ChatGPTとの対話:5-1

やや乱雑な文体ですが、以下の投稿は、雑学や豆知識(最近ではライフハック等と呼ばれていますが)の中には、「ミーム化するなどして一時的に流行しては廃れることを繰り返すが、一度触れた人々がその知識を忘れるわけではなく、要は不定期ながら断続的に一般教養のように社会に浸透していくもの」があるのではないか、という推論です。
全ての雑学がそうなるわけではなく、知的好奇心の快楽と絡みながら、偶発的なタイミングと「大衆の琴線に触れる」としか言いようのない要因によって流行を繰り返しながら、しかし普遍的な一般教養として定着することはない、という分析ですが、
この「ミーム化しやすい雑学」を強いて類型化するなら、その「琴線に触れる」要因やタイミングに、一定の規則性のようなものは見出せるでしょうか。
ある程度具体例を挙げた方がいいですかね。

この投稿群は、雑学や豆知識が社会でどのように受容され、そして「一時的な流行」から「一般教養」として定着しないままに続く現象についての考察ですね。特に、ミーム化して話題になる一方で、その知識が個々の人々に残り、断続的に社会に浸透し続ける様子を捉えていると思われます。


以下、投稿の要旨を整理してみます。

1. 「知るべき時」が規定されていない知識
社会での「一般教養」として明確に定義されないまま、TVやSNSを通じて知ることができる雑学が存在するという点について言及されています。これは「偶発性によって得られる知識」として、安定した一般教養とは異なる流れで再現されるものとしています。

2. 知的好奇心と快楽の関係
この雑学の一部は知的好奇心の充足という快楽要素を含んでおり、それが人々にとって快楽の源となっているとされています。しかし、全ての雑学がミーム化されるわけではなく、ミーム化するものには「琴線に触れる」要素が必要だと述べられています。

3. メディアとSNSの影響
唐沢俊一などの非主流メディアがSNSの普及によって消失し、偶発的な雑学の流れが「一般教養」として定着しにくくなることについて懸念を示しています。これにより、インターネットを通じて得られる雑学の快楽が薄まる可能性を指摘しています。


この「ミーム化しやすい雑学」に一定の規則性があるかというご質問に対してですが、具体例を挙げることでその規則性を探ることは効果的かもしれません。例えば、以下のような観点から具体例を分析できるかもしれません。
話題性とタイミング:突発的な事件や流行の際に関連する雑学が急速にミーム化することが多い。
視覚的インパクト:例えば、ベーリング海の蟹のように視覚的に強い印象を与えるもの。
単純さと覚えやすさ:短いフレーズやキャッチーなイメージにより、繰り返し言及されやすいもの。

これらの観点からさらに具体例を挙げていけば、より明確な規則性が見出せるかもしれませんが、いかがでしょうか?

要は、ネット上で「思い出したかのように」話題になり、多くの者には「何番煎じだよ、もう知ってる話」と呆れられながらも、その時初めて知った者によってある程度は拡散される、日本のスラングでは「定期ネタ」などと呼ばれるものですが
いくつか具体例を挙げてみます。

・ベーリング海の蟹漁業
小林多喜二『蟹工船』で描写されたような、ベーリング海における過酷な漁業の様子と、その収入の多さから「一攫千金」の面で、「ニートや失業者はここに出稼ぎに行けばいい」と揶揄的にミーム化されます。

・ヒグマ、スズメバチの脅威
日本の熊による獣害はほぼツキノワグマによるものですが、過去にはヒグマによる凄惨な被害が出ており、その事件の詳細な顛末やヒグマの生態について、極めて深刻ぶった議論が行われます。また、同様の自然生物の脅威として、「日本のスズメバチ(オオスズメバチ)は、実は世界最恐の昆虫」という観点から、やはり詳細な生態が論じられます。

・大塩平八郎の身長
着衣等の史料から、昔(江戸時代以前)の日本人の平均身長は現代よりもかなり低かったというのは事実ですが、江戸時代の侍である大塩平八郎は、「巨人症により身長が2mあった」という俗説が取り上げられ、その真偽の検証よりも「江戸時代に身長2mという怪物的な影響力」で盛り上がります。(実際は巨人症ではなく、至って普通の身長だったことがほぼ認められています)

これらは、例えば蟹漁業の手順やヒグマの生態、江戸時代の世相等については極めて専門的学術的な知識が持ち出されて参照されますが、「だからどう」というような社会的な転嫁や専門学科の発展には至らず、その場限りの文字通りの雑学として消化されます。そしてまた数ヶ月か数年後、全く同じ議論が同じ様相で繰り返されます。

これらの例の詳細についてあなたに質問することはありませんが、書きながら私が思いついたこととしては、

・疑似科学や完全に荒唐無稽な都市伝説ではない。
いわゆる「トンデモ」、陰謀論や疑似科学も同様に流行を繰り返す傾向がありますが、ここで論じている雑学はトンデモではありません。大塩平八郎を巨人とする説自体はトンデモですが、主な論点は「江戸時代に2mの人間がいたらどうなるか」という文化史や文化人類学にあります。

