目指せひょうたん島,散骨屋の旅。
#創作大賞2025 #オールカテゴリ部門
ひょうたん島はどこにある?
今から考えてみると、1960年代は世界に画期的な変化の始まった
と言っても大げさではないでしょうか?
なんせ、戦争が終わり、新しい時代の始まりと言いつつ、十数年たっても食糧難は変わらず人々のお腹は、いつも幸福感より空腹感に満ちていました。そんなところにまず、ビートルズが新しい音楽で先遣隊のごとく
電波をちゃぷちゃぷ乗り越えて世界中を塗り替えてきたのです。
日本では新幹線も開設され、そのお披露目もオリンピックと共に開催され、
今でこそ世界中で日本が誇る要となり。最高峰の技術を具現化し、
現在の自動車や新幹線など敗戦国なのに「日本は凄い!」と急成長の始まりとなったのです。
いわば、それまでの日本の技術の代表、時計で代表される精密技術を数百倍いや数千倍もの先端技術に引き上げてきたのです。
そんなことは私が言わなくてもみなさんご存じの事なんでしょうが、
ある意味でこうしたこと達が敗戦国の国民だという負のレッテルの元に生きてきた当時の子供たちにも一筋の光を見せることができたのでした。
なぜか日本は悪いことしてたよなと、少し背中が丸くなる時期に、それらの事柄やもっと隅っこの方で若い僕らの心をぐっと掴んだ物があったのです。
それが、NHKのTV15分 番組「ヒョッコリひょうたん島」
個性豊かなキャラクター、ドンガバチョや、サンデー先生と5人の子供たちが登場したのです。彼らは最初にひょうたん島に遠足に行き、火山の噴火に巻き込まれて死んだ設定になっているのですが、ミュージカル形式で数々の笑いと風刺,海賊たちとの戦いや冒険をの物語なのです、そしてなんと劇中に「御詠歌」や「四国霊場物語」(四国八十八箇所)が登場するのですが、劇中とは不似合いにも、「死者の物語」の設定だからという事です。
見ている時はそんなことは考えなかったので、
その頃はこの番組が始まると公園で遊んでいた子供たちは一斉に家のTV前に集合する。優秀版帰校チャイムだったんです。以前はこれまた人気番組の、ラジオ版「赤胴鈴之助」もあったのですがなんせ、こちらは言ってみれば国内の内容、ヒョッコリは国際的というか異国の違いで、知らない海外はこういうものなんだと勘違いしながらも番組にのめりこんでいました。
井上ひさしと山元護久の原作なのだし、物語の着想を、北杜夫の童話『船乗りクプクプの冒険』だから、人気が出るのも当然かもしれない。
声の出演者も、藤村有弘、楠としえ、若山源蔵、熊倉一雄、松島トモ子
その後の第2シリーズ、第3シリーズと回を追うごとに玉川良一、中山千夏、4代目三遊亭小園馬、までが声の出演を果たしていきました。
一時は鶴瓶にも声優としてオファーがあったらしいのですが、
人気番組として有名俳優をどんどん選択していた証しでしょう。
この書は、番組宣伝ではないので、主題に戻る前に,大人気のこのTV番組がなぜ終わってしまったのか?を聞いた話をして終わる事にしましょう。
1035回放送で、出演した郵便配達員らがネコババ事件を題材にしたのが、時の郵政省幹部の大逆鱗に触れたのが番組修了の理由らしいのです。
今であればN党が少し騒げば、もう少し番組継続したかもしれないのですが、番組曲の詩のように、
♬悲しい事もあるだろさ、♬泣くのは嫌だ笑っちゃおう。
ひょっこりひょうたん島♬
1224回でおしまいになってしまったのでした。
はじめての航海
でも私の話はもう少し続きます。
このTV番組は私の中でボデイーブローのように効いていたんですね。
当時17歳ぐらいだった私は、当時のはやり風邪にどっぷり罹患していました。
「外国行きたい病」「勉強したくない病」「なんにでも甘える病」「動きたくない病」等々
どれをとっても病は重くステージ4ぐらいでした。
それなのに,ひょっこりひょうたん島を見ていると、治療薬のような感じで対抗策が出ていたのです。つまり、例えばなんにでも甘える病には、親に海外行きたいからお金を出してくれと言っても、そうですかと出してくれる訳ない、アルバイトしてもそうそう良い給料出してくれるとこはないけど、探してみると良いのが出てくるもんで、当時は羽田空港でポーターなんて言うのがありました,昼から出勤で翌日の昼まで24時間労働と言っても夜食もついているし、寝る時間もありました1日2000円位。
