止まった時計
第3話 水橋市
水橋市に着いた日は、雨だった。
新幹線を降り、在来線に乗り換え、車窓の景色が少しずつ低くなっていくのを、澪はぼんやり眺めていた。高いビルの輪郭が減り、代わりに倉庫、田畑、古い住宅、看板の色褪せたロードサイド店が流れていく。
知らない町へ向かっているのに、窓の外の景色にはどこか見覚えがある気がした。
地方都市というものは、初めて訪れても、すでに一度通り過ぎたことがあるような顔をしている。
水橋駅に着くと、ホームの屋根を雨が細かく叩いていた。
駅舎は思っていたより新しかった。改札の向こうにはコンビニがあり、駅前にはビジネスホテルとチェーンのカフェが見えた。タクシー乗り場には数台の車が並び、スーツ姿の人たちが黙って傘を開いていた。
澪はキャリーケースの持ち手を握り直した。
鞄の中には、転勤関係の書類と、祖父の時計を入れた小箱がある。
水橋市。
これから二年、あるいはそれ以上を過ごすかもしれない町。
そう思っても、胸の中には期待らしいものはほとんど湧かなかった。あるのは、濡れたアスファルトの匂いと、身体の奥に残った移動の疲れだけだった。
会社が手配したアパートは、駅から徒歩十五分ほどの場所にあった。
築年数は古いが、部屋は広かった。前の部屋よりも収納が多く、窓の外には低い山並みが見えた。雨に煙っているせいで、その稜線は鉛筆で薄く引いた線のようだった。
引っ越し業者が荷物を運び入れる。
段ボール箱が次々と床に積まれていく。
本、衣類、食器、仕事用の書類、細々とした生活道具。
澪はその中から、祖父の時計を入れた小箱だけを取り出し、テーブルの上に置いた。
開けるつもりはなかった。
けれど、見える場所に置いておきたかった。
雨は夕方になっても止まなかった。
カーテンをつけ、最低限の荷解きを終えたころには、部屋は薄暗くなっていた。新しい部屋の匂いがした。畳ではない。木でもない。壁紙と段ボールと雨に濡れた靴の匂いが混ざった、どこにも馴染んでいない匂い。
澪はスマートフォンで近くのスーパーを探し、傘を差して外へ出た。
道は静かだった。
車は通るが、人の姿は少ない。
コンビニの明かりだけが妙に白く、駐車場の水たまりに滲んでいた。
スーパーで弁当とペットボトルの水を買い、部屋に戻る。
床に座り、段ボールをテーブル代わりにして夕食を食べた。
テレビはまだ接続していない。
部屋には雨音と、冷蔵庫の低い唸りだけがあった。
澪はふと、テーブルの上の小箱を見た。
祖父の時計は、箱の中で相変わらず止まっている。
この町に来たことなど、知らない顔をしている。
翌朝、澪は水橋営業所へ向かった。
営業所は駅前の通りから少し外れた三階建てのビルに入っていた。一階には保険代理店、二階には学習塾、三階が会社の営業所だった。
東京の本社に比べれば、ずいぶん小さい。
入口のガラス扉には、会社名が印刷された白いシールが貼られている。中へ入ると、事務机が十台ほど並び、壁際にカタログ棚と複合機があった。
「瀬川さんですね」
声をかけてきたのは、片桐真帆だった。
本社で何度か会ったことはあるが、水橋営業所では彼女が責任者として常駐している。
「今日からよろしくお願いします」
澪が頭を下げると、片桐は短く頷いた。
「こちらこそ。慣れるまでは大変だと思うけど、顧客の引き継ぎは順番にやっていきます」
片桐の声は落ち着いていた。
歓迎というより、すぐに業務へ入るための現実的な温度だった。
それは澪にとって、むしろありがたかった。
新しい場所で過剰に気を遣われるより、やるべきことが示される方が楽だった。
席を案内され、パソコンを立ち上げる。
隣の席の女性が、明るく声をかけてきた。
「南亜紀です。営業事務やってます。困ったら何でも聞いてください」
「瀬川澪です。よろしくお願いします」
「水橋、初めてですか?」
「はい」
「最初は道がわかりにくいかも。駅前はまだいいんですけど、工業団地の方に行くと、同じような道ばっかりで」
南は笑いながら、手元のファイルを澪に渡した。
「これ、主要顧客の一覧です。片桐さん、厳しいですけど、理不尽ではないので」
「本社でも少しご一緒したことがあります」
「あ、そうなんですね。じゃあ知ってるか。あの人、褒める時も業務連絡みたいな顔しますよ」
澪は少しだけ笑った。
初日の午前中は、社内システムの確認と顧客資料の読み込みで終わった。
午後からは片桐に同行して、古くからの取引先を回った。
水橋市の道路は、慣れない澪には方向感覚を失わせた。
駅前から離れると、景色は急に広がった。田畑の向こうに工場の屋根があり、白い煙突が空に向かって立っている。古い住宅地を抜けると、急に片側二車線の道路に出る。少し走ると、また狭い道になる。
「この辺りは昔から金属加工の会社が多いの」
片桐が運転しながら言った。
「大きな工場だけじゃなくて、小さい町工場も残ってる。うちの部品も、そういうところに支えられてる部分がある」
澪は窓の外を見た。
古い工場の入口に、油で黒ずんだ作業着の男性が立っていた。シャッターの奥から、金属を削るような高い音が聞こえてくる。
部品。
澪が売ってきたもの。
けれど、ここではそれが紙の見積書やシステム上の品番ではなく、実際に誰かの手元で削られ、磨かれ、組み立てられていた。
最初の訪問先では、担当者が澪をじっと見た。
「本社から来た人?」
「はい。瀬川と申します。今後、担当としてお世話になります」
「前の人、急に異動になったね」
「ご不便をおかけしないよう、しっかり引き継ぎます」
定型の言葉は、自然に口から出た。
担当者は少しだけ眉を動かし、資料に目を落とした。
「まあ、納期だけはちゃんと頼むよ。こっちも余裕ないから」
その言葉を、澪はその日だけで三度聞いた。
納期。
価格。
品質。
前任者のやり方。
本社との温度差。
小さな不満。
長い付き合いだからこそ積み重なった要求。
新しい町に来たはずなのに、仕事の言葉はどこでも同じだった。
夕方、営業所へ戻る頃には、澪はひどく疲れていた。
慣れない道。
慣れない顔。
慣れない距離感。
それでいて、求められる返答だけは最初から正確でなければならない。
席に戻ると、南が声をかけてきた。
「初日から外回り、大変でしたね」
「少し、道が難しいですね」
「水橋の道、慣れるまで曲者です。ナビが変な裏道を案内してきますし」
南はそう言って、机の引き出しから小さなチョコレートを出した。
「どうぞ。水橋営業所の歓迎品ということで」
「ありがとうございます」
澪は受け取ったチョコレートを見て、少し笑った。
それから一週間、澪は仕事に追われた。
朝、営業所へ行く。
資料を確認する。
顧客へ電話する。
見積を出す。
訪問する。
帰社して報告をまとめる。
片桐に確認を受ける。
南に助けてもらいながら社内処理を進める。
夜、部屋に戻る。
コンビニかスーパーで買った食事を済ませる。
段ボールを一つだけ片づける。
シャワーを浴びる。
眠る。
その繰り返しの中で、水橋市はまだ澪の町にはならなかった。
駅前の道は覚えた。
営業所までの近道もわかった。
スーパーの閉店時間も覚えた。
けれど、それは地図の上に印をつけているだけのようなものだった。
自分の足で歩いた場所が、まだどこにもない。
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