【自己紹介】
今更過ぎるという話なのですが、私はリアルでお会いしようが、文章だろうが話が長いので、ここに私を残しておこうという感覚で書きます。
ちなみに今は夜勤から帰ってきて、温泉で見知らぬおじいちゃん二人と一番風呂を共にし、次のらーめんバイトまで暇をしているただの大学生です。
体力あるうちはこういうことできるけど、いや~、いつまでもつのかねと。
しかしまあ、最近思うのは、接客業は楽しいということ。
これまでの飲食店に加え、カラオケ店でのバイトを始めたけれど、何せ別府のお客様たちは本当に温かい。
こちらが申し訳なくなるくらいに、こちららの至らなささえも、お客様が包み込んでくださる。
本来あってはならないことなのですけどね。
バイトとして、もっともっと精進して、ただの労働じゃなくて、僕の大好きな槌田劭先生の仰っていた
「労働は本来的な意味でない。仕事だ。仕事とは何かに仕えることという意味だ」
が、最近、心の耳によく聞こえてくる。
本当にそうなんだよな。
目の前のお客様の、ちょっとした笑顔に、ちょっとした幸せにつながるからこそ、そうなった時はうれしいし、そういう接客がしたいって思っている。
さて、前置きが長くなりましたが、自己紹介と行きましょう。
幼少期
2006年9月20日、第一次安倍内閣発足直後に、福井県鯖江市にて生まれました。当時はひときわ大きな赤子だったらしく、保育器に入れられていようが真っ先に私であると両親は分かったらしいです。
その体の大きさのおかげか、未だに一人暮らしで炊くお米の量は一食2合。
1歳の時まで関西を転々として、それからは京都に落ち着きます。
このころになると、テレビのアナログ放送が終わり、それと同時期に我が家のテレビも壊れ、それから新しいテレビが買われることもなく、私は幼少期をラジオと共に過ごしました。
いつの間にか、聞こえてくるラジオに投稿したいと言い始め、親に平仮名の練習帳を買ってもらって、汚いひらがなでFM京都と、KBS京都に投稿を始め。
今では京都のラジオ局では、ヨリナリはちょっとした有名人です。
地元の図書館で会員カードを出したら、司書さんに
「あの、ラジオの?」
と聞かれたり。
流石にANNのはがき職人の様な全国区に出るほどのセンスはないのですが、おかげさまでラジオという居場所をみつけた幼少期でした。
未だに実家に当時のFAXの原本があるんですが、自分でも笑えるほどに拙い字でしたね。
小学生
小学校に上がると、地元の中でも特認校といって、同じ市町村に住む人であれば、校区の区分関係なく通える小学校を選んだため、当初は車で親に送ってもらっていましたが、もともとてっちゃんだった私は、途中から電車通学を選択。
毎朝7時ごろには家を出て、8時に学校につき、3時半に学校を出て、4時半ごろに家に着くというスケジュールを繰り返すようになります。
ちなみにクラスの人数は、入学時8人、それから10人まで増えたけれども、6年生の時には9人に。
最後は受験生組がメンタル荒れまくりで、非受験生組がその被害を被る始末。
小学生の時から狭い人間関係の中で、醜い人の一面をよく見たものです。
下駄箱で笑顔で顔面に唾を吐きかけられたり、かと思ったらそいつから進路相談されたり。
このころから人間関係において私のおかれる立場がおかしかった気がします。
安保法制をきっかけに小3のころから政治に興味を持ち、毎日ヤフーニュースから気になる記事をピックアップして朝の5時半から鉛筆でそれをA4用紙に自分の意見も含めて落とし込み、何人かの人に配るという活動もしていました。
そしたら案の定、学校の先生から大目玉。
「政治なんて。早いよ。何もわかってないでしょあんた」
みたいな冷たいことを言われ。
結果的にはその活動が、人はなぜ働くのかという問いを生み、わが父を含めて知り合いたちや、街の消防署の人々に、「あなたにとってはたらくとは ?」をインタビューし、新聞記事にするようになりました。
その過程で地元市長(当時)にアポイントを取ろうとしたら、どうも教育委員会を通じて、担任に苦情が入ったようで、
「よりくん、新聞活動辞められへんか?」
といわれましたが
「いやだ♡」
といって続けた結果、次の統一地方選挙の時に、
「ほれ、来てやったぜ」
とよりによってクラスの授業参観の時にわが小学校を訪れる始末。
一応クラス全員からという形でインタビューさせてもらったけど、てめえ選挙だから来ただけやんって思ったら、次の選挙で落ちて、ざまあみろ!って思ったり。