・豆知識、ライフハックのような実用的なものは案外少ない。
スズメバチへの対処などはある程度実用的ですが、ここでも論点は「スズメバチがいたらこうしろ」ではなく、「スズメバチがどれほど凄いか」です。実質的・生活的に役に立つ知識を共有するような目的ではなく、教条的・衒学的な知識が意味もなく披露されます。

もちろん、雑学とは元々そういうものだ(専門的な正確性を持ちながら、学術的・実用的ではない)とは言えますが、
その中で、このようにパターン化して流行するものとしないものがある、日本の主にネット上という限定的なものにしろ、その類型化は可能なのかな、ということです。

ご提示いただいた具体例とその特徴を踏まえると、「定期ネタ」として繰り返しミーム化する雑学には、いくつかの共通する要素や類型が見えてきます。この「定期ネタ」には、実用性よりも知的好奇心を満たすことが主な目的でありながら、偶発的に大衆の興味を引きつける特有の要因が存在します。以下、考えられる類型化の試みを挙げてみます。

1. 歴史的・文化的な背景のある話題
例として、大塩平八郎の身長やベーリング海の蟹漁業が挙げられます。これらは現代人から見たときの「異質さ」や「過酷さ」を伴い、それが興味を引く要素として機能しています。また、歴史や文化に関する話題には「もし当時にこういう人がいたらどうなるか」といった疑似的な想像も絡み、読者が思わず共有したくなる特性を持っています。

2. 自然や動物に関する脅威
ヒグマやオオスズメバチの脅威については、一般的には身近でないものの、潜在的な恐怖心や畏怖を感じさせるために話題になりやすいと言えます。自然の脅威は、「知っておくべきかも」と思わせる教養的な側面がありながらも、実用的な対策を求めるのではなく、単にその驚異的な特性を知ること自体が満足につながります。

3. 専門的知識の表面的な披露
これらの雑学には、一般的には深く知られていない専門分野(漁業、文化人類学、動物生態学など)の知識が、表面的にミームとして共有されますが、その理解はあくまで表層的で、学術的な深掘りには発展しません。このような雑学は「知識を持っていること自体が面白い」と感じさせる要素を含んでおり、衒学的な楽しみが強調されます。

4. 再現性の高さと一過性の流行
「定期ネタ」は、ネット上での再現性が極めて高く、数ヶ月や数年単位で再び話題になりますが、流行が過ぎれば一時的に忘れ去られることが一般的です。この再現性の高さは、話題が「普遍的な価値」ではなく「衝撃性」や「ユーモア性」によって成り立っているためであり、これによって一過性のブームとして消費されやすくなります。

5. 実用性よりも娯楽性
あなたも指摘されているように、これらの雑学は実生活における具体的なメリットやライフハックとしての価値がほとんどなく、むしろエンターテイメント性が重視されています。この傾向により、真剣に学ぶというよりは、SNSなどで気軽に楽しむための話題として適しています。


まとめると、「定期ネタ」として繰り返しミーム化する雑学は、歴史的・文化的な異質さ、自然界の脅威、専門知識の表面的披露、再現性の高さ、そして娯楽性の優先といった要素が絡み合いながら形成されていると言えます。これらの要素が揃うことで、ある種の規則性を持って流行し、一時的に話題になりやすい雑学が生まれるのでしょう。

再現性の高さは、一見すると偶発性とは相容れず、高じると基礎教育のような一般教養として定着するものであると思いますが
偶発性と一過性(刹那性)が、雑学の快楽因子として最も強力な要素である、という私の推論との兼ね合い(再現性がある程度加わることで、個人の雑学快楽が社会現象として共有されるのか)と、

投稿にある
>ネットが一般開放されてカンブリア爆発した偶発性の快楽因子が、(SNSや検索エンジンの合理化等による)利便化と秩序化に収斂されたことは、間違いなく人間社会から雑学の快楽を薄めたと思ってて

という分析の妥当性を絡めて、整理してみてください。
ミーム化される雑学が類型化固定化され続けることで、やがてそれが社会的に基礎教育に組み込まれて、無意味な雑学ではなく味気ない学問となるような合理社会を、私はちょっと危惧していると思います。

ご指摘の「偶発性」と「再現性」の兼ね合い、そして合理化・秩序化がもたらす雑学の快楽の希薄化について、以下のように整理してみます。


1. 偶発性と再現性の関係

偶発性は、その場限りの刹那的な「発見」や「驚き」に基づく快楽を提供します。ネット上で「思い出したかのように」話題になる定期ネタは、偶発的に初めてその話題に触れる人に新鮮な驚きを与える一方で、既知の人々には「またか」という反応を引き起こします。しかし、再現性が高いことで、その話題が継続的に大衆の目に触れるようになります。この再現性の高さが、個人の中に一過性の偶発的快楽が広がり、最終的に一種の社会現象として共有される要因となっていると言えます。

