「父よ」と呼べる幸い|聖書を愛する営業マン
祈るときには、こう言いなさい。「父よ、御名が聖なるものとされますように。御国が来ますように。私たちの日ごとの糧を、毎日お与えください。私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負い目のある者をみな赦します。私たちを試みにあわせないでください」
娘の通う大学で「Parents Weekend」という行事があり、妻と二人で出かけた。
学生向けの礼拝に、私たち保護者も招かれた。たった30分ほどの短いプログラムだったけど、思いがけず心に残る時間になった。
そのときのことを思い出して綴ろうと思う。
毎朝欠かさない30分の礼拝
娘の大学では、毎朝30分の礼拝を欠かさず行なっているという。
賛美歌を歌い、聖書を朗読し、短い説教を聞き、最後に感謝を捧げる。それだけのシンプルな構成だが、これを毎日続けていると聞いて、素直に驚いた。
その日は宗教主事のチャプレンが、モニターに手描きのアニメーションを映しながら、聖書の言葉をとても易しく解説してくれた。
キリスト教とはどんな宗教で、何を大切にしているのか。信仰のない学生にもわかるように、丁寧に噛み砕いて話してくれた。
科学と宗教の関係についても触れられた。
科学だけでは知恵を正しく使う土台がなく、宗教だけでは知識を適切に扱う視点が育たない。どちらか一方では足りないという話に、周りの保護者たちも静かに頷いていた。
営業の現場でも、数字だけを追う人と、人の気持ちを置き去りにする人と、どちらかだけでは長続きしないことと、よく似ている気がした。
出張続きの毎日を送っていると、朝の30分をこうして立ち止まる時間に使うという発想そのものを忘れてしまう。
学生たちが少し羨ましくなった。
「父よ」と呼べることの特権
その日の礼拝で朗読された箇所が、ルカの福音書11章だった。
弟子たちが「祈りを教えてください」とイエスに尋ね、イエスが答える場面である。
あぁ、主の祈りについて解説してくれるんだなと、期待して耳を傾けた。
ところが、チャプレンは、冒頭の「父よ」の部分だけを取り上げて、そこに時間をかけて話した。このひと言を口にできることが、クリスチャンにとってどれほど大きな特権かということを。
父なる神から見れば、信じる者は皆その子どもであり、だから互いを兄弟姉妹と呼ぶのだと聞いて、なるほどと思った。
聖書には、この関係をもう少し詳しく説明している箇所がある。
あなたがたが受けたのは、人を再び恐れに陥れる奴隷の霊ではなく、子としてくださる御霊です。私たちはこの御霊によって「アバ、父」と呼びます。
会社という組織においても、役職や立場を超えて、家族のように信頼し合えるチームは強い。
血のつながりがなくても、共に働く仲間を大切に思う気持ちがあれば、組織はもっと健やかになる。
誰かを「父よ」と呼べる関係とは、血縁の話だけでなく、安心して頼れる相手がいるかどうかの話でもある。
コロナ以降、人との関わりが希薄になっている世の中で、家族のような繋がりを求めるのは困難かもしれない。しかし、だからこそ、相手を思いやる気持ちの尊さを思うのである。
すべての人への祈り
礼拝の終わりに、チャプレンはこの大学に集うすべての人への祝福を祈った。
学生も、保護者も、働く職員も、関わるすべての人にという祈りだった。
主があなたを祝福し、あなたを守られますように。主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。
何千年も前から、形を変えずに語り継がれてきた祝福の言葉だ。
自分の子どもが、こうした環境で大学生活を過ごしていることが、ありがたいなと思う。
信仰を持つかどうかは本人が選び取るものだが、その選択の前に、こうして招かれる場があるということ自体が、ひとつの恵みなのだろう。
願わくは、一人でも多くの学生がこの30分の中で何か大切なものを受け取ってほしい。
そう言う自分自身もまた、日々の忙しさの中で、立ち止まること、静まること、「父よ」と呼びかける時間を持つことを、大切にしたい。
実に居心地の良いキャンパスでした。