我ながら腹黒い小学生やな。
そんなこんなで小学校六年間はあっという間に溶けていきました。
まあ、学校とも揉めるわいじめられるわで、辟易したので、あえて正規ルートから外れて、オルタナティブスクールに通うことに。
チュー学校
中学は、大阪府箕面市にある箕面こどもの森学園というところに3年間通いました。
こちら、運営母体は認定NPO法人コクレオの森という団体で、いわゆる文科省非認可の学校になるため、生徒は自分の学区の学校に籍だけを置くことで、事実上の卒業資格を公立学校にもらいながら、実際は自由な学びを楽しめるという形式の学校になります。
ただし、自由ということは、それに責任を自分で負わねばならないということ。
成績表がない代わりに、毎週自分自身で目標を立て、振り返り、それらを文章にして書き溜めていき、学期末にはスタッフ(先生とは呼ばず、あだ名)と話し合って次をどうしていくか考える。
いわゆるPDCAを繰り返すことで、自主的な学びにつなげていくようなイメージです。
だけれど、私のように数学が疎かになって、未だに数学ができないバカが誕生するというパターンもあります。
でも、ほとんどの人はちゃんと勉強しているし、何かしら自分の突出する部分と出会えるので、そこを伸ばすきっかけになる学校だったと思ってます。
特に教育に興味がある方にはぜひ見学に行ってほしいです。
私はちなみに、2年生まではワールドオリエンテーションという授業が大好きでした。
大学のレポートの如く、1つのテーマの中で自分が興味のある分野を選択し、それを一次情報を基に仮説を立て、立証し、振り返り、レポートとPPTという形で発表する。
それを保護者や、時に外部からインターンに来ている社会人、学生に見てもらい、意見をもらって反芻していく。
こんな豊かなことを、中学生でやらせてもらえる幸せは半端なかったです。
まあ、その分ひどい目に合うことや、いじめにあうことももちろんあったし、それも含めていい経験だったと思ってます。
何より、コロナの時に同級生が川西から箕面まで電動チャリで通っているのを見て、対抗心で折り畳み自転車で1週間京都から往復58kmチャリで通って高熱を出した1年後に、卒業プロジェクトで四国一周してしまったりもあったので、なんか、本当に刺激を受け続けた3年間だったなあと思います。
なにより、この場所で一生の親友であり、尊敬すべき人たちに出会えたことは宝であったと思っているし、これからも私にとって宝物な場所です。
愛農学園農業高等学校!?
はいはいはいはい。
長くなりますわよ。
中学校の時のコロナ禍をきっかけに始めたもう一つのことが、家庭菜園でした。厳密にいえば、親はずっとやっていたのだけれど、私は大きくなるにつれてほぼ関わっておらず、学校がオンライン授業になり、暇になったので、私は市民農園を1区画借りて1年半ほど真面目に野菜を育てたのです。
それをきっかけに、自分はやっぱり農業がしたい(小学校の卒業式では将来は、内閣総理大臣になるとほざき、来賓席がざわついたwwwwwww)と思って、以前から知っていた愛農学園農業高等学校へ見学に。
案の定思想が強すぎる学校で、有機第一、キリスト教主義、スマホなし、恋愛における交際の一切禁止、全寮制というすんごい偏った思想っぷりです。
だからこそよかったともいえるし、だからこそ病んだ人々の集合体ともいえます。
入学してみると、案外上下関係に慣れるのは早くて、先輩に敬語を使うだとか、一年生の間は、農業をやる代わりに食堂で先輩や職員含めた食事を作る補助作業を朝、夕と当番制でやることなどにも切磋琢磨しつつ、2年生から自分が何を専攻するのかを決めたりしていました。
なによりも、変人が集まるからこそ、寮で朝まで食べ物を囲みながら語明かすのが楽しいのです。
たいていは恋バナで終わるのだけれど、その延長線上で、どんな家族と、どんな風に生きていきたいか、どんな農業スタイルを選びたいかなどを語り始めると、皆止まらない。
そんな先輩たちに恵まれた1年目。
2年目は、こんなに農業高校とか言ってるのに、学園祭で1学年45分の劇をやらせる鬼畜学校陣の下、自分が作りたい劇の原案をクラスに提案すると、脚本を書いてきた人のものが没になり、私の原案が採用されてしまいました。
さあ、困った、私の頭の中には原案しかない。
「みなさん、原案しかないものを選んだということになるので、どうか知恵を貸してください」