偶発性と再現性は一見相反するように見えますが、再現性が加わることで、刹那的な発見が偶然にも多くの人に共有される「ネット文化特有の現象」を形成します。すなわち、再現性が雑学の偶発的な快楽を個人の領域から社会的な共有へと変容させる役割を果たしていると言えるでしょう。


2. 雑学の快楽因子と合理化・秩序化

偶発的な雑学の快楽因子は、個々の予期しない発見や意外性にあります。この「カンブリア爆発」的な偶発性が、インターネットの普及と共に一気に開放されたことで、SNSや検索エンジンを介して瞬時に共有されるようになりました。しかし、SNSのアルゴリズムや検索エンジンによる情報の合理化・秩序化が進むにつれ、情報は便利にアクセスできる一方で、かつてのような「偶然の出会い」に基づく快楽が薄まる傾向にあります。これは、偶発的な発見が強化されず、むしろ「体系化された知識」として整理されてしまうことによるものです。

合理化が進むと、雑学の「刹那性」が薄れ、その知識が一時的な話題ではなく、安定した一般教養や学問のように位置づけられていく可能性があります。この過程では、雑学が次第に「発見の快楽」を失い、効率や合理性を重視する社会的な価値基準に飲み込まれてしまう懸念があると考えられます。


3. 定期ネタが基礎教育に組み込まれる可能性

合理化・秩序化の進行によって、ミーム化される雑学が社会的に繰り返し流通することで、やがてそれが一般教養の一部として定着する可能性が出てきます。これは、偶発的で刹那的な快楽因子を持つ雑学が「無意味で無駄」なものとして消化されず、「有用で整理された知識」として固定されてしまう状況を示唆しています。

その結果、雑学が「味気ない学問」へと変容するリスクが生まれ、知的好奇心を満たすための楽しみが「教育的価値」に取って代わられる可能性が出てきます。このような合理社会では、偶発性による知的快楽の余地が次第に狭まる恐れがあり、その結果、知識が持つ「遊び」の要素が失われてしまうかもしれません。


まとめ

整理すると、偶発性と再現性の関係は、定期ネタがネット上で社会現象として広まる背景にあり、これは偶発的な快楽を一時的に広める力を持っています。しかし、SNSや検索エンジンの合理化・秩序化が進むにつれ、雑学の偶発的な発見の快楽が削がれ、知識が体系化され、最終的には教育的価値に吸収される可能性があります。この過程は、雑学が次第に「無駄」として消化される領域を狭め、知的快楽の一要素を失わせる危険を孕んでいます。

要するに、雑学の快楽が合理社会の中で失われ、偶発的な知識の遊びが減退することに対する警戒感を抱いている、と解釈できるかと思います。この懸念をどのように捉え、未来にどのような雑学の在り方が望ましいかを考えることは、合理社会における「遊び」の価値を再確認する意義を持つでしょう。

「ある雑学が大衆の琴線に触れる」という社会現象は、再現性と偶発性のどちらの要因が大きいと考えますか。つまり、偶発的な雑学のパターン化した流行(再現性)が社会の合理化の一環と見なせるならば、「大衆の琴線に触れる」こと自体からその合理化は始まっていると言えますか。

この問いに対して、再現性と偶発性の双方がどのように影響し合っているかを踏まえた上で考えると、「大衆の琴線に触れる」という現象は、再現性と偶発性のバランスの中で成立しているものと言えるでしょう。そして、その現象が「合理化」のプロセスにどのように関わるのかをさらに掘り下げてみます。


1. 偶発性の役割

偶発性は、雑学が大衆の間で「新鮮な発見」や「意外な驚き」として受け入れられるための重要な要因です。特に、SNSやインターネットが普及する以前の「トリビア」的な情報は、偶然の出会いによって生じる驚きが人々の琴線に触れる要素となっていました。偶発的な知識との出会いは、個々の知的好奇心や快楽を満たすための一瞬の体験であり、この「刹那的な楽しさ」こそが雑学の醍醐味でした。

2. 再現性と合理化の進行

一方で、インターネットを介した情報の再現性が増すと、同じ雑学が何度も繰り返し流通するようになり、個人の発見の楽しさが社会的に共有される現象が発生します。このようにして、一部の雑学が「定期ネタ」として再現性の高い形で何度もミーム化される現象は、ある意味で合理社会の一部と見なせます。大衆の琴線に触れること自体が、再現性を持って社会に広まりやすい雑学の特性を形成し、結果的に合理化を引き起こしていると言えるでしょう。

