雨上がりの山道には、消えた水の地図が残る
山の日、山頂ではなく足元を見る
8月11日は山の日だ。今年は岐阜県高山市で第10回の記念全国大会の開催日でもあり、環境省も北アルプスの自然だけでなく、登山道をどう守り、どう維持するかを紹介している。
山の日に目が行くのは、どうしても山頂や稜線だ。
でも、今日は足元を見たい。
雨上がりの下り道を歩く。靴の少し前で、土の表面を細い水がなぞっている。最初は指一本ほどの流れでも、下りが長く続けば、あちこちの水が同じ低い場所へ集まりやすい。流れる水は土を運び、路面を削る。
雨が止んで水そのものが消えたあとも、跡は残る。細い土だけが抜けた溝。砂や小石が寄った低い場所。昨日まで水が走った線が、路面にうっすら残っていることがある。
晴れた山道にも、水の地図は残る。
そして、ときどき道が妙なことをする。
下っていたはずなのに、ほんの数歩だけ上り返す。
足は一瞬、「なぜ今、上る?」と思う。
山頂へ近づくわけでもない。景色が変わるほどでもない。数歩上がったら、また下る。
ところが、トレイル設計には、下り続ける勾配を短い区間だけ反転させ、水を道の外へ逃がす方法がある。英語では grade reversal(グレード・リバーサル、勾配反転)と呼ばれる。
およそ3〜5メートルほどの短い区間で、下りをいったん上りへ返す。
道が少し上るのは、水を下へ走らせ続けないためだった。
人には数歩の上り。
水には、ここで終わる下り坂。
一枚の板で、水の気持ちを考えてみる
ここに、何もない平らな一枚の板があるとする。
まず、その板を少しだけ傾ける。
上の方から水を垂らせば、水は当然、低い方へ流れていく。途中で止めるものがなければ、そのまま板のいちばん下まで進む。
では、この板を山道の簡単な模型にしてみる。
水が流れる方向に沿って、板の表面へ細い溝を一本つくる。山道に水が集まり、細い流れになっている状態だ。
そのまま水を垂らせば、溝に入った水は低い方へ流れ続ける。
そこで、溝の途中に粘土でごく低い山を一つつくる。
ほんの少しだけ、流れが上り返さなければ先へ行けない形にする。
そして、その小さな山の手前から、板の横へ向かってもう一本、低い出口をつくる。
もう一度、水を流してみる。
水は下へ進む。
けれど途中には、小さな上りが待っている。
そのすぐ横には、もっと低い出口がある。
水には「このまま下まで行け」と命令する人はいない。より低く進める方があれば、そちらへ流れる。
だから水は、板のいちばん下まで一本道で走り続けず、途中の出口から横へ抜ける。
山道の小さな上り返しも、考え方はこれに近い。
歩く人に見えている起伏と、水が見つける出口は、同じ形の別の顔だ。
水を一本道で走らせ続けないために、山道は縦に上ったり下ったりする。
では、道の表面を横から見たらどうなっているのだろう。
山道は、横にも傾いている
山道を上から見れば一本の線に見える。
でも断面で見ると、もう一つの傾きがある。
路面の山側と谷側を比べ、谷側をほんの少し低くする。すると雨水は、道に沿って下へ走る前に、横へ抜けやすくなる。
この考え方は outslope(アウトスロープ)と呼ばれる。
やっていることは、路面の片側をほんの少し低くすることだ。
道を、わずかに横へ傾けておく。
たったそれだけで、水に「まっすぐ下まで行く必要はありません」と別の低い方角を渡せる。
縦には小さく上り返す。
横には少し谷側へ傾く。
山道は、歩く方向だけではなく、水が逃げる方向まで含めて立体だった。
石が邪魔に見えたら、水の側へ回ってみる
さらに歩くと、道を斜めに横切る石や木に出会うことがある。
人の目には、ちょっとまたぎにくい物に見える。
水の側から見ると、話が変わる。
石や木で流れを受け、谷側へ向きを変えさせる。構造物を越えさせる方法もある。溝をつくって横へ出す。場所によっては、枝などを詰めた部分の下へ水を通す考え方もある。
止める。越えさせる。下を通す。横へ逃がす。
同じ「排水」でも、水への頼み方は一つではない。
しかも、水の通り道がいつも目に見えているとは限らない。
道を横切る溝をつくり、その中へ樹枝などを詰めて水を通す方法がある。
石や木で流れを横へ向ける仕組みが表に見える一方、こちらでは水は枝を詰めた部分の中を通る。
こうした、内部へ水を通す仕組みを暗渠(あんきょ)型の排水という。
水は中を通る。
道の表面から、いったん水の姿そのものが消える。
雨上がりの山道で見えている水だけを追っていると、道の中を抜けていく水を見落とす。
環境省の大雪山の技術指針には、こうした導流や排水の工法が複数示されている。
そして、出口をいくつ置くかにも意味がある。
水を一か所へ集め、太い流れに育ってから相手をするのではない。
