仕事が趣味という呪縛を解剖する
「趣味は仕事です」
一見、意識高い系の発言かもしれない。
あるいは本気でそう思っている人もいるだろう。
だがこの言葉に、微細な違和感を抱いたことはないだろうか?
それはもしかすると「仕事=すべて」になってしまった構造の異常値かもしれない。
そもそも、「仕事が趣味」という言葉は、過剰適応の裏返しであることがある。
趣味を持てる余裕がない。仕事以外にアイデンティティを感じられない。
なので人間関係も、情報も、すべて仕事経由になる。こうなると「趣味が仕事」なのではなく「趣味にするしかなかった」仕事なのだ。
日本社会では特に「打ち込んでいる人=信頼される人」という価値観が根深い。
だからこそ、休日出勤を「自分の意志」と呼び、家族よりも「プロジェクト」を優先する。ややもすれば、『無償で頑張る人』が評価されはじめる。
そういう『美徳型ブラック構造』が、長らく放置されてきた。
そして、それが個人の『趣味』という言葉でオブラートに包まれる。
さらに問題なのは、この構造が「燃え尽き」や「喪失感」を生むことだ。
定年などで仕事がなくなった瞬間、自分が消える。
また、 成果が出なくなると、自己評価も地に落ちたり、趣味を『副業化』したはずが、義務とプレッシャーに変わる。
つまり、「仕事が趣味」という構造は、その人の『余白』を奪っていく罠でもある。
では、どうすればよいのか?
ひとつは、仕事以外のコミュニティを持つ事だ。
楽しさや没頭を「結果」で測らない領域を確保する。
そして何より「役に立たない時間」を意識的にスケジュールに入れる。
ときに、誰の役にも立たないことこそが、人格の輪郭をつくる。
「仕事が趣味」だと語ることで、あなたは本当に自由になれているだろうか?
それとも、“評価の構造”に寄りかかることで、自分を保っているのだろうか?
趣味とは、社会とつながるためのツールではない。
むしろ、社会の文法を一時的に忘れるための、小さな逃走路なのだ。
こんなこと、教科書に書いてなかったんだよな。
前回の #教科書に書いてない シリーズは…
エンディングテーマ『教科書に書いてない』