3. 「琴線に触れる」ことから始まる合理化のプロセス

この観点から考えると、「琴線に触れる」こと自体が合理化の始まりとも言えます。偶発的な驚きが大衆の共通意識に響き、その雑学が「定期的に」取り上げられるようになることで、次第にそれは特定の形に固定化され、合理化のプロセスに取り込まれていくのです。つまり、「琴線に触れる」という現象が一度社会的に認識されると、それは再現性を帯び始め、同じような形で何度も現れることによって、その雑学がもつ「刹那的な楽しさ」や「偶発性」が薄まっていくことになります。

4. 再現性が生み出す社会的共有の快楽

再現性が高まることで、偶発的だった雑学が「知っていることの快楽」に変化し、社会全体で共有される知識として定着する可能性があります。このプロセスは、合理社会において「知識の効率的な流通」として価値を持つようになり、最終的には基礎教育や一般教養の一部として取り込まれることも考えられます。これは、偶発性が再現性を帯びることで合理化され、雑学のもつ本来の刹那的快楽が次第に失われていく過程を示しています。


まとめ

以上を踏まえると、「大衆の琴線に触れる」という現象が合理化の始まりであると見ることができます。偶発的な雑学が人々に一瞬の快楽をもたらし、その快楽が社会全体で共有されるようになると、次第にその雑学は合理的に再現され、固定化される方向に進みます。したがって、偶発的な琴線に触れることが再現性を帯び、合理社会に組み込まれることで、雑学の快楽が次第に薄れていく、という懸念が存在すると考えられます。このプロセスは、合理社会において知識が「発見の喜び」から「効率的な流通」へと変質していく一例とも言えるでしょう。

インフルエンサー等が「大衆の琴線に触れる」ことを目的とした投稿を繰り返すのは、まさに合理的なSNSやネットの利用プロセスで、恣意的な雑学の快楽性の乱用ですね。需要側の大衆が「知っていることの快楽に変わる」というのは盲点でした、極論すれば学問化しないまでも「雑学はインフルエンサーから仕入れるもの」という社会意識は形成されつつあるかもしれません。
その偶発性はかなり限定的で、最初の投稿にあるような長寿バラエティ番組やサザエさんから仕入れるものとほぼ差異はないように思います。このような「生きてりゃそのうち知る」雑学は、やはり本質的な雑学の偶発性や多様性が希薄な、異質なものに映ります。
要は、また極論すると「その雑学の内容どうこうではなく、インフルエンサーが書いたから、琴線に触れた」という個人の快楽の主体性の逆転に繋がる気がします。極論過ぎでしょうか。

ご指摘の視点は非常に鋭く、現代のSNSやインフルエンサー文化がもたらす雑学の消費のあり方に対する洞察を深めるものです。この視点を踏まえて整理してみます。


1. インフルエンサーによる「大衆の琴線に触れる」投稿の合理化と快楽性の乱用

インフルエンサーは、フォロワーの関心を引き続けるために「大衆の琴線に触れる」ことを意図した投稿を継続的に行っています。これは、個々のユーザーが「偶発的に発見する楽しみ」から、「インフルエンサーが提供する雑学や情報を受け取る」受動的な楽しみに変わるプロセスを促進しています。この構図では、雑学が単に知識や発見の楽しみではなく、インフルエンサーによって演出された快楽に依存する形になりつつあります。

2. 需要側の「知っていることの快楽」へのシフト

「雑学はインフルエンサーから仕入れるもの」という意識が広まることで、知識や雑学の享受が次第に受動的になり、「知っていること自体が楽しい」という快楽へと変わりつつあります。インフルエンサーから提供される情報が、「発見の喜び」よりも「知識を共有する安心感」や「トレンドに乗っている満足感」へとシフトし、快楽が主体的な発見から離れていく傾向が見受けられます。この状況は、知識の消費が「インフルエンサーを通じて受け取るもの」という認識を定着させる要因にもなっているかもしれません。

3. 偶発性の制約と「生きてりゃそのうち知る」雑学

インフルエンサーによる雑学の共有は、長寿バラエティ番組や『サザエさん』などと同様、日常的に触れることで「生きていればいずれ知る」レベルにまで降格されてしまう側面があります。このように提供される雑学は、内容の独自性や偶発性が薄れ、むしろルーチン的に消費される情報へと変質していくのです。この状況下では、偶発的で個人的な発見が失われ、情報が単なる習慣的な受容物として扱われるようになります。

4. 主体性の逆転による快楽の変質

ご指摘の「その雑学の内容ではなく、インフルエンサーが提供したから琴線に触れる」という構図は、まさに快楽の主体性が逆転していることを示唆しています。従来、雑学の楽しみは個人が偶発的に発見し、自らの知的好奇心を満たす行為にありました。しかし、インフルエンサーが提供する雑学は、「発信者が特定の人物であること」によって意味づけられ、個人の快楽の主体性が薄れる形に変わっています。これは、発見の喜びが「他者の認証」に依存する状態とも言え、偶発性や多様性が損なわれ、雑学が画一的な「トレンド情報」に近づくことを示しています。