小さいうちに、何度も道の外へ降ろす。
こまめに出口をつくれば、一つの場所へ集まる水量を抑えやすい。
大きな一本の水路を作らせないために、小さな出口を何度も置く。
山道の排水は、強い壁で水に勝つ話というより、流れが大きくなる前に何度も方向を変えてもらう話に近い。
道の上だけを見れば、これで成功に見える。
けれど、水を道の外へ出した瞬間、次の問題が始まる。
出口の先にも、守るものがある
水が道の外へ出た。
これで排水は成功と思いたくなる。
排水は、道の外へ出したところでは終わらない。
水を流し出す場所は、排水先の植生を傷つけにくい場所を選ぶ。
道を守るために水を外へ出し、その水で隣の植物を削ったら、問題を道の外へ引っ越しただけになる。
出口にも、行き先がある。
どこから水を離すかだけでなく、どこへ渡すかまでが設計になる。
そして、水と植物の間には、もう一人いる。
歩く人だ。
大雪山では、流水や雪解け水による侵食だけでなく、ぬかるみなどを避けて登山者が道の外を歩くことによる植生への影響も課題になっている。
足元が深くぬかるんでいたら、横の乾いた場所へ一歩よけたくなる。
段差が高すぎたり、踏む場所が狭すぎたりすれば、やはり脇を通りたくなる。
その一歩が何度も重なると、一本だった道の横へ、もう一本の踏み跡ができる。
水が道を広げるのではない。水が変えた足元を見て、人の足が道を広げることもある。
登山道の設計は、水の流れだけを見ても終わらない。
人がどこへ足を置きたくなるかまで、道の形に関わってくる。
石段には、上る足と下る水がいる
山道の石段には、二つの流れが重なる。
人は上へ行きたい。
雨水は下へ行きたい。
同じ石段を、二つの流れが逆向きに使う。
だから踏み面を完全な受け皿にせず、水が端へ抜けるようにわずかな傾きをつける考え方がある。斜面を横切る場所では、段や踊り場を谷側へ少し傾けて水を逃がす。
石段を一段ずつ小さなダムにしてしまえば、水はたまり、あふれ、別の低い場所を探す。
人の足には安定した面がほしい。
水には、居座らない面がほしい。
しかも石段は、見えている石だけで立っているわけではない。石を据えるときは下側から組み、最初の石を地面へ安定させ、その上へ段を重ねていく。
山道で見えている一枚の踏み面の下には、表からは見えない支え方がある。
雨のあとに石段を見ると、もう段数だけでは終わらない。
水はどちらへ抜けるのか。人はどこを踏みたくなるのか。その二つが同じ場所で相談しているように見えてくる。
一本の道の向こうに、300キロがある
大雪山国立公園の登山道は、資料ではおよそ300キロに及ぶ。
300キロ。
足元の一枚の石を見ていたはずなのに、急に地図を広げたくなる長さだ。
これだけの道を、雨が降るたび、雪が解けるたび、人が歩くたびに、同じ状態へ自動で戻してくれる仕組みはない。
環境省は、行政だけでなく、山岳関係者や地域、利用者など多様な主体で維持管理を支える考え方を示している。
今年の山の日に合わせた北アルプスの展示でも、テーマには「知る・歩く・守る」が並び、登山道を支える取り組みが紹介されている。
自然の中にある道は、何もしなくても自然に「道」であり続けるわけではない。
水の出口をつくる。
石を据える。
ぬかるみや崩れを見つける。
人が道外へ逃げたくなる場所を見直す。
排水先の植物まで確かめる。
そうした小さな判断が何度も重なって、一本の線が一本のまま残っていく。
山道を歩いていると、自然の中へ入っていく感覚が強い。
でも足元の道そのものには、自然と人の仕事が何度も縫い合わされている。
次の下り坂で、数歩だけ上ったら
最初の雨上がりの道へ戻る。
下り坂。靴先の前を水が走る。
そして、道がほんの少し上り返す。
すべての山道の凹凸が排水のために作られているわけではない。地形そのものの起伏もあれば、別の理由で置かれた石や段差もある。
それでも、水を一本道で走らせないために、わざと下りを短く上りへ返す設計がある。
この事実を一度知ると、数歩の上りがただの邪魔ではなくなる。
足には、「なぜ今?」。
水には、「ここまで」。
その先で細い流れだけが道を外れ、斜面へ戻っていく。
山道は、水と力比べをしているのではない。
大きな流れになる前に、小さな出口を渡し続けている。
石も、溝も、横の傾きも、段差も、別々の方法で同じ問いを抱えている。
この水を、どこまで道の上で走らせるのか。
山の日に山頂を見上げるのもいい。
でも次に山を歩くとき、足元が数歩だけ余計に上ったら、少しだけ立ち止まってみたくなる。
その小さな上り返しは、あなたを遠回りさせるためではなく、雨水を早めに山へ返すための数歩かもしれない。
歩く人には、小さな不便。
山道には、長く残るための仕事。
水には、出口。
