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埋没 第5話「回復」




1. 術後3日間
目を覚ますと、部屋は暗かった。
午後7時。窓の外に街灯の橙が滲んでいて、それ以外に光はない。朝、手術を終えてここに戻り、コートも脱がないままベッドに倒れ込んだことは、かろうじて覚えている。それから先は、何もない。

ベッドの中でゆっくりと体を起こすと、まぶたが重い。熱を持ったように腫れていて、視界の上端が普段より狭くなっている気がした。

洗面所へ向かい、電気をつける。スイッチを押してから、鏡を見るまでに一瞬、間があった。

パンパンに腫れている。赤紫色のまぶたが、目を圧迫するように盛り上がっている。朝、手術室を出た直後よりも、もっとひどくなっていた。でも、二重のラインだけははっきりしていた。腫れの中に、くっきりと刻まれた線。

触りたくなる衝動を抑えて、キッチンへ向かう。冷凍庫から保冷剤を取り出し、タオルに包んでまぶたに当てると、冷たさが広がって、少しだけ楽になった。

ソファに座って、動かないでいた。
スマホに香織からLINEが来ていた。「体調どう? 検査、大丈夫だった?」という文字。

返信しようとして、しばらく画面を見つめる。「だいぶ良くなった」と打ってから、送信ボタンの上で指が止まる。
良くなっていない。顔は腫れていて、痛くて、コンビニにも行けない。
でも、送信した。

すぐに既読がついて、「よかった。無理しないでね。来週待ってる」と返ってくる。
その文字を見ながら、保冷剤をまぶたに押しつける。冷たい。気持ちいい。それだけを、感じていた。

土曜日。

一日中、部屋にいた。
鏡を何度も見た。腫れは昨日より少し引いてきた気がする。でも、まだパンパンで、外に出られる顔ではない。

クリニックの指示通り、冷やして休んで、また冷やす。それだけを繰り返した。
食欲はなかった。冷蔵庫にあったヨーグルトとバナナだけ食べて、あとはソファと洗面所を往復した。
夜、どうしてもお腹が空いて、深夜にコンビニへ行くことにした。サングラスとマスクをつけて、フードを被って。鏡を見ると、自分でも変質者のようだと思った。

おにぎりとサラダをレジに出すと、店員が一瞬こちらを見た。何も言わない。里江も何も言わずに受け取って、急いで帰った。

日曜日。

また鏡を見る。
腫れは、さらに引いていた。昨日よりも、ずっとマシ。まだ腫れぼったいけれど、二重のラインは、もうはっきり見えている。末広型。自然な幅。

しばらく鏡の前に立ったまま、自分の顔を見ていた。
棚の上に置いたままにしていたアイプチの容器が、視界の端に入る。無意識に手が伸びかけて、途中で止まった。

もう、要らない。

その事実が、まだどこか信じられなかった。

月曜日。

腫れは、ほぼ引いていた。
鏡の前に立つ。自然な二重のライン。まぶたの色も、ほぼ普通に戻っている。

これが、私の目。

鏡から目が離せなかった。何かが込み上げてくる。泣きそうになる。でも、泣いたら腫れが戻るかもしれないと思って、深呼吸だけした。

長い間、コンプレックスだった。毎朝、アイプチをつけて、偽物の二重を作って。彼に振られて、駅で新しい彼女を見て、決めて、怖くて眠れなくて、それでもここに来た。
今、目の前に本物の二重がある。

水曜日、出社して香織に会う。
気づかれるだろうか。

2. 一週間後、抜糸

手術から一週間。抜糸の日。
サングラスとマスクをつけて電車に乗ったが、先週ほど緊張していなかった。

クリニックの待合室で数分待って、名前を呼ばれる。診察室に入ると、山田医師が待っていた。
「こんにちは」
「こんにちは」
「では、見せてください」
サングラスを外すと、医師がまぶたを近くから確認する。左右、角度を変えながら。
「いいですね。腫れも、ほとんど引いています」
「そうですか」
「綺麗にできています。では、糸を抜きますね」

医師が器具を持って近づいてくる。まぶたに触れると、チクッとする。でも、ほとんど痛くない。麻酔なしで、こんなに痛くないとは思っていなかった。
「はい、右目終わりました」
左目も、同じ小さな痛み。
「はい、左目も終わりました」

「これで、完成です」

その言葉が胸に落ちるのを感じながら、渡された手鏡を見る。
腫れは、ほとんどない。自然な二重のライン。まぶたの色も、普通に戻っている。
これが、私。
鏡から目が離せなかった。