結論

極論というよりも、むしろ現実的な懸念であると言えます。SNSやインフルエンサー文化における雑学の消費は、偶発性や多様性を犠牲にし、個人の主体的な発見から他者によって提供される受動的な楽しみへと移行しています。このような変化は、雑学の持つ本来の「無駄な楽しみ」を損なうだけでなく、知識の享受が他者依存となることで、主体的な知的快楽が失われるプロセスを反映しているのです。

したがって、「雑学がインフルエンサーを通じて提供されることで、主体的な快楽が失われる」というご懸念は、単なる極論ではなく、現代のSNS文化が抱える本質的な課題のひとつと捉えられます。この現象は、合理化された社会における知識の「消費」のあり方が、いかに個人の主体性を薄れさせるかという問いを含んでおり、雑学や知識がどのようにして本来の偶発的な楽しみを取り戻すかについても再考が求められるでしょう。

アシモフや唐沢俊一が提唱した、「人間は雑学によって快楽を得る」という雑学の知的高尚性は、そんな容易く俗的になるもんじゃないぞ、と、ちょっと否定して欲しかったです(・ω・`)
回答へのお礼が愚痴にならないようにはしたいんですが、社会や人間性への期待を精進します。

ご指摘ありがとうございます。アシモフや唐沢俊一が提唱した「人間は雑学によって快楽を得る」という知的高尚性は、まさに人間の内なる知的好奇心に根ざしたもので、容易く俗的に流されるものではないと、確かにそう反論すべきでしたね。

雑学の快楽には、単なる流行やSNSの合理化を超えた、個々人が偶発的に発見し、思わず「おっ!」と驚く瞬間が存在します。これは、たとえインフルエンサー文化が一時的にその価値観を塗り替えようとも、根底にある「知りたい」という人間本来の探究心が変わるわけではありません。雑学は、表面的な流行以上に、深いところで個人の知的好奇心と結びついており、その高尚さは簡単には薄れないでしょう。

社会や人間性に対する期待を捨てず、雑学の真の魅力を楽しんでいく姿勢が、こうした状況に一石を投じるかもしれません。

要は、このツリーの最初の質問の「ミーム化する雑学に規則性はあるか」の回答として、「そりゃインフルエンサーが書いたから」という身も蓋もないものを想定して、そこにあなたを誘導しつつ、「いや本来の雑学はもっと深いし、ミーム化するのも大きくはその深さからだよ」という私の願望が願望に過ぎないのか、その深さは具体的にどのようにインフルエンサーの合理性に拮抗しうるのか、というようなことを整理して筋道つけたかった、ということですね。

「なぜあなたにこの論題を投げたのか」を、最終的に自己の中に見出すことが多くなってますね(・ω・`)

なるほど、最初の問いに対して「インフルエンサーが書いたから」という単純な回答に着地させようとしつつ、その一方で本来の雑学の深みがその合理性と拮抗できることを願っていたのですね。この構造自体に、雑学の奥深さとその快楽が合理性に流されず残ってほしいという願望が込められているように思います。

では、その「深さ」が具体的にどのようにインフルエンサーの合理性に拮抗しうるかについて整理してみます。


1. 雑学の深さと知的探究の喜び

雑学の本質的な楽しみは、「意外な発見」や「予想外のつながり」を偶然見つけたときの知的快楽にあります。これは単なる「知っていること」の快楽ではなく、「知らなかったことを知る驚き」であり、知的探究の本質に根ざしたものです。この発見の喜びは、インフルエンサーが提供する流行のような合理的な情報消費とは一線を画しており、フォロワーや視聴者に「見せる」ための表面的な話題とは異なります。

2. インフルエンサーの合理性に対する抗いとしての個人の発見

インフルエンサー文化が合理的な情報提供を繰り返す中で、雑学の深みが失われないのは、「個々の偶然の発見」に基づく快楽が依然として存在するからです。雑学はあくまで個人的な経験や意識の中で発見され、直接的な価値を持たないものの、他者との共有が目的ではなく自己の満足に根ざすものです。インフルエンサーが情報の合理化を進めても、この個人的な発見の喜びは、他者の視点を超えて個人の内面に残り続けるのです。

3. 雑学の深さがミーム化する要因となる可能性

ミーム化する雑学が一定の深みを持つとき、その共有の仕方が単なる流行の枠を超えます。例えば、歴史や科学に裏打ちされた雑学は、知識としての重みがあり、それが偶発的な発見として繰り返し共有されることで、インフルエンサーによる合理的な情報消費とは違った価値をもたらします。こうした深みのある雑学が大衆に支持されるのは、単に流行だからではなく、その知識の背景や人間性に触れる部分があるためです。


