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言葉にならないうめき|聖書を愛する営業マン

同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。

ローマ人への手紙8:26

今月はじめに、留学に飛び立つ娘を羽田空港まで送っていくクルマの中で、何気なく将来のことを聞いてみた。

明確な返答を期待していたわけではなかったのだけど、娘なりにいろいろ考えているようで、あれこれ話してくれて、少し驚いた。

娘から聞かれた質問のいくつかは、即答できるものではなかったし、うまく言葉が出てこない瞬間もあった。こうすれば解決する、という簡単なものでもなかった。

ぼそぼそ話すことに相槌を打ちながら、それに対して、何も言えない自分は、あまりに無力であるなと自覚した。

それでも、私たちクリスチャンは、たとえ言葉にならないことでも、祈ることはできる。開き直りみたいに思うが、これこそがクリスチャンでいることの特権だろう。

ローマ8章にある「ことばにならないうめき」を思い浮かべながら、あぁ聖霊さま、どうかとりなしてください、と祈った。

重荷を分け合う


ローマ人への手紙の8章に「御霊が私たちを助けてくださる」という言葉が出てくる。

正直に言うと、この「助ける」が、長いことピンとこなかった。

助けるって、何をどう助けてくれるのだろう。困ったときに答えを教えてくれるのか。それとも、力をくれるのか。どうにも輪郭がぼやけているからだ。

調べてみると、この「助ける」という言葉、旧約聖書のとある場面で使われていることがわかった。

それは、出エジプト記の18章である。

エジプトを脱け出した後、モーセは朝から晩まで、たった一人で民のもめごとをさばいていた。それを見た義父のイテロが、こう助言する。「全部を一人で抱えるな、有能な者を選んで仕事を分けなさい」と。

小さな事件はみな、彼らにさばかせて、あなたの重荷を軽くしなさい。こうして彼らはあなたとともに重荷を負うのです。

出エジプト 18:22b

ここで使われている「重荷を負う」が、「助ける」という意味だそうだ。

うーむ、なるほど。

にしても、この場面で描かれているモーセは、私自身を彷彿とさせる。

管理職になりたての頃、私はなんでも自分で背負おうとして、挙句、潰れかけたことがある。任せる、分ける、委ねる。頭ではわかっていても、いざとなると手放せなかった。自分でやったほうが速い、という言い訳をして、仕事を抱えている自分を誇らしく思っていた。愚かだった。

イテロの知恵は、今でもそっくりそのまま通用する。

御霊が助けてくれる、と言われてもぼんやりしていた。でも、あなたの重荷を一緒に担ぐ、と言われたら、少しだけ肩の力が抜ける。

言葉にならないうめき


その少し先に、こう書いてある。

私たちは何を祈ったらいいのかわからない、と。

祈りの達人でも聖人でもない、ただの人間としての本音がそこにある。この手紙を書いたのは、キリスト教の土台を築いたパウロであり、そのパウロが祈り方がわからない、と正直に書いているのだから、なんだか少し救われる気がする。

さらに続く。

御霊が「ことばにならないうめき」をもって、私たちのためにとりなしてくれる、と。

聖霊がうめく?

うめくのは、痛いときや苦しいとき、言葉にならない何かが喉から漏れ出るときだ。それを、聖霊なる神がする、と書いてある。

不思議だった。というのも、聖書には、こういう言葉もあるからだ。

ことばが私の舌にのぼる前に、なんと主よ、あなたはそのすべてを知っておられます。

詩篇 139:4

神は、私が口に出す前から、何もかも知っている。

伝わっていないから、情報が足りないから、うめいているわけではない。

それなのに、なぜうめくのだろう。全部わかっているなら、うめく必要などないはずなのに。この矛盾がひっかかって離れなかった。

重荷の引き受け手


考えているうちに、たぶんこういうことだと思い至った。

うめきは、情報があるかどうかの問題ではなく、隣りにいるかどうかの問題なのだろう、と。

この聖句をアメリカ人の友人と分かち合っていたとき、彼が commiserate という単語を教えてくれた。

com(共に)と、みじめさや憐れみを表す miser(レ・ミゼラブルのmisérable)とが合わさった言葉で、誰かの悲しみの隣りに寄り添い、共に嘆く。日本語では「お悔やみを申し上げる」が近い意味になる。

この単語が、聖霊のうめきに驚くほどしっくりきた。憐れみとは、遠くから差し出すものではなく、同じ場所で一緒に感じるものなのだと、その響きが教えてくれた。

答えを知っているかどうかと、隣りで一緒に痛みを分かち合うかどうかは、まったく別の話だ。

神が私たちのためにうめくというのは、上から答えを投げてよこすのではなく、同じ地面まで降りてきて、一緒に呻吟してくれているということなのだ。

詩篇にこんな一節がある。

わたしの手は彼とともにあって揺るがず、わたしの腕も彼を強くする。

詩篇89:21

気まぐれではなく、ぶれずに、ずっとそこにいる。委ねてよい、と思わせてくれる支え方だ。

だから、重荷は一人で背負わなくていい。

うまく祈れなくていい。

言葉にならないうめきごと、主なる神ご自身が、私のこの重荷を一緒に引き受けてくれる。

イエスもまた、こう述べている。

すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

マタイの福音書11:28

あっちこっち逡巡してうめいてみたが、結局のところは、そう、感謝しかない。

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