「綺麗にできましたね。幅も、ちょうどいいです」
医師が、微笑む。
「もし何か問題があれば、いつでも連絡してください」
「はい」
「では、お大事に」

診察室を出て、受付で手続きを済ませて、クリニックを出る。
十二月の冷たい空気が顔に当たった。冷たいはずなのに、その風が清々しかった。

歩きながら、ショーウィンドウに映る自分を見る。
二重の自分が、そこにいる。コートを着て、マフラーを巻いて。
まだ慣れない。でも悪くない。いや、いいと思う。
そのまま、少し立ち止まって、自分の顔を見ていた。

3.会社復帰

出社する朝、洗面所でメイクをする。
アイシャドウを塗って、マスカラをつけるだけ。それだけで終わる。
十分もかからない。
毎朝、アイプチに十分以上かけていた。まぶたを何度も押し込んで、剥がれかけたら直して。それが、今日はない。

鏡の中の自分を見る。二重の自分。メイクをした自分。いつもと同じスーツを着て、いつもと同じバッグを持つ。でも、何かが違う。

電車の窓に映る自分を見ながら、会社へ向かった。

オフィスのドアを開けると、香織がこちらに気づいて顔を上げる。
「おかえり!」
「ただいま」
「もう大丈夫?」
「うん、すっかり」
香織が立ち上がって近づいてくる。里江のデスクの前で立って、じっと顔を見る。

心臓がドキドキする。

「なんか……」
香織が、首を傾げる。
「雰囲気、変わった?」
顔じゃなくて、雰囲気。
「そう?」
「うん。なんか、明るくなったっていうか。目の印象が違う気がする」
「メイク、変えたんだ」
「そっか。似合ってるよ」
香織は、そう言って自分の席に戻る。

里江は、椅子に座った。
バレていない。気づいていない。
パソコンを立ち上げながら、安堵と、それから何か別の感覚が、同時にあった。受け入れてもらえたわけでも、否定されたわけでも、ない。ただ、気づかれなかっただけ。
それが少し、寂しかった。

4.日常の変化

その日の昼、廊下ですれ違った営業部の男性に、会釈をされた。名前も知らない、顔だけ見たことのある男性だった。
「こんにちは」
「こんにちは」
それだけ。でも、こんなことは、今までなかった。

午後、コピー機の前で隣の部署の男性に話しかけられた。「校閲部の方ですよね」「いつもお疲れ様です」。そんな言葉。
翌日のランチでは、見知らぬ男性社員に「隣、いいですか」と聞かれた。

顔が変わっただけで、こんなに違う。

デスクに戻りながら、考えた。
嬉しいような気持ちと、そうじゃない気持ちが、混ざり合っていた。話しかけてくる男性たちは、一週間前の里江を知らない。一重だった頃の里江を見ていない。
でも、それが現実だ。
受け入れるしかない、現実。

5. マッチングアプリ

十二月中旬のある夜、ソファでスマホを見ていて、ふとマッチングアプリのことを思い出した。ダウンロードしてそのままにしていたアプリ。一重の頃は、プロフィール写真を載せる気になれなかった。

カメラを起動して、何枚か自撮りをした。角度を変えて、光を調整して。
一番いい写真を選ぶ。加工はしない。そのまま。
プロフィール写真に設定して、年齢、職業、趣味を書き込んで、登録ボタンを押す。

数時間後、いくつか「いいね」が届いた。メッセージも来た。「はじめまして」「プロフィール見ました」。
いくつかに返信した。

この顔だから、来るんだ。
そう思うと、素直に喜べなかった。でも、画面を閉じることもしなかった。

6. 元彼を思い出す

クリスマスが近づいた街は、イルミネーションと、どこかで流れるクリスマスソングで満ちていた。

ある夜、一人でソファに座っていると、ふと彼のことが頭をよぎった。三ヶ月前に別れた彼。駅で見た、隣を歩く女性。ぱっちり二重の、明るい笑顔。

洗面所へ行き、鏡の前に立つ。
私も、あんな顔になった。
でも、彼は戻ってこない。それは分かっていた。会いたいとも、もう思わない。顔が変わったから? それとも時間が経ったから? どちらでもいいような気がした。

スマホを開いて、インスタで彼のアカウントを探した。見つけて、しばらく画面を見つめてから、フォローを外してブロックした。
スマホを置いて、窓の外を見る。遠くにイルミネーションの光が、静かに瞬いていた。

マッチングアプリで知り合った男性と、来週会う約束をした。どうなるか分からない。
でも、それでいい。
前を向く。

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