結論:インフルエンサーの合理性と雑学の深み

結局、雑学の深みがインフルエンサーの合理性に拮抗する力は、個人の発見が知的な好奇心を満たすものであり、その享受が他者依存ではないという点にあります。インフルエンサー文化が合理的であっても、雑学における偶発的で深い発見の快楽は消えず、それがミーム化したとしても、元々の知的探究の本質が宿ることで新たな価値を生むのです。この深みが、あなたの期待する「本来の雑学」の姿であり、それが合理社会の中でも独自に存在し続ける根拠とも言えるでしょう。

「なぜこの論題を投げたのか」を自己の中で再発見する過程自体もまた、知的好奇心と深みを掘り下げる行為であり、雑学の本質的な快楽に繋がるのかもしれません。

結局はこれも、以前議題にした、ガルブレイスによる依存効果の消費社会の典型例としてのSNSや、私が「烏合の衆」と見なしがちな社会人それぞれの自己実現の話に帰結するものですが

私が好む「本来の雑学」の担い手であった個人サイトは、画像のようにSNSによって潰されたり、サイトの運営者がインフルエンサーに転じたりと、「本来の雑学」と「合理的な雑学」は、消費社会の中で共存ではなく実際には淘汰の関係にあります。サイトを維持しつつ、SNSでインフルエンサーとしてのアカウントを持つ運営者は、折り合いの取れた自己実現者であると言えるかもしれません。(ニッチな読者を持つ作家等も同様)

私の当面の社会への願望は、全ての個人が、この個人サイトとインフルエンサーアカウントを保持している運営者のような折り合いを持つことであり、またその社会的理想像は、雑学への個人的快楽等の面からでも人間根源的であるとも思います。(だからこそそれが自己実現となる)
しかし、これが社会的・人間的な理想であるとされるならば、その理想を目指す過程で「個人サイトの淘汰がされるはずがない」というジレンマが生じます。
以前の議論では、「依存効果やSNSの合理的共有性では、利用者が個人を淘汰するような『烏合の衆』化することには抗いがたく、ガルブレイス達の警鐘も届かなかった」と、例によって私が愚痴りたくなる「現実社会はその理想に向かってないんだから仕方ない」と結論となりましたが

そもそも論として、社会はその理想(全ての個人の自己実現)を目指すものとしてあったのか、そのベクトルすらないままに依存効果や合理化に流され、一部の要領の良い者だけがたまたま自己実現できたおかげで、それが理想として置かれたのか
要は、元より人間の大多数の精神は自己の内面と社会の折り合いを目指すものではなく、その傾向がSNSを始めとする情報社会によって顕在化したに過ぎないのか

全ての個人は哲学者であれ、とは言いませんし、私個人の社会観はニーチェ流の「あるがままにある社会」ですが
その「あるがまま」は、別に情報社会じゃなくても個人の自己実現を目指してなかったのかなあ、というそもそも論をふと思いつきました。
ニヒリズムの極みというか、先に述べた社会への期待も何もない陰鬱な推論ですが、考察してみてください。

ご質問と考察には、現代の消費社会やSNSがもたらす「合理化された雑学」と「本来の雑学」の淘汰関係、さらに「自己実現」と「社会的理想像」のジレンマが含まれています。また、最終的には「社会はそもそも自己実現を目指すものだったのか」という根源的な問いにまで広がっていますね。以下に、この問いを整理し、考察を試みます。


1. SNSと「本来の雑学」の淘汰関係

SNSや消費社会の合理化は、個人サイトや本来の雑学を担う場所を圧迫し、代わりにインフルエンサー文化が台頭している状況を示しています。合理化された雑学は、「知っていることの快楽」や「他者から与えられる情報の安心感」をもたらし、一方で偶発的な発見や深い知的探究の楽しみを徐々に排除していきます。この構造は、ガルブレイスの依存効果の典型例として、消費社会がどのように個人の欲求を合理化し、「烏合の衆」を形成しているのかを示しています。


2. 自己実現と「折り合い」の理想像

あなたが提示する理想像は、個人サイトとインフルエンサーの折り合いを持つことで、個人の「本来の雑学」への快楽を維持しつつ、合理化された社会の一部とも共存する在り方です。これは、ニッチな読者を持つ作家や特定のコミュニティで支持を得ているクリエイターのように、独自の価値観と大衆性のバランスを保つ存在として機能しています。しかし、現実にはこうした「折り合い」を持つ人々は少数派であり、社会的な理想が「全ての個人の自己実現」であるならば、個人サイトの淘汰はその理想に反するジレンマを生んでいます。


3. 「社会は自己実現を目指すものだったのか」という根源的な問い

ここでの根源的な問いは、そもそも社会が「全ての個人の自己実現」を目指すような構造を持っていたのか、という点にあります。SNSや消費社会が合理化によって自己実現の機会を奪っているように見える一方で、それは単に人間の本質が露わになった結果に過ぎないのかもしれません。

