三分ほどかかります」
里江は、天井を見つめたまま、じっとしている。

まぶたが、だんだん痺れてくる。感覚が、鈍くなる。触られているのは分かるけれど、痛みは感じない。不思議な感覚。
時計の音が、聞こえる。カチ、カチ、カチ。
医師と看護師が、何か話しているが、小さな声で聞き取れない。これは麻酔のせいなのか、と考えるゆとりが出てくる。

「目を閉じないでくださいね」
看護師が、もう一度言う。
「はい」
でも、目を開けているのが、だんだん辛くなる。まぶたが重い。麻酔のせいか、それとも寝不足のせいか。
「もう少しですからね」
医師の声。
里江は、ただ耐える。
数分後。
「では、始めます」

5. 手術中
何かが、まぶたに触れる。
でも、痛くない。麻酔が効いている。
引っ張られる感覚。でも、痛みはない。ただ、何かされているという感覚だけ。圧迫感。
医師と看護師の声が、聞こえる。

「はい、こちら」
「ピンセット」
「次、針と糸」
「はい」
淡々とした会話。プロフェッショナルな声。機械的な、でも正確な声。
器具の音。カチャカチャという金属音。
まぶたが、また引っ張られる。
糸を通している。そう言われていた。まぶたの裏側に糸を通して、二重のラインを作る。埋没法。

里江は、じっとしている。動いてはいけない。動けば、失敗するかもしれない。糸が、間違った場所に入るかもしれない。という重圧。
いくら天井のライトが、眩しくても、目を閉じられない。

時間の感覚が、曖昧になる。どのくらい経ったのか、分からない。数分なのか、十数分なのか。
まぶたが引っ張られる感覚だけが、続く。

医師の声。
「右目、終わりました」
もう、半分終わった。
次は、左目。
引っ張られる感覚は同じ。糸を通し、器具の音がする。
医師と看護師の、静かな会話。
「はい」
「こちら」
「角度、確認」
「大丈夫です」
里江は、ただ天井を見つめている。
これで、二重になる。
これで、変わる。
彼が選んだような、ぱっちり二重の女性に。
母が言った「生まれたままの顔」じゃない顔に。

香織に言えなかった、秘密の選択。
そう思うと、不思議な気持ちになる。期待と、不安と、それから、少しの安堵。
もう、後戻りはできない。
今、この瞬間、自分の顔が変わっている。
「はい、もう少しですからね」
医師の声。
里江は、頷こうとして、やめる。動いてはいけない。
ただ、じっとしている。
時間が、ゆっくりと過ぎていく。

6. 走馬灯
手術が続く中、里江の頭の中に、色々なことが浮かんでは消えていく。
中学生の頃。クラスの男子が、廊下で友達と話していた。
「お前、〇〇ちゃんって可愛いと思う?」
「うーん、目がもうちょっと大きかったらな」
その会話を、教室の入り口で聞いてしまった。〇〇ちゃんは、里江の友達だった。一重の女の子。
その時、思った。私も、そう思われているんだろうか。

高校生の頃。初めてアイプチを買った日。ドラッグストアで、こっそりと。誰にも見られないように。レジに持っていくのが、恥ずかしかった。
家に帰って、洗面所で試した。説明書を読みながら、まぶたに塗って、プッシャーで押し込む。最初は、うまくできなかった。何度も失敗して、何度もやり直して。
でも、ある瞬間、二重のラインができた。
鏡を見て、息を呑んだ。
別人みたいだった。

大学生の頃。サークルの飲み会で、男子学生が言った。
「やっぱり、二重の子の方が可愛いよな」
その場にいた女子たちが、笑った。一重の子も、愛想笑いをしていた。
里江も、笑った。でも、心の中では、傷ついていた。

社会人になって。彼氏ができた時。
初めて、すっぴんを見せる日が怖かった。お泊まりの前日、何度も練習した。アイプチを剥がして、すっぴんになって、鏡を見る。
でも、見せられなかった。朝、彼より早く起きて、洗面所でアイプチをつけた。
一年半、付き合っても、すっぴんは見せなかった。