なんだそれは、ちっとも良くないじゃないかなんて思わないで下さい。
アルバイトの仕事はバスから荷物を降ろすためです。
降ろした後はカウンターまでお客自身が運ばないといけません。
そこで少しサービスを延長すると、お客はチップを出してくれるのです。
そこで最初に覚えた英語会話は
お客「いくらですか?」私「UP TO YOU(貴方が決めてください)」これだけで毎日1万円以上になりました。先輩はこれで家を建てたと豪語している人もいました。
今からこのアルバイトをやると考えた人、残念ながら今はエスカレーターや
カートに変わってこの仕事はもうありません。裏バイトでは無しにこういうのも有るもんですね。という事ですぐに渡航料は貯まりました。
やる気になればあるのです方法は。そしてお金がそろうと病は完治。
親はほっとけばその内あきらめるだろうと、何にも言わず放っときましたが、こちらの方が、事が進んで驚くような有様でした。
行き先はオーストラリアと定め、オランダのクルーズ船に決めました。
これならば、英語の方も習いながらいけると考えたのです。
船で行けば、交通費、宿泊費、食費全て付きで当時の飛行機代より安く、
28日間の旅。横浜から台湾、香港、フィリピンに停泊しシドニーに到着します。こうして本格的ひょっこりひょうたん島行きは開始されました。
ヨコハマ大桟橋から夕方乗船して、すぐに出航、1年ほどの日本との別れに夕陽が悲しそうでした。
陽も落ち、レストランに行くと今日乗船した日本人男性と同席となりました。私も英語が分からないのですが、スチュワードの差し出すメニューで何とかオーダーは終わりました、その男性は英語がダメなので、同じものを頼んで欲しいというのでオーダし待っていると、サイドの野菜しか載って無いお皿が2枚。メインの肉や魚等なく、文句を言うと、オーダ―しなかったじゃないかと言われ、したがってお隣の日本人もサイドの野菜だけの夕食は何とも哀れな物でした。
いまから思えばあれは、差別だったのかな~~なんて思っちゃいますけど、
まだまだ差別はいろいろ激しい頃でした。
まあそれでも、色々なイヴェントもあり停泊地での観光や船内での赤道祭、ギャンブルナイトなども楽しい思い出となり
今日は最後の寄港地ブリスベーン。
それまで、船室は4人部屋を3人で過ごしていましたが今日は一人オーストラリア人の若者が増えました。私たちはそれぞれ夕食後明朝のシドニー下船の用意に取り掛かりますが、オーストラリアの若者は今日からの乗船で一晩限りなので、思いっきり羽根を伸ばしてパーテイに参加していたと思ったら
なんと、女性を連れて部屋に戻って来て、何やらごにょごにょ言うので、
俺はもう寝るよと、下船準備も途中で中止し,蚕棚のベットで寝たふり。
おまけに部屋に立ち込める汗臭い匂いを取るためか、航海中は禁止されている船の丸窓を開けるので風がゴーゴーと激しく音を立て入ってきます、
こうして刺激的なオーストラリアへの旅は終わり、オーストラリアの若者の欲望を満たし積極的に道を進む事を学んだのです。
その後1年以上オーストラリアの陸で過ごし、ほぼ今から50年前になりますが、車中泊で、ほぼ1周もし、オーストラリアの国土の広さも空の高さも知り、ゆったりとした土地が、人々の心を創り上げることも知りました。積極的に生きるという事、楽しむ事は探さないと、あちらからはこない事、教わらなければなかなかできないという事も知りました。
言い換えれば楽しい事は勉強と実行でのみ知りえるのです。
動きたくない病もこれで完全治療出来ました。動かないどころかエンジンが止まらなくなりました。ほどなくして滞在期限の事もあり、日本に戻るのですが、日本はどんどん経済発展が進み、バブル期真っただ中でした。
二度目の航海
履歴書に書いた経歴はオーストラリア乞食で大陸一周。なんと趣味の欄には英会話(?)。女の事との英会話だとわかるのですが。
これを見た会長が、こいつを今度アメリカン設立する子会社に送ろという事で衆議決定、会長もひょっこりひょたん島の視聴者だったのかもしれない。
私はオーストラリアで結婚もしていたので、社内の噂では奥さんは外人、
だから英会話も抜群、なんせ趣味だからと噂というかウソでちりばめられた。
