「いいね」は賛同のためならず
よくTwitterなどで「いいね」は必ずしも賛同ではありませんという注意書きをしている方を見かける。
昨今問題になっている、SNS上で誹謗中傷や悪質な同調ではないアピールだと思うが、ではその『いいね』にはどんな意味があるのだろう。
その「いいね」の意味は何か
『必ずしも賛同ではない』とあるので、賛同のことも多いのであろう。
では賛同ではないとしたら何なのか、思いつくことを書いてみる。
私はちゃんと見てますよ(既読通知)
こんなこと書いている人がいますよ(スポットライト)
私たちは仲間だもんね(コミュニティマネージャー)
まだあると思うが、こんなところだ。
1つ目は分かりやすい。私はあなたのつぶやきを無視していませんというリアクションを贈っている。
2つ目は、いいねをした人がツイートした本人ではなく、他の誰かにその内容を教えてあげるというアテンションを贈っている。ツイートした本人は蚊帳の外に置かれている。
3つ目は少し複雑だ。いつでもお互いにいいねを贈り合うことで、お互いの帰属意識を確認しているのだ。この時ツイート内容そのものはさほど重要視されていない。
さて、「いいね」には色々な意味があるらしいことは分かったが、今度は贈るという行為の持つ意味を考えてみたい。
Giftのもつ両義性
”Gift” という単語には元々は贈り物と毒という二つの意味があることをご存じだろうか。
英語には毒という意味は残っておらず、むしろ天賦の才能のような意味でも使われるが、現代ドイツ語は逆に「毒」という意味だけが残っている。
贈り物を取り巻く関係性は贈る人、贈られる人で成り立っているのだが、多くの場合、一度きりの一方通行のものではない。
贈られた人はお返しをするのが社会規範のようになっている。
つまり、贈る→贈られる→お返しをする→また贈る→贈られる→お返しをする・・・という循環性がそこにはある。
この循環性の正体は前述の「いいね」の意味の3つ目と同じ帰属意識である。
極端な言い方をすれば、贈り物(いいね)をしないと、仲間の輪になれないのだ。またし続けないと仲間の輪から外されてしまう恐れがある。
この交換が始まってしまうと、抜けることによるデメリットが多すぎて抜けられないのだ。
また、お返しはもらったもの以上の価値がないとまたつまはじきの恐怖が待っている。
Giftに「毒」という意味があるのは贈り物の中にありがたくない贈り物である「毒」があったからという説もあるが、そうではなくて、交換の連鎖に恐怖による中毒性があるからではないかと考えてみるとしっくりくるのではないか。
そう考えると、「いいね」の3つの意味のうち、1つ目(既読通知)と2つ目(スポットライト)も3つ目の帰属意識(コミュニティマネージャー)に内包されるものだと気づく。
「いいね」そのもの価値があるか
今度は帰属意識を確認するツールである「いいね」そのものの価値を考えてみたい。
「いいね」には、金銭的な価値はない。「いいね」をたくさんもらうことでそれだけで経済的に裕福になることはない。広告収入はあくまでもその影響度に対して対価を払っているにすぎない。
「いいね」には、所有という概念もない。例えば、私が誰かに付けたその「いいね」は私のものではなく、財産が一つ減るものでもない。
「いいね」には、何か価値があるだろうか。「いいね / Like」が「すき」とか「Nice」に変わっても機能上問題ない。そういう意味で表象的な価値はなさそうだ。
それでも「いいね」にはコミュニティを形成したり、維持したりする力がある。人間関係や信頼関係といった社会資本的な価値を生む力が「いいね」にはあるのだ。
つまりお金と近い機能を持っている。「尺度」、「交換」、「保存」である。
ただ異なることは、価値の「創出」の力がある。まったく無関係の状態から0→1「いいね」によってつながりが生まれる。
お金はお金だけで価値を生むことはできない。
まとめ
収拾がつかなくなってきたので、最後にまとめたい。
「いいね」はコミュニティ形成のツールである
「いいね」は中毒性があり、他者を巻き込む力が強い
「いいね」は新しいコミュニティをつくることができる
つまり、誹謗中傷の回避やつまらない自己防衛などというさみしい発想ではなく、「いいね」は贈る側が責任をもって他者との良いつながりを生むためにつかうべきものである。
清き「いいね」お待ちしています!
参考文献
マルセル・モース 「贈与論」
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