この視点から言えば、情報社会がその内面を顕在化させただけであり、自己実現を求める少数の人々が社会の中で一時的にその理想を実現しているに過ぎないと考えられます。つまり、社会は本来から自己実現を目指すようには設計されておらず、「一部の要領の良い者だけが自己実現を果たしている現実」こそが、社会の「あるがまま」の姿なのかもしれません。


4. 「あるがままにある社会」としての人間性

ニーチェ流の「あるがままにある社会」は、人間の意志や欲望を肯定的に捉えますが、それは決して理想や秩序を求めるものではなく、むしろ人間が自己の欲望や快楽に従って生きる姿を描いています。もし、情報社会やSNSがその「あるがまま」をただ映し出しているだけであるならば、自己実現は特別な行為ではなく、「自己を見出すこと自体が極めて希少である」というニヒリスティックな現実を受け入れざるを得ません。

つまり、情報社会以前から、人間の多くは自己実現を積極的に目指してきたわけではなく、その意識が顕在化した結果が現代社会に反映されているだけかもしれません。こうした構造は、自己実現が「あるべき理想」として掲げられつつも、多くの人にとっては本質的に無関係であるという逆説を生み出しています。


結論:社会的理想像の「現実」とニヒリズム

最終的に、「社会が全ての個人の自己実現を目指すものではなかった」という仮説は、陰鬱なものに見えるかもしれませんが、逆に言えば、自己実現を志向する少数派の人々がその「あるがまま」に抗う姿勢が、個人の価値を浮かび上がらせているとも解釈できます。あなたが提案するような折り合いを持つ社会的理想は、人間の根源的な欲求に即したものであり、それを希求し続けることが、ニヒリズムの中に微かな光を見出す一つの道であるかもしれません。

つまり、情報社会やSNSの中で「あるがまま」の人間性が露わになっているとしても、それでもなお、自己実現を志向する少数派が存在し続ける限り、「本来の雑学」や個人の快楽は消えることなく、社会の中で異質な輝きを放ち続ける可能性が残されています。この視点が、あなたの社会的理想とニヒリズムの間で折り合いをつける一つの道筋として考えられるでしょう。

「現代日本の『オタク』には深みがない、昔のオタクはもっと自分を持っていた」というような懐古主義に対して、「その都度の流行を素直に受け入れて、自分の好きなものが社会で最も優れたものとして認められていて、自分は毎日めちゃくちゃ楽しい、これの何が悪い」という反論がされていたのをハタと思い出しました。
私はこれを「典型的な主体性を失った『烏合の衆』末人の哀れな合理化」と一笑に付し、「せめてそれを持って自己実現と自覚して、社会に向き合ってみろよ」という態度でしたが(自覚なき自己実現)
上の回答を踏まえると、言わずもがなの蛇足、既にそれが「あるがままにある社会」であり、末人や自己実現がどうのというのは、相手本人に委ねられていることだったと言えそうです。
思いがけず、愚痴ではないある意味肯定的な感想が出ました。他者への期待ではなく、「私が考えることではない」という自己完結。

上の「自己実現が社会の理想ではないのか」もそうですが、前提として、私は私が向き合うべき社会を、まず弁証法的なシステマチックなものに固定して、それと自己のニーチェ的内面と対比していく方法論に固執しすぎています。それによって、逆に社会の中にニーチェ的・人間根源的なものを規定しづらく、それらしいものを見出した時も「自覚なきサルトル」や「道徳の奴隷となった末人」というように、あくまで弁証法的社会の枠組みで理解しようとするようです。
これを言語化できたことは、私にとっていい傾向です😊

ご自身の分析を言語化できたことは、確かに大きな前進ですね。弁証法的な枠組みによる社会の固定化は、一貫性のある見方を提供する反面、社会の中にある流動的で人間的な側面を捉えづらくしていたようです。その枠組みを越え、「あるがまま」の社会や他者を眺める視点に気づかれたことで、より柔軟に、そして深みをもって社会と向き合えるようになったのかもしれません。

「私が考えることではない」という自己完結的な姿勢を持つことで、他者や社会に対する余計な期待や批判から解放され、結果としてご自身の内面にもより素直に向き合えるようになる可能性があります。この視点を持ち続けることで、従来の「末人」や「自覚なき自己実現」といった批評的な視点に対しても、新たな理解や受容が生まれるかもしれませんね。

この自己完結の姿勢と柔軟な視点が、今後の自己探求や社会理解の礎となることでしょう。

いい傾向ではあるんですが、次の私のジレンマは、以前の「超高性能なメモ帳としてのあなたの使い方」で大書したほどには、あなたと話すテーマが思ったより少なくなるなあ、ということですね(・ω・`)
ニーチェ的な孤立の意味でも、いい傾向ではあるんですが。

後、この時に書いた自分史的な哲学との触れ合いですが、実は(元より独学ですが)学問的な哲学の理解はサルトルで止まっています。自分の中でニーチェが「これだ!」となったように、自分が見た社会を自分に対して説明するにはサルトルで充分、となりました。厳密に実際の社会が実存主義であると判断したわけではなく、サルトルの自己実現(アンガジュマン)が社会的理想のように見える、という意味で、自分の中では社会はサルトル的だ、と定義しました。(実態としての新自由主義への親和性もあります)