といったものの、自発的に何かアプローチをしてくれた人はいなかった。
あとで聞いた話だが、とても言えるようなオーラではなかったらしい。
結局、学園祭まで残り1か月のころに、深夜テンションによって製作された脚本案が突如提出され、私も限界を迎えていたことから、それに手をあげると、全員それに手をあげる始末。
挙句、その採決が終わった後に、
「よりなり、それでよかったの?」
という始末。
「え、じゃあなんで向こうの脚本に賛成したん?」(私)
「え、だってよりなりがあげたから」
こやつらには、自分の意思とやらがないのか。
本当につくづく辟易した。
その後、深夜の寮出騒動の際には、脚本をひっくり返した陣営側が、「脚本づくりもしんどくて、それも深夜の俳諧につながった」と主張する始末。
1人でパソコンに向かって何も浮かんでこなかった私の方が深夜徘徊したかったですわ。
まあ、愚痴が過ぎるのでこの話はこれくらいに。
実際のとこ、私もネットサーフィンしたりしてた部分はあったしね。
時系列ごっちゃになるけれど、1年生の3学期末からは作物部に入部。
主に、愛農の食堂に出す米、じゃがいも、さつまいも、大豆、みそ、小麦などを生産する部門。
元々、高校で農業するならば、米作りを学びたいと思っていたので、作物部に入部した。
実際、やりがいしかなかった。
ただ、田植え機やトラクターの運転にはセンスのかけらもなく、よく主任や助手の先生方にあきれ顔をされたものだ。
でも、それを含めて、皆の口に絶対に入る米を作るという2年半は贅沢すぎて最高だった。
何より、合鴨農法をしているから、耕種部門でありながら、動物も愛でられるという好条件付き。
女性陣からは泥くさくて大変そうということで、嫌われがちだったけどな…。
おめぇら、作物部無かったら飯ねぇんだからなっていつも思ってたw
冬季は田んぼの耕耘と加工がメイン。
冬場に味噌を製麹からやる。
手間はかかるけど、麹菌のついたお米(ほぼ麹)を見る時間、大豆とその麹をミンチ機でミンチにし、団子状に樽にたたきつけ、半年間熟成させるのは、なんかやりがいがあったなあ。
そうそう、高校2年生の夏には小豆島を自転車で一周。
日本でも有数の木桶醤油の文化が残るところで、150年前から使われ続けている木桶と出会って、その雰囲気に圧倒されました。
これがきっかけで今、私は木桶醤油職人になるという夢を持てています。
時はあっという間に過ぎて、高校3年生。
仲の良かった先輩も抜けて、いよいよ同期とチャンと向き合わねばと感じ始めていたころでした。
部門(作物部)でも上級生として教える立場になって、大したことを教えられないことに申し訳なさを感じつつ、後輩と一緒に農作業したり。
修学旅行では小学校ぶりに5泊6日で沖縄へ。
始めて辺野古の基地建設現場や、ガマの中に入って、戦争の惨禍と、未来を考えさせられる6日間だったなあ。
そして、2学期よ。
ヘビーだったよ、本当に。
劇、3年目はこいつらに復讐してやりてえってどっかでクラス皆に思ってて、でも、自分じゃ書けないってわかってたから、劇をやりたい人で実行委員を組んで、その中で脚本を走らせる担当を決めて…。
結果的には、個人的にもすごくやってほしかった人が、
「俺がやる」
って言ってくれて。
彼がやってくれたことにすごく意味のある劇になったんじゃないかと今でも思っています。
常に悩みに悩むタイプの人で、他人に甘く、自分にすごく厳しい人。
そんな人が書いてくれた脚本を基に、劇が走り出した。
けれど、かいてくれた彼は、途中で個人的な事情により一旦活動休止。
それを引き継ぐ形で、縫い合わせたりを残ったメンバーでやった。
けど、本番一週間前になっても、台本は上がらず。
皆今回ばかりは待ってくれたけれど、1週間じゃ仕上げられるはずもなく。
ただ、完璧じゃいられなかったのが私たちだったともいえると思う。
と思いたいだけなのかもしれないけど、たぶんそうだと思っている。
みんな、自分のことで手いっぱいで、劇どころじゃなかったんだろうな。
一応、監督という立場で臨んだ劇。
最終のころは、毎日朝と夕方に農作業、農繁期なので稲刈りをして帰ってきて、風呂に入ってご飯を食べて、本来なら空いていない学校を開けてもらって夜の22時半ごろまで台本の手直しをするを繰り返し。
よく体力が持ったなと思うくらい。
結果的にはストレスで3年生の時に2か月連続で喉つぶしたのですがね。
感じたのは自分の不器用さで、怒りたいと思った矛先はみんなの無関心さ。