そして、別れた。
駅で見た、彼の新しい彼女。ぱっちり二重の女性。
やっぱり、そうなんだ。
顔なんだ。
「はい、終わりました」
医師の声で、我に返る。

7. 術直後
終わった。
手術が、終わった。
「お疲れ様でした」
看護師が、優しく言う。
医師が、器具を置く音。
「鏡、見ますか?」
医師が聞く。
里江は、少し迷ってから答える。
「……はい」

看護師が、手鏡を持って来て、里江に渡す。
重い。いや、重くないのに、重く感じる。
恐る恐る、顔の前に持ち上げ、鏡を見る。
そこに映っているのは、腫れたまぶた。
赤く、パンパンに腫れている。まるで、殴られたような顔。
でも、確かに二重のライン。くっきりとした線。糸で作られた線があった。

これが、私?
まぶたの腫れがひどくて、目が小さく見える。でも、二重。
「腫れは、三日ほどで引いてきます。一週間もすれば、かなり落ち着きます」
医師が言う。
「一週間後、また来てください。その時に、抜糸をします」
「はい」
里江は、鏡を見たまま、頷く。
自分の顔。でも、自分じゃないような顔。腫れて、変形して。
でも、二重なのは間違いない。

「痛みや違和感があれば、すぐに連絡してください」
「はい」
「では、ゆっくり起き上がってください」
看護師が、手を貸してくれる。
里江は、ゆっくりと体を起こす。少し、めまいがする。頭が重い。
「大丈夫ですか?」
「はい」
足を、床につけ、立ち上がる。
少し、ふらつくが、看護師が、肩を支えてくれる。
「ゆっくりでいいですよ」
更衣室に戻る。
「お着替えが終わったら、受付で会計をお願いします」
「はい」
看護師が、出ていく。
里江は、一人になった。
改めて鏡を見る。
赤くパンパンに腫れた目。
でも、二重になったまぶたがある。

服に着替える。パーカーを着て、ジーンズを履く。
ロッカーからバッグを取り出し、財布を手に持つ。
それから、サングラスを取り出して、かける。大きなフレーム。目元が、ほとんど隠れる。
加えてマスクもつける。
鏡を見ると、サングラスとマスクで、顔がほとんど見えない。
これで、外に出られる。

8. 帰宅
受付で、会計を済ませる。
「30万円になります」
封筒から、現金を取り出す。数える。10万円の束が三つ。
渡す。
受付の女性が、確認して、領収書を発行する。
「ありがとうございました」
それから、術後の注意事項が書かれた紙も渡される。
「三日間は、冷やしてください」
「激しい運動は避けてください」
「お酒は、一週間控えてください」
「一週間後、また来てください」
受付の女性が、説明する。
里江は、頷く。
「お大事にどうぞ」
「ありがとうございました」
クリニックを出る。ドアを開けると、外の光が眩しい。サングラス越しでも、眩しくて、目を細める。これは手術のせいなのか。

駅へ向かう道中で、すれ違う人々が、こちらを見る気がする。サングラスとマスクをした女性。怪しい雰囲気なのかもしれない。
でも、気にしない。今は、これでいい。
まぶたが、ズキズキする。痛みではなく、腫れている感覚。重い。
駅に着き、電車を待つ。
まぶたが、ズキズキする。
電車が来たので、窓際の席に座る。
窓に映る自分を見ようとして、やめる。今は、見たくない。サングラスとマスクで、どうせ顔は見えない。
電車が動き出すと、スピードに合わせて、景色が流れていく。ビル、住宅、看板。いつもと変わらない景色。
でも、何かが変わった。
私の顔が、変わった。
もう、後戻りはできない。
これが、私が選んだ道。
そう思うと、不思議と落ち着いた。
アパートに着くなり、洗面所へ向かう。
サングラスと、マスクを外す。
鏡を見る。
パンパンに、赤く腫れた目。
でも、二重。
これが、私。
新しい私。
まだ、実感が湧かない。
ベッドに倒れ込む。
体が、疲れている。一睡もしていない夜と、手術の緊張で。
目を閉じると同時に、そのまま、眠りに落ちていった。

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