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埋没 第6話「新しい私」




1. 変化後の日常
十二月も終わりに近づき、年末の空気が街に漂っていた。
里江は、もう二重の自分に慣れ始めていた。朝、洗面所で鏡を見ても、違和感はない。アイプチを使わない朝の支度は、驚くほど短時間で終わる。アイシャドウを塗って、マスカラをつけるだけ。十分もかからない。

会社でも、もう誰も何も言わない。香織は、最初の日に「雰囲気変わった」と言ったきり、特に触れていない。他の同僚たちも、気づいていないようだった。いや、もしかしたら気づいているけれど、何も言わないだけかもしれない。

男性社員の反応は、明らかに変わった。
廊下ですれ違うとき、挨拶される回数が増えた。エレベーターで一緒になると、世間話をされる。昼食でも、隣に座っていいかと聞かれる。
以前は、透明人間のような存在だった。誰も、里江に気づかなかった。話しかけてこなかった。
でも、今は違う。
顔が変わっただけで、こんなに違う。

里江は、カフェで男性と会っていた。マッチングアプリで知り合った男性。名前は、健太。29歳。IT企業勤務。
カフェの窓際の席で、健太は向かいに座って、笑顔で話している。
「小林さんって、出版社勤務なんですよね」
「はい、校閲の仕事をしています」
「すごいですね。細かい作業、得意なんですか?」
「まあ、それなりに」
会話は、スムーズに進む。健太は、明るくて、話しやすい。
でも、里江の心は、どこか空虚だった。
この人は、私の顔を見て、いいねを押した。
この二重の目を見て、会いたいと思った。
もし、以前の一重の顔だったら、いいねは来なかっただろう。
この会話も、なかっただろう。
「また、会えますか?」
健太が、笑顔で聞く。
「……はい」
里江は、微笑む。
カフェを出て、駅で別れる。
一人で帰る道。人混みの中を歩きながら、何かが引っ掛かる。
嬉しいはずなのに。
新しい出会いがあるはずなのに。
でも、何かが違う。
何かが、足りない。

2. 香織の視線
クリスマス。
会社は、通常営業。でも、午後から半日休みになる。
午前中、デスクで仕事をしていると、香織が話しかけてくる。
「ねえ、里江」
「ん?」
「今日、クリスマスだけど、予定ある?」
「ううん、特にない」
「じゃあ、仕事終わったら、ちょっとお茶しない?」
「いいよ」
午後、二人でカフェへ向かう。会社の近くの、いつものカフェ。
香織はカプチーノ、里江はカフェラテを注文する。
「メリークリスマス」
香織が、笑顔で言う。
「メリークリスマス」
里江も、微笑む。
香織が、カプチーノを一口飲んでから、こちらを見る。

「ねえ、里江」
「ん?」
「最近、本当に変わったよね」
その言葉に、里江の心臓が跳ねる。
「そう?」
「うん。なんていうか、明るくなったっていうか」
香織が、じっと里江の顔を見る。
「目の印象が、すごく変わった気がする」
里江は、カフェラテを飲む。温かい液体が、喉を通っていく。
「メイク、変えたから」
「メイクだけで、こんなに変わる?」
香織の声に、少し疑問が混じっている。
里江は、何も答えない。ただ、窓の外を見る。
香織が、小さく息を吐く。
「もしかして……」
言いかける。
里江は、息を止める。
「整形した?」
その言葉が、空気を切り裂く。
里江は、香織を見る。
香織が、こちらを見ている。責めるような目ではない。ただ、確認するような目。
「……うん」
里江は、小さく答える。
初めて、誰かに言った。
「やっぱり」
香織が、頷く。
「いつ?」
「先月」
「二重?」
「うん」
香織は、しばらく黙っている。カプチーノを見つめて、それから、また里江を見る。
「なんで言わなかったの?」
「……言えなかった」
「なんで?」
「否定されると思って」
香織が、少し驚いたような顔をする。
「私が?」
「うん」
「そんなことしないよ」
香織が、首を横に振る。
「里江が決めたことなんだし」
その言葉が、胸に染みる。
「別に、いいと思うよ」
香織が、微笑む。
「自分で決めたことなんだし。それに……」
「綺麗になったよ。前も可愛かったけど、今の方が、自信あるでしょ?」
里江は、頷く。
「うん」
「それでいいじゃん」
香織が、カプチーノを飲む。
「でも、私には言ってほしかったな」
「ごめん」
「ううん、いいよ。言いづらかったんだよね」
香織が、優しく言う。
「ありがとう」
里江は、涙が出そうになる。
初めて、誰かに受け入れられた。
否定されなかった。

