言葉にならないうめき|聖書を愛する営業マン
同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。
今月はじめに、留学に飛び立つ娘を羽田空港まで送っていくクルマの中で、何気なく将来のことを聞いてみた。
明確な返答を期待していたわけではなかったのだけど、娘なりにいろいろ考えているようで、あれこれ話してくれて、少し驚いた。
娘から聞かれた質問のいくつかは、即答できるものではなかったし、うまく言葉が出てこない瞬間もあった。こうすれば解決する、という簡単なものでもなかった。
ぼそぼそ話すことに相槌を打ちながら、それに対して、何も言えない自分は、あまりに無力であるなと自覚した。
それでも、私たちクリスチャンは、たとえ言葉にならないことでも、祈ることはできる。開き直りみたいに思うが、これこそがクリスチャンでいることの特権だろう。
ローマ8章にある「ことばにならないうめき」を思い浮かべながら、あぁ聖霊さま、どうかとりなしてください、と祈った。
重荷を分け合う
ローマ人への手紙の8章に「御霊が私たちを助けてくださる」という言葉が出てくる。
正直に言うと、この「助ける」が、長いことピンとこなかった。
助けるって、何をどう助けてくれるのだろう。困ったときに答えを教えてくれるのか。それとも、力をくれるのか。どうにも輪郭がぼやけているからだ。
調べてみると、この「助ける」という言葉、旧約聖書のとある場面で使われていることがわかった。
それは、出エジプト記の18章である。
エジプトを脱け出した後、モーセは朝から晩まで、たった一人で民のもめごとをさばいていた。それを見た義父のイテロが、こう助言する。「全部を一人で抱えるな、有能な者を選んで仕事を分けなさい」と。
小さな事件はみな、彼らにさばかせて、あなたの重荷を軽くしなさい。こうして彼らはあなたとともに重荷を負うのです。
ここで使われている「重荷を負う」が、「助ける」という意味だそうだ。
うーむ、なるほど。
にしても、この場面で描かれているモーセは、私自身を彷彿とさせる。
管理職になりたての頃、私はなんでも自分で背負おうとして、挙句、潰れかけたことがある。任せる、分ける、委ねる。頭ではわかっていても、いざとなると手放せなかった。自分でやったほうが速い、という言い訳をして、仕事を抱えている自分を誇らしく思っていた。愚かだった。
イテロの知恵は、今でもそっくりそのまま通用する。
御霊が助けてくれる、と言われてもぼんやりしていた。でも、あなたの重荷を一緒に担ぐ、と言われたら、少しだけ肩の力が抜ける。
言葉にならないうめき
その少し先に、こう書いてある。
私たちは何を祈ったらいいのかわからない、と。
祈りの達人でも聖人でもない、ただの人間としての本音がそこにある。この手紙を書いたのは、キリスト教の土台を築いたパウロであり、そのパウロが祈り方がわからない、と正直に書いているのだから、なんだか少し救われる気がする。
さらに続く。
御霊が「ことばにならないうめき」をもって、私たちのためにとりなしてくれる、と。
聖霊がうめく?
うめくのは、痛いときや苦しいとき、言葉にならない何かが喉から漏れ出るときだ。それを、聖霊なる神がする、と書いてある。
不思議だった。というのも、聖書には、こういう言葉もあるからだ。
ことばが私の舌にのぼる前に、なんと主よ、あなたはそのすべてを知っておられます。
神は、私が口に出す前から、何もかも知っている。
伝わっていないから、情報が足りないから、うめいているわけではない。
それなのに、なぜうめくのだろう。全部わかっているなら、うめく必要などないはずなのに。この矛盾がひっかかって離れなかった。
重荷の引き受け手
考えているうちに、たぶんこういうことだと思い至った。
うめきは、情報があるかどうかの問題ではなく、隣りにいるかどうかの問題なのだろう、と。
この聖句をアメリカ人の友人と分かち合っていたとき、彼が commiserate という単語を教えてくれた。
com(共に)と、みじめさや憐れみを表す miser(レ・ミゼラブルのmisérable)とが合わさった言葉で、誰かの悲しみの隣りに寄り添い、共に嘆く。日本語では「お悔やみを申し上げる」が近い意味になる。
この単語が、聖霊のうめきに驚くほどしっくりきた。憐れみとは、遠くから差し出すものではなく、同じ場所で一緒に感じるものなのだと、その響きが教えてくれた。
答えを知っているかどうかと、隣りで一緒に痛みを分かち合うかどうかは、まったく別の話だ。
神が私たちのためにうめくというのは、上から答えを投げてよこすのではなく、同じ地面まで降りてきて、一緒に呻吟してくれているということなのだ。
詩篇にこんな一節がある。
わたしの手は彼とともにあって揺るがず、わたしの腕も彼を強くする。
気まぐれではなく、ぶれずに、ずっとそこにいる。委ねてよい、と思わせてくれる支え方だ。
だから、重荷は一人で背負わなくていい。
うまく祈れなくていい。
言葉にならないうめきごと、主なる神ご自身が、私のこの重荷を一緒に引き受けてくれる。
イエスもまた、こう述べている。
すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
あっちこっち逡巡してうめいてみたが、結局のところは、そう、感謝しかない。
