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物語はレコメンドに感染するのか

 前回、他者を自分の文脈に巻き込んでしまう「共感」という病について触れたところ、私たちが「優しさ」だと信じているものの正体が、実は相手を都合のいい檻に閉じ込める装置かもしれないという指摘に、多くの反響をいただいた。

 その延長線上で、今回は私たちの精神の避難所であるはずの物語が、なぜこれほど牙を抜かれ、毒を失ってしまったのかという残酷な真実について考えてみたい。

 かつて映画などは、日常の論理が通用しないあちら側の深淵を覗き込み、自分の価値観を根底からひっくり返されるような劇薬のようなものだった。

 しかし現在綴られる物語は、自分たちの正しさを再確認させてくれる、極めて安全な飼育小屋安全地帯にすぎない。

 SNSでの過剰な検閲や、わずかな不快感すら許さない脊髄反射的な拒絶反応が、物語から毒を抜き取り、骨抜きにしている。

 人々が求めているのは、自分たちの道徳観を脅かさず、因果応報が明快な心地よいスープであり、悪役は深淵の住人ではなく、単なる未熟な愚か者として処理され、物語は「共感」という万能溶剤で薄められていく。

 しかし、知的な体験エンターテイメントとは、理解不能な悪や解決できない矛盾に直面し、呆然と立ち尽くすことの中にこそあるのではないだろうか。

 この現象を加速させているのは、教養を「正解探し」と勘違いしている層の存在だ。

 彼らにとって物語は、思考を深める器ではなく、明日使える教訓や社会正義の正解を抽出するためのコスパのいいソースにすぎない。

 物語の多義性を捨て、一つの記号へと無理やり圧縮するのは、脳のエネルギー消費を抑えようとする合理的な戦略だが、それは同時に文化に対する冒涜でもある。

 本来サブカルチャーとは、社会の公式見解から溢れ出した、人間のドロドロとした欲望や理不尽なリアリズムを掬い取るための器だったはずだ。
 しかし今の私たちは、その器の中にさえ公式見解という名の消毒液を注ぎ込み、清潔な空間を保とうとしている。

 主人公が同じ悩みを抱え、予定調和のカタルシスを与えてくれる物語を通じて、私たちは他者に出会っているのではない。

 ただ自分の投影を追認し、安心したいだけなのだ。それは知性の拡張どころか、閉鎖回路の中で自分を愛でるだけの行為にすぎない。

 物語から毒を排除した結果、私たちは現実のグロテスクさに耐えるための知的な免疫力を急速に失いつつある。

 教養としての物語を取り戻すには、まず不快感を歓迎することだ。
 自分を癒やしてくれる作品ではなく、自分の輪郭を損なうような表現、あるいは自分の世界観を暴力的に破壊するような作品にこそ、真の知性は宿る。

 それはアルゴリズムが差し出す「あなたへのおすすめレコメンド」の対極にある体験であり、物語が提示する深淵を覗き込み、そこに自分自身の姿ではなく、理解不能な異形の真理を見出すことで初めて、サブカルチャーは単なる消費のための娯楽から、複雑な世界を読み解くための鋭利な武器へと変貌する。

 毒を恐れていては、この荒涼とした現実を生き抜くための免疫は決して手に入らない。
 私たちが心地よさを追求すればするほど、世界は確実に狭くなっているのだから。配信サービスで選択する物語の次は、あえてあなたが選ばないような作品に触れてみるのも悪くないはずだ。

#令和の教養考シリーズ

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