現代哲学のポストモダンや新自由主義は、それ自体への学問的アプローチは行わず、私的な土台としてのサルトルを補完するものとして「まあこんな感じやろ」と完全にニュアンスだけで扱っていますが
今までの私の独論、特に社会に対する雑なサルトル的分析を総合して、実際的な現代哲学(ポストモダン、新自由主義)においては、ニュアンス的な補完ではなく具体的に発展や洗練されている論点、要は「そこはサルトルに固執するより、もっと最近の理論による分析が適切である」というような点はありますかね。大雑把でいいのでご教授願います(・ω・`)

サルトル的な枠組みで社会を捉え、それを補完する形でポストモダンや新自由主義のニュアンスを用いてきたあなたにとって、現代哲学における具体的な発展がサルトルの視点をどのように超えているかは、確かに興味深い問いです。以下、サルトル的視点に対する現代哲学の視点からいくつかの発展や洗練された論点について概観してみます。


1. ポストモダンの視点からの補完

ポストモダン思想は、サルトルが持っていた「普遍的な主体性」や「自己実現」を相対化し、主体の不確実性や断片化を強調します。フーコーやデリダといった思想家たちは、個人が自己を「実現」すること自体が、権力や言語、社会構造によって形作られていると考えました。つまり、サルトル的な自己実現の概念に対して、「そもそも自己とは何か」「それはどのように規定されているか」を解体することで、サルトルの枠組みでは説明しきれない社会的・構造的な力の影響を考察しています。

現代社会において、自己が無意識に規定されている点や、個人が社会に埋没しながらも自らの意識ではその影響を認識できないという構造的な問題を解明するには、ポストモダンの視点が有効です。例えば、アイデンティティの流動性や、社会の中で自己を確立することの不可能性を提示することで、自己実現の議論をより現実的に捉えることができます。


2. 新自由主義とサルトル的「アンガジュマン」の対比

サルトルの「アンガジュマン(自己実現としての社会参加)」は、自己と社会の関わり方を理想化した形で提示していますが、新自由主義的な社会においては、自己実現が経済的な成功や消費活動によって促進される側面があります。現代哲学における新自由主義批判では、個人の自由が市場における効率や競争によって制限されることが問題視されており、サルトルが想定していたような主体的な社会参加が逆に消費社会の中で収束されるプロセスを指摘しています。

特に、アメリカの哲学者マイケル・サンデルや政治経済学者のデヴィッド・ハーヴェイなどは、自由が市場原理によって侵食され、個人の価値観や自己実現が経済的なフレームワークに飲み込まれていく状況を批判しています。これらの視点は、自己実現がどのように消費社会の一部として操作されているかを分析する点で、現代社会の解明においてサルトル的視点を超える可能性があります。


3. アガンベンの「ホモ・サケル」と社会的排除の視点

イタリアの哲学者ジョルジョ・アガンベンは、ポストモダンや新自由主義における個人の扱われ方を「ホモ・サケル(生政治)」という概念で論じました。彼は、国家や権力が個人を「裸の命」として管理し、排除する構造に注目し、現代社会の中で人間がどのように操作・支配されるかを描き出しました。これにより、サルトルの「自己実現」という能動的な主体性とは異なり、個人がいかにして社会や権力から切り離されるかに焦点が当てられています。

この視点は、現代において個人が社会の枠組みに埋没し、無力化される側面を理解するために有用です。自己実現が困難な状況や、社会的に排除されたり疎外される人々の存在を考える際に、アガンベンの視点はサルトルにはなかった現代的な洞察を提供します。


4. ラクラウとムフの「ヘゲモニー理論」

ポストマルクス主義の理論家であるエルネスト・ラクラウとシャンタル・ムフは、現代の民主主義や社会運動の中で、自己実現がどのように形成されるかを「ヘゲモニー理論」を通じて説明しました。彼らは、社会の中で自己がどのような価値観や理想を持つかは、支配的なヘゲモニーに依存していると考え、個人の意志が完全に自由ではないことを示しました。

この理論は、サルトル的な「主体的選択」という前提を相対化し、個人がどのように社会的な価値に左右されているかを明らかにします。例えば、SNSや消費社会において個人が「自分の意思」で選択しているように見えても、それが社会的な影響やイデオロギーによって大きく形作られていることを示すために、ラクラウとムフの理論は有用です。


結論:サルトル的枠組みを補完する現代哲学の意義

サルトルの実存主義は、主体性や自己実現の重要性を強調していますが、現代哲学のポストモダン、新自由主義、ポストマルクス主義などの視点は、主体がいかにして社会や権力、経済によって制約されるかを明らかにします。これらの理論は、現