本番、1週間前に仕上がった台本を覚えられるはずもなく、ほとんどをアドリブでやってしまった結果(私がね)、当然の如く反感を買った。
劇が終わってから、何人かにいまさら言われてもというクレームを言われ、善人で居たかった私はホームルームで19人のクラスメイトに対し、不快な気持ちにさせたこと、ある意味で台無しにしたかもしれないことを素直に謝った。
けど、謝罪したら謝罪したら、
「別に謝らなくてもいいのに」
と。
どれだけ
どれだけ
後の祭りを繰り返す人たちなんだと強く思う。
それから、とあるクラスメイトがワープロ+手書きで今回の学園祭の劇は頼礼の自己満であるとの意見をくれた。
そうだな。
そうかもしれない。
でも、そうじゃなかったら劇は出来ないし、そもそも進めなきゃ進まないし、完成していなくても強制的に学園祭で必ず上演しなきゃならないんだから。
色んな複雑な感情を織り交ぜながら、休日にそれをくれた人と、対話した。
すると、いろんなものが見えてきた。
私のやり方を批判すると同時に、
「私ならもっとうまくやったと思うな。あと、この人がリーダーをやってたら、あの人がリーダーをやってたなら…」
それを言われた瞬間、私の中の何かが、小さな音を立てて切れた。
怒りすら湧いてこなかった。
湧いてきたのは、
「なんか、生きててごめん」
だった。
けっかとして、軽い不眠症になり、それから職員に相談した結果、進路の受験も控えていることから、いったん実家に戻りなさいと言われ、帰省したのが最後になった。
結果的に2024年の12月から、2025年3月までを実家で過ごし、私の高校生活は音もなく、終わった。
卒業式の日、わたしのために開けられた集合写真の席の横は、皮肉にも、後の祭りをくれたあの人だった。
なんと、入学式の席と一緒らしい。
宿命だったのかな。
私のこの感情も私のエゴだし、その人のその感情もエゴといえるだろう。
私から見れば、リーダー気質のその人が、劇の監督でありたかったとしか思えなかった。
もちろん、単純にもっとやり方があったろうという提案であったとも思えはするけど、あの時のあれは、それだけじゃなかったと思うのだ。
まあ、これこそ、後の祭りなんだけどね。
所詮私も、自分を正当化したいだけ。
私たちのクラスは、他者に不寛容だったと思う。
支えになってくれる人を、支えられなかったクラスだったと思う。
今はもういない人もいる。
その人に、何もできなかったことはないけど、いざ何か起きてから騒ぐのが今の愛農というよりも、私たち生徒の体質であると思っている(偏見99999%)。
だから、私たちは一生悔いて生きるべきだ。
向き合えるチャンスはいくらでもあったのに、向き合ってこなかったのだから。
私も、見方を変えれば、ただ愛農にいた私から逃げているだけ。
でも、私は今は逃げる。
じゃないと、多分私の感情も、心も、身体も死んでしまう。
今は、生きていきたい。
だから、愛農からは距離をとる。
そういう選択も必要だと思う。
今は嫌いなあの人も、お爺さんになれば、もうちょっとちゃんと向き合えるようになるかもしれない。
だから、いつか偶然会うのを楽しみに、今は人間として、ここで成長していきたい。
そして、今
高校をドロップしてからは、映画を撮らせてもらったり、その映画を高校の同期が見に来てくれたりと、これまたいろいろあった。
そして、単位もたくさん落とした。
今は、バイトに明け暮れている。今月はトータル160時間くらい。
でも、いろんな人に出会えてるから、楽しい。
やっぱり私は人と出会わないと多分、メンタルが死んでしまう。
だから、皆に会いに行きたい。
あなたが会いに来なくても、私が必ず会いに行くから。
だから、今は待っててください。
金欠なのと、時間がないのでwwwwwww
今年からは、棚田、祭り、地域、文化、醤油、大学、バイト。
多岐にわたることを、バランスよく嗜んでいけるように、うまく自分とお付き合いしたい。
頑張ります。
そんな小松頼礼でした。
人を頼って頼られる人、生まれてきてくれてありがとうの礼。
親にもらった名前を背負って、それに見合う人間になれるように、頑張ります。
私と出会ってくれた全ての人へ、これから出会う全ての人へ。
生まれてきてくれてありがとう。
貴方と出会えた僕は幸せ者です。
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