見出し画像

ルールと云う思考停止装置の正体を暴く

 「ちゃんとルールを守ってください」
 「決まりですから」

 学校でも、職場でも、社会のいたるところで耳にするこの言葉は、私たちを安心させ、社会を円滑に回すための魔法の呪文だ。
 誰もが一度は、これに従い、あるいはこれを盾にしてきたことがあるだろう。

 だがある日、ふと気づく。
 ルールを守ることが、時に人を傷つける
 ルールを守っているはずなのに、誰も得をしていない

 そこにあるのは、正義でも秩序でもない。

 ただの、思考停止だ。

 ルールは、本来「何かをよくする」ためにつくられる。
 公平性を担保するため。あるいは、予測可能性を高めるため。
 なによりトラブルを防止するため……。

 つまり、ルールには目的がある
 そして本来、その目的が果たされていなければ、ルールは修正されるべきなのだ。

 だが、現実には違う。

 ルールが、目的よりも上位に来てしまう瞬間がある。

 「前例がないからダメ」「本部の指示なので」「仕組み上できません」
 そして「仕様です」

 こうして、形式だけが肥大化していく。

 この構造は、教育現場によく現れる。
 たとえば、「制服の着方」や「頭髪の色」に対する校則。その合理性が問われることは少なく、「とにかく決まりだから」という理由で生徒を指導する。

 そこにあるのは、規範ではなく管理だ。

 さらにこの構造は、大人の世界にも広がっている。
 本人確認のために、紙の証明書を持参させる行政窓口。「マニュアルにないから」と動けないコールセンター。書式通りの資料を繰り返し求める大企業などなど。

 ここには、責任の所在を回避するための構造がある。
 ルールに従えば、責任を取らなくていい。
 判断をせずに済む。
 だから思考を止める。
 むしろ、止めることが奨励されてすらいるのだ。

 問題は、こうしたルールの多くが、すでに目的を見失っているという点だ。

 なぜこの手続きを踏まなければいけないのか?なぜこの書類が必要なのか?なぜこのルート以外を認めないのか?これらを問うと「昔からそうだから」という答えが返ってくる。
 つまり、ルールは「自走する構造」になっている。

 では、どうすればいいのか。

 答えは、「ルールを疑う勇気」だ。
 そしてそのためには、ルールの背景にある“目的”を常に意識すること。

 何のためにそのルールは存在しているのか?その目的は今も有効なのか?違う方法で、もっと良くできないか?こう問い直すことで、私たちはルールの『奴隷』ではなく、ルールの『設計者』になれる。

 そのとき初めて、組織も社会も、生きた構造に変わっていくのだ。

 ルールを守ることが大事なのではない。
 ルールの目的を見失わないことが、大事なのだ。

 だったら、こう言おう。

 もう、「ルール」のせいにはしない。


 こんなこと、教科書に書いてなかったんだよな。


 前回の #教科書に書いてない  シリーズは…

エンディングテーマ『教科書に書いてない』

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集