評価されない努力の隠れたアレの話
誰も見ていないところで、遅くまで残って働いた。
誰にも言われていないのに、雑用を率先して引き受けた。
自分の時間を削って、他人のフォローにまわった。
──それなのに、なぜか「評価されない」。
成果主義を掲げる現場でも、「努力は報われる」はずの教育現場でも、なぜ「一番がんばっていた人」が埋もれてしまうのか?
それは「評価」という行為自体が、『見える努力』を好むからだ。
売上、数字、アウトプット、 リーダーシップ、発言、プレゼン、 表彰、結果、インパクト……。
これらはすべて、記録できる努力だ。
言い換えれば、「アピールしやすい努力」だけが評価される構造ができている。
一方で、“見えない努力”はどうか?
新人の孤立を防ぐちょっとした声かけや、誰も気づかないタスクを引き受ける「気づき」など。
こうした行動は、誰かの「助け」にはなっているが、『成果』とは結びつきにくい。
だから、評価基準の外側に置かれてしまう。
ここに、構造的な「ズレ」がある。
組織が求めているのは「チームの成果」だと言う。
しかし、評価されるのは「個人の目立つ成果」だけだったりする。
つまり、「誰かのためにした努力」は、『見えづらい』というだけで、組織的に軽視されてしまうのだ。
そして皮肉なことに、「評価されない努力」は、「評価されないように設計された努力」でもある。
では、どうすればこの構造を変えられるのか?
目立たない貢献を『発掘』するプロセスを仕組みにする。
「誰が言ったか」より「何を変えたか」で見るようにする。
努力には「成果に直結するもの」だけでなく「関係性や雰囲気を支える努力」もあると理解する。
★
誰にも見られなかった努力。
誰にも届かなかった工夫。
誰にも褒められなかった優しさ。
それらがあってこそ、社会はまわっているのではないか?
こんなこと、教科書に書いてなかったんだよな。
前回の #教科書に書いてない シリーズは…
