止まった時計
第24話 本社復帰の話
本社復帰の話を聞いてから、澪の中の時間は落ち着かなくなった。
営業所の壁時計は、相変わらず二分進んでいる。
朝の会議は八時五十五分に始まり、メールは始業前から届き、顧客からの電話は昼休みの終わりを待ってはくれない。
水橋電子部品の案件は、ようやく最終見積の段階に入っていた。
片桐は澪に任せる部分を増やし、南は資料作成や社内処理を細かく支えてくれた。
会社の仕事は、以前よりも確かに手応えがあった。
澪はもう、水橋市に流されてきただけの人間ではなかった。
顧客の名前も、工場の場所も、担当者の声も覚えた。
この町の道路の癖も、夕方になると混む橋も、雨の日に滑りやすい営業所前の階段も知っている。
水橋市は、知らない町ではなくなっていた。
それなのに、本社へ戻る話が出た途端、澪の中にはまた別の空白が開いた。
戻る。
進む。
残る。
辞める。
その言葉たちが、互いに違う時刻を指している。
MIOREには、二件目の問い合わせが届いていた。
「次に青い針の時計が出る予定はありますか」
その短い文章を、澪は何度も読み返した。
注文ではない。
生活できる売上でもない。
将来を保証するものでもない。
けれど、誰かが待っている。
たったそれだけのことが、澪の中で静かに重かった。
金曜日の夕方、片桐との打ち合わせを終えたあと、澪は営業所の窓際に立った。
外は薄く暮れ始めていた。
駅前のビルの窓に明かりが入り、道路を走る車のライトがひとつずつ増えていく。遠くには低い山並みがあり、その上に冬に近い雲が広がっていた。
「瀬川さん」
南が声をかけてきた。
「今日、帰れそうですか」
「はい。もう少しだけ整理して帰ります」
「無理しないでくださいね」
南はそう言って、自分の机へ戻りかけた。
けれど少し迷うように足を止めた。
「本社の話、聞きました」
澪は顔を上げた。
「片桐さんからですか」
「いえ、直接ではないです。なんとなく、空気で」
南は苦笑した。
「営業所って狭いので」
澪も小さく笑った。
「そうですね」
「戻るんですか」
その問いは、まっすぐだった。
責める響きはなかった。
ただ、聞いているだけだった。
澪はすぐには答えられなかった。
「まだ、決めていません」
「そうですよね」
南は頷いた。
「でも、瀬川さんが来てから、営業所の雰囲気、少し変わりましたよ」
「私がですか」
「はい。前より、みんな資料をちゃんと見るようになりました」
「それは片桐さんの影響では」
「もちろん片桐さんもですけど、瀬川さんって、細かいところを見逃さないじゃないですか。最初は少し怖かったですけど」
「怖かったですか」
「真面目すぎて」
南は笑った。
「でも最近は、真面目なだけじゃなくて、何かを大切に見てる感じがします」
澪は言葉を失った。
南はそれ以上踏み込まなかった。
「戻っても、残っても、辞めても、私は応援します。でも、瀬川さんが急いで決めると、たぶん後悔する気がします」
急いで決める。
その言葉に、久我の声が重なった。
時計は急かすもんじゃない。
澪は静かに頷いた。
「ありがとうございます」
南は軽く手を振り、帰り支度に戻った。
その夜、澪は久我時計店へ向かった。
商店街は冷えていた。
アーケードの蛍光灯の白さが、冬の入口のように見える。
和菓子屋はもう閉まっていて、喫茶店の窓だけが暖かい色をしていた。
久我時計店の営業中の札は、まだ表を向いていた。
澪は戸を開けた。
ち、ち、ち。
こち、こち。
かち、かち。
時計たちの音が、いつも通り重なっている。
奥の作業台で、久我が古い懐中時計を見ていた。
澪は手を洗い、指先を拭いてから、作業台の前に立った。
「久我さん」
「何だ」
「祖父の時計を、見せていただけませんか」
久我の手が止まった。
店内の時計の音だけが続いた。
澪は言葉を重ねた。
「今すぐ直したいと言うつもりではありません。ただ、見たいんです。中を。どういう状態なのかを、自分の目で」
久我は顔を上げた。
「怖くないのか」
「怖いです」
澪は正直に答えた。
「でも、怖いから見ないままにしておくのは、もう違うと思います」
久我はしばらく澪を見ていた。
「昔に戻りたいのか」
最初にで投げられた問いが、同じ声で戻ってきた。
澪は目を伏せた。
祖父の膝の横で聞いた時計の音。
夏の日の畳の匂い。
腕時計の跡だけが白く残った祖父の手首。
「小さい部品が、みんなで少しずつ動いとる」と笑った声。
戻りたいと思ったことがないわけではない。
祖父がまだ生きていて、時計がまだ動いていて、自分がまだ何も失っていなかった頃。
その時間に、触れたいと思ったことはある。
けれど。
「戻れないことは、わかりました」
澪はゆっくり言った。
「祖父の時計が動いても、祖父は戻りません。昔の自分にも戻れません」
「でも、止まったままにしておくことが、祖父を大切にすることだと思っていたのは、違ったのかもしれません」
澪は作業台の上に視線を落とした。
「祖父の時間を、今の自分に連れていきたいんです」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥で何かが静かにほどけた。
久我は何も言わなかった。
ただ、作業台の引き出しを開けた。
そこから、紺色の布袋を取り出す。
澪は息を止めた。
見覚えのある布袋だった。
自分が祖父の時計を包んで持ってきたもの。
久我はそれを作業台の上に置いた。
「手をもう一度洗え」
「はい」
流しで手を洗う。
指先を丁寧に洗い、爪の間に水が残らないようにする。
ハンカチで拭き、もう一度、乾いた布で水気を取る。
作業台へ戻ると、久我は柔らかい布を敷いていた。
「座れ」
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