私は嘘は言ってないが、あちらが噂して言う事には否定もしなかったせいかもしれない。
ただただ, ひょうたん島的通念(?)で業務を行うだけだが普通の社員とは違ったのかもしれないのでした。
この会長もかなりの変わり者でしたが、あのトヨタでさえ一度撤退したアメリカ市場で日本車の販売を成功させ、Zの名前で有名なスポーツカーを販売した方で米国本社でも社長、会長を歴任されていました。なぜかアメリカの保安官のバッチも持っていました。
その方が退任され、私の勤める本社の会長になられ、3か月に一度くらい米国支社に来られ直々の指導をしていただきました。
その指導たるや、君は美味しいレストランをたくさん知らなくてはいけないし、お客の会社とはなるべく離れてお客さんが知らない情報を入手できるようにするようになどなど、ひょうたん島的な御指導でした。またその方の指示で、アメリカのTV局ABC放送の前副社長が退任するという事で、その方に顧問になっていただくという事も決められたのです。
その方はイタリア系なのですがこの方も極めてひょうたん島住人の様な方でした。なぜかは別に書きますね。
そして今は今は亡くなった、専務に電話で君は私をアメリカに行かせたのは私の行った人事の中で最高だったと言われたのが、私が誇る栄誉となったのですが、私もこれで本当に生粋島住人になってきたという事なのでしょうか。
それを知る人は今となっては誰もいないというのが少し寂しいのですが。
3度目の航海
島民生活十数年経過し、今はアメリカに在住です。
お世話になった顧問や会長、専務も皆さん故人となられました、
寂しい事です。
自然に触れるために、今まで必要な免許、潜水、船、オートバイ、
自動車、飛行機はすべて取得し、必要な時には使用できるよう準備してきました。
たとえ無人島でも料理できるよう習い、修行しましたいれません。修行というより世界を知り、より楽しむためにと言った方が良いのかもしれません。
そして次のステップとして選んだのが、散骨屋になる事でした。
まだ散骨という言葉が知られてもいなく、どういう事かも知られてはいませんでした、機会があったので日本のお墓事情、宗教、葬式費用のすべてを研究し、ひょうたん島での宗教の在り方などとどうも理解できない部分が多かったのです。
自分もいつかは死ぬのですし、費用もあまりかからないことが主旨ですが、
自分が自分で自分の葬式を好きに演出出来たら、どんなに素敵か思ったからです。宗教に従う事もないし、ましてや葬儀屋さんの言い様にはさせないぞという、ひょうたん島住人の島国根性でしょうか?
昔、太平洋の水は悠久の時と共に太平洋の中を流れ、そして周り巡るという事を聞いたことがあります。
ひょっこりの仲間は今でも太平洋を旅しているのでしょうね、私がお手伝いして、散骨を自分の考えるように執り行った皆さんも、今頃太平洋のどこかを観光中なのです。
では実際にハワイで行った散骨の模様を描いてみますね。
ハワイで散骨
栗原優子さんの場合( Hawaii・Oahu )
栗原優子さんのご主人勇二さん59歳、優子さんより4歳年上で、
二人は東京の下町で生まれ、同じ町内で育った。
4歳離れていれば同じ町内に住むといっても、
隣近所でもない限り小さい頃を覚えているわけでなく、
たしかに同じ公立の小学校、中学を卒業したのだが、
二人が成年するまでお互い何の面識も無かった。
二人が始めてあったのは、勇二さんが関東大学対抗ヨット大会で
優勝し、その記念のパーティーでだった。
チームメイトに紹介され、話していくうちに、
中学校の話から同じ町内に住むことがわかり、
それからは初対面の堅苦しさも打ち解け、
まるで旧友に会ったように二人の仲は近づいた。
もっとも、勇二さんは全身スポーツマンで、屈託の無い
性格もさることながら、年間145日にも及ぶヨット練習の
賜物の日焼けと白い歯は優子さんだけでなく誰をも魅了した。
年間半分のヨットの練習は卒業を危うくしたけれども、
その頃は教授回りをし、如何に授業以外のところで頑張ったかを
説明し理解してもらえれば単位をもらえる良き時代だったので、
ここでも、日焼けと白い歯は効果を発揮した。
しかし、こと就職となるとそう甘いものでなく、いつも、
面接では良い点を取るのだけど筆記試験では無残な結果が続いた。