3. 母からの電話
年末年始、実家に帰るかどうか迷っていた。
母からの着信。
「もしもし」
「里江? 年末年始、帰ってくる?」
「……どうしようかなって」
「帰っておいでよ。お兄ちゃんたちも来るし」
いつもと変わらない、明るい声。
「お父さんも、楽しみにしてるわよ」
里江は、少し考える。
実家に帰って、母と顔を合わせると、顔が変わった私を、母はどう見るだろう。
「分かった。帰る」
「本当? よかった」
母の声が、さらに明るくなる。
「31日に来てくれる? 年越しそば、一緒に食べましょう」
「うん」
「楽しみにしてるわね」
「うん。じゃあね」
里江は、スマホを膝の上に置いた。
母に、会う。
気づくだろうか。
気づいても、何も言わないだろうか。

4. 実家へ
大晦日。
里江は、朝早くに電車に乗った。実家へ向かう。二時間半の道のり。
窓の外を見る。都会の風景が、だんだんと田舎の風景に変わっていく。
改札を出ると、母が待っていた。
「里江!」
母が、手を振る。
「お母さん」
母が、じっと里江の顔を見る。
心臓が、早く打つ。
「なんか……」
「変わった?」
母が、首を傾げる。
「そう?」
「うん。綺麗になったっていうか」
里江は、曖昧に笑う。
「メイク、変えたんだ」
「そう? そういえば、目の感じが違う気がする」
母は、それ以上何も言わなかった。

「お兄ちゃんたち、もう着いてるわよ」
「そうなんだ」
車が動き出す。
母が、運転しながら話す。普段と変わらない、日常の話。近所の話、親戚の話。
里江は、窓の外を見ながら、相槌を打つ。

「ただいま」
「おかえり」
父の声。
リビングに入ると、兄夫婦と甥がいた。
「久しぶり」
兄が、顔を上げる。
そして、じっと里江を見る。
「……なんか、変わった?」
「よく言われる」
里江は、微笑む。
「綺麗になったな」
兄が、あっさりと言う。
義姉も、「本当ですね」と微笑む。
それだけだった。誰も、深く追求しない。
甥が、里江を見る。前回は泣いたけれど、今日は泣かない。じっと見つめている。
「こんにちは」
里江が、しゃがんで目線を合わせる。
甥が、小さく手を振る。
なんだか少し、嬉しい。

5. 年越し
夕食は、家族みんなで鍋を囲む。
父、母、兄、義姉、里江。甥は、もう眠っている。
テレビには紅白歌合戦がついている。
鍋をつつきながら、家族で話すのが、恒例のこと。今年一年のこと、来年のこと。他愛もない話が続く。
「里江は、来年の目標ある?」
「そうだなあ」
里江は、少し考える。
「新しいこと、始めたいかな」
「新しいこと?」
「うん。まだ、決めてないけど」
母が、微笑む。
「いいわね。若いうちに、色々やっておきなさい」
「うん」
午後11時を過ぎ、年越しそばを食べる。
テレビでは、カウントダウンが始まっている。
「十、九、八、七……」
家族みんなで、数える。
「三、二、一、ゼロ!」
「明けましておめでとう!」
みんなで、笑顔で言い合う。
「今年も、よろしくね」
母が、里江の肩に手を置く。
「うん」
新しい年が、始まった。

6. 鏡の前
元日の夜。
里江は、自分の部屋にいた。二階の、昔使っていた部屋。
洗面所へ行き、鏡の前に立つ。
そこには二重の自分がいる。
棚の奥に、昔使っていた、小さな白いボトルがある。
アイプチ。
もう、使っていない。
実家に戻ってきた時用に、捨てられなかった。
これは、私の一部だった。
長い間、一緒だった。
手に持ったまま、じっと見つめる。
捨ててもいいよね。
そう思う。
でも、まだ、なぜだか捨てられない。
いつか、捨てられる日が来るかもしれない。
でも、今日じゃない気がした。

棚の奥に、そっとしまう。
鏡を見ると、二重の自分が、そこにいる。
これが、私。
私が選んだ、私の顔。
そう思えたとき、初めて心から笑えた。
自然に。

窓の外を見る。
冬の夜空。星が、いくつか見える。
新しい年が、始まった。
新しい私で、生きていく。
どうなるか、分からない。
マッチングアプリで会った健太と、また会う約束をしている。その先、どうなるかは分からない。
でも、それでいい。
香織は、受け入れてくれた。母も、兄も、特に何も言わなかった。気づいたかもしれないし、気づいていないかもしれない。でも、それでいい。
これは、私が選んだ道。
後悔は、ない。
正直不安は、ある。
でも、それも含めて、私。
鏡の中の自分に、微笑みかける。

二重の目。
本物の、私の目。

深呼吸をする。
明日から、また日常が始まる。
会社に行って、仕事をして、人と会って。
新しい顔で、新しい人生を歩いていく。
それだけで、十分。
里江は、部屋に戻った。
ベッドに座って、スマホを開く。
インスタを見る。タイムラインには、新年の投稿が並んでいる。
「明けましておめでとう」「今年もよろしく」
里江も、投稿しようかと思う。
でも、やめた。

静かな夜。
新しい年。
新しい私。

これから、どんな物語が始まるのか。
分からない。
でも、それでいい。
自分で選んだ道を、進んでいく。
それだけで、十分。

(終)

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