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評価されない努力の隠れたアレの話

 誰も見ていないところで、遅くまで残って働いた。
 誰にも言われていないのに、雑用を率先して引き受けた。
 自分の時間を削って、他人のフォローにまわった。
 ──それなのに、なぜか「評価されない」。

 成果主義を掲げる現場でも、「努力は報われる」はずの教育現場でも、なぜ「一番がんばっていた人」が埋もれてしまうのか?

 それは「評価」という行為自体が、『見える努力を好むからだ。

  売上、数字、アウトプット、 リーダーシップ、発言、プレゼン、 表彰、結果、インパクト……。
 これらはすべて、記録できる努力だ。
 言い換えれば、「アピールしやすい努力」だけが評価される構造ができている。

 一方で、“見えない努力”はどうか?

 新人の孤立を防ぐちょっとした声かけや、誰も気づかないタスクを引き受ける「気づき」など。

 こうした行動は、誰かの「助け」にはなっているが、『成果とは結びつきにくい

 だから、評価基準の外側に置かれてしまう。

 ここに、構造的な「ズレ」がある。

 組織が求めているのは「チームの成果」だと言う。
 しかし、評価されるのは「個人の目立つ成果」だけだったりする。

 つまり、「誰かのためにした努力」は、『見えづらい』というだけで、組織的に軽視されてしまうのだ。

 そして皮肉なことに、「評価されない努力」は、「評価されないように設計された努力」でもある。

 では、どうすればこの構造を変えられるのか?

 目立たない貢献を『発掘』するプロセスを仕組みにする。
 「誰が言ったか」より「何を変えたか」で見るようにする。
 努力には「成果に直結するもの」だけでなく「関係性や雰囲気を支える努力」もあると理解する。

 誰にも見られなかった努力。
 誰にも届かなかった工夫。
 誰にも褒められなかった優しさ。

 それらがあってこそ、社会はまわっているのではないか?

 こんなこと、教科書に書いてなかったんだよな。


前回の #教科書に書いてない  シリーズは…


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