その頃には優子さんとは毎日のように会い、就職試験用に
お弁当まで作ってもらったのにその甲斐も無く、
結局はお父さんの経営していた鉄工所で働く事となった。
いったんは落ち着いたものの、初めは日曜日だけだった後輩の
指導と称するヨットレースはその後、数も増え、
鳥羽レース、沖縄レースと規模も大きくなっていき、
鉄工所には迷惑かけるけれども、留まる事は無かった。
優子さんが29歳の時に遅まきの結婚式を挙げたが、
結婚式の当日も、参加した沖縄レースが台風による影響を受け、
東京に戻る飛行機が欠航になり、あやうく優子さん一人での
式になりそうだった。
新婚旅行にはハワイを選んだ。
こんなにも二人で一緒にいられる時間は初めてだったが、
勇二さんは海を見てソワソワしていた。
ヨットレースの見学ほど面白くないものは無い。
見る人は、陸から見るしか方法は無く、沖でブイを回って行く
ヨットを見ていても何の感激も沸かない。
選手たちの激烈な動きと一瞬の風の動きを予感して操船する
スキッパーの表情など見える訳でもない。
優子さんも何度かヨットレースに誘われ陸から見ることがあったが、
最近は一人で見る事も無くなり、一緒に行く時でも
絵を書いているか、読書している時間が多くなった。
それから数年して娘さんを授かったが、出産の時にも勇二さんは、
ハワイレースの途中レース主催者から定時連絡で教えて
もらったようなありさま。
そして、そのとき娘に「海」と名付けた。ハワイでも
「KAI」は海を意味しているからだ。
優子さんは、まるで一人親のように海ちゃんを育て、
海ちゃんはすくすくと真直ぐに育った。
その頃には勇二さんは日本でも知られたスキッパーとして、
ヨット国際協会の幹事を務めるようにもなっていた。
ヨットレース競技に参加する選手は決して観光目的にヨットには乗らない。
一秒を争い競い合い帆走するのが楽しみらしく、
家族や友達を乗せてゆったり走るなどお金をかけない
麻雀のようだという。
でも、子育てからなにまで全てを優子さん任せにした負い目なのか、
海ちゃんの高校卒業記念に家族でハワイまでヨットで行こうと
提案し、優子さんに無視された。
邪険にされても、勇二さんはヨットを中心とした愛妻謝恩企画の
体裁を変え提案してきたが、その度に優子さんはそれこそ
優しい笑みで見ているだけで「YES」の言葉は聞けなかった。
この頃では鉄工所の経営もうまく行き、協会の幹事として翌年に
参加を表明した、アメリカンカップの視察にも行ったが、
レースに出るほどの年齢ではなかった。
全てが順風満帆で、家族を和やかな空気が漲っていた。
何よりも海ちゃんに許婚が出来、来年の春には結婚式を
挙げることが決まっていた。
海ちゃんはヨットマンを相手に選ばず、サッカーが趣味だと言う、
陸の上で生活する若者を許婚に選んだ。
小さい時から母親の姿を見ていたからかもしれない。
そんな順風は一瞬の内に逆風となり逆巻く波は安泰だった家庭を翻弄した。
優子さんに病魔が襲いかかったのだ。
乳がんで、それも他に転移している兆候があった。
結婚式の延期を勧める許婚の申し出を断り、是非自分の娘の
結婚式を見たいという言葉に反論を差し挟める者はいない。
四月初旬の結婚式は日程通りに行われ、優子さんは車椅子での
出席だったが、十二分に親の責任を果たした。
新婦の持ったブーケと腕を彩るマダガスカルジャスミンのハクレイは
優子さんがベッドの上で作ったものだった。
そして2ヵ月後、優子さんは逝ってしまった。
私のホームページを通じて問合せのメールが入ったのは
その年の10月だった。
はじめまして、来年の6月13日が妻の命日なのですが、
ハワイ・オアフで散骨を行いたいのですが、
参列者が10人程度ですが、出来るだけ大きな ヨットを
お借りする事は出来ないでしょうか?
また、私自身が操船したい のですが可能でしょうか?
通常、問合せによる予約は2ヶ月前から半年前が多い。
8ヶ月前の問合せは少ないが、栗原さんは自分で操船したいので、
捜すのに時間がかかるだろうと早めに連絡したかったようだ。
栗原勇二様
お問合せいただき有難うございます。
6月13日にオアフでの自然葬ですね。今仮押さえの
出来る船は、TANN AYA51フィートのスループですが、
如何でしょう?
