あなたのためを思ってという呪い
「あなたのためを思って言っているのよ」
「君の成長を願って、あえて厳しく言うんだ」
一見、やさしさに満ちた言葉だ。
だが、聞く人の心には、ときに深く刺さる。
なぜならこの言葉は、反論を封じる『聖域』として使われるからだ。
相手の主観に基づく「善意」であるがゆえに、それを疑問視することは“非情”や“恩知らず”とされやすい。だが──その言葉の背後にある構造に、そろそろ目を向けるべき時が来ている。
「あなたのためを思って」は、実は極めて構造的な言葉だ。
言われた側は、内容にかかわらず“受け入れるしかない”立場になる。意見や感情を示せば、「わがまま」や「反抗的」と見なされる。
なにより「ありがたく受け取ること」だけが、正しいリアクションとされる圧力がある。
この構造は、家族や学校、職場など、上下関係が存在する場でとくに強く働く。
親が子に、先生が生徒に、上司が部下に、年長者が若者に。
それぞれの立場に正義はある。だが、その正義が免罪符のように振る舞った瞬間、『思いやりの構造』は『抑圧の構造』へと変質する。
善意の仮面をかぶったこの言葉は、ときに暴力にもなる。
身体を傷つけることがなくても、精神に深いダメージを残す。
進路を否定されて、自分を信じられなくなったりした。
否定的な言葉を『愛情表現』として飲み込まなくてはならなかった。
「我慢こそが成長」と刷り込まれ、自分の感情を見失った……。
これらはすべて、「あなたのため」という言葉に支配された結果だ。
これらの厄介なところは、加害者に自覚がないことだ。
むしろ「よかれと思って」やっている。「ちゃんと育ってほしい」「幸せになってほしい」と、本気で願っている。
だがその願いが、「自分の理想像を相手に投影する」というかたちで現れたとき、それは相手の人生を奪うナイフになる。
「あなたのために」とは、本当は誰かの「私の理想のあなたのために」なのだ。
では、どうすればいいのか?
第一に必要なのは、『ためを思う』ことと、『ためを語る』ことを分ける視点だ。思うのは自由だ。だが、語るならば相手の主体を尊重しなければならないだろう。アドバイスは、望まれたときだけ、対話として差し出すべきだ。そしてなにより善意を押しつけるのではなく「選べる余白」を残すべきだろう。
その積み重ねこそが「信頼」の構造を育てていく。
「あなたのためを思って」は、確かに愛の言葉だった。
けれどそれは、使い方を誤れば呪いにもなる。
そして、かつてその言葉で傷ついた誰かが、今度は別の誰かに、同じ言葉を向けてしまう──。
そんな構造の連鎖を、そろそろ断ち切らなければならない。
だったら、こう言おう。
もう、「あなたのため」のせいにはしない。
こんなこと、教科書に書いてなかったんだよな。
前回の #教科書に書いてない シリーズは…
エンディングテーマ『教科書に書いてない』