10人程度でしたら十分快適にご乗船いただけます。
また船長のアレックスは、世界一周のレースにも3回出場したベテランで、
当然アメリカ合衆国沿岸警備隊が承認するUSCG船長免許を持ち、
船もアメリカ船舶局の安全基準検査の合格船です。
これでよろしければ仮押さえをして、散骨の申し込み契約書への署名、
費用のお振込みを頂いた時点で、本押さえとして予約いたします。
ただ栗原様がご自身で操船する事は、船長が乗船していれば可能
ですが、お客様も乗船されるので保険の事も有りますので船だけ
のチャーターはできませんまた、散骨にはCRDライセンス
が必要でこれが無いと、$5000の罰金、1年以下の懲役となります。
その為、この船をチャーターし、船長にご事情を
説明しますが如何でしょうか?
B.HORIZON
次の日には栗原さんから長文のメールを受け取った。
それには、今まで自分の趣味の域を越えたヨットに対する情熱で、
優子さんにかけた迷惑に対して、どうしても自分の心に描く
謝罪を込めた自然葬の式にしたい事。
そして、新婚旅行で行ったハワイに優子さんがもう一度
行きたがっていたのに、自分がヨットで行こうと言ったせいで、
いつも取り止めになってしまった事などが面々と綴られていた。
そして最期に船長が世界一周も数回しているヨットマンで
あることに強く仲間意識を感じ、興味を抱いたようだった。
私はアレックス船長に事細かに伝え、彼の反応を待った。
アレックスは栗原さんと同じような人生を歩み、同じように
奥さんに迷惑をかけ、今もまだ迷惑をかけつづけていると笑い、
栗原さんに特別の許可を出してくれた。
海の仲間たちに国境は無く、気持ちも同じなようだ。
アレックスの船を使う事は決まったものの、式でかける音楽の選曲、
出航してからの航路、イルカや鯨が見れるか場所等など、
詳細にわたる質問や受け答えは十数回にわたり、式の日は
あっという間に来てしまった。
栗原さんご夫婦共通の親友やヨット仲間たち、ご親戚そして、
まだ新婚の海さんご夫妻、合計10名と私、船長・クルーが乗り込み
船は出港した。
栗原さんにとっては初めてと言っていいレースではないヨッティングだった。
湾内はアレクッスが操船したが、小さな湾を出ると、アレックスが
栗原さんを呼び、これからは貴方が船長だと舵輪を渡した。
季節が少し早かったのか鯨を見ることは出来なかったものの、
イルカの親子が併走し、皆を和ませてくれもした。
後は栗原さんの計画したとおりの航路を快走し、風の影響を受けない
島影に船を止め、700ヤードほど岸から離れたそこは波も舷側を
ピタピタ小さく打つだけで、うねりもなかった。
式を始めた。
栗原さんは乗船する皆さんへの謝意のあと、意外な事を話し始め、
実は今日の自然葬は優子さんが望んだもので、入院して数日目かに
自分の病状を知った優子さんは二人きりの病室で「もしもの場合は
今まで見た海の中で一番きれいなハワイに私を撒いてください。
これから誰もレース中の貴方を見る人がいないのでは、
寂しいだろうから、今までは陸からレースを見てきたけれど、
これからはいつでも側で見ていられるようにね」
話をしている栗原さんも空を見上げ、涙がこぼれないように必死だった。
通訳する私もアレックスも泣いた。
そして、「今、優子を散骨する同じ場所に、時がきたら私も
散骨してください」と締めくくった。
続いて、船長・ヨットマン仲間としのアレックスのスピーチは
声にならなかったが「私が生きている限り貴方を奥さんと同じ場所に
お送りします。」と誓ったのだけが聞こえ、
霧笛の連吹は晴天の海に物悲しく響いて流れていった。
「西経xx。北緯xx」クルーまでが涙声で現在位置を読み上げた。
散骨屋になってよかったと思っている。
多くの人生を垣間見、そしてそこに大きな愛を見る。
訥々と愛を語る人、雄弁に愛を語る人、愛の表現はそれぞれに違うが、
愛の大きさは無限だ。
大海原で地球の鼓動とも言うべき波の流れに身を任せたとき人は皆、
生まれたばかりの心を持てる。
しきたりや慣習にとらわれる事が無く自然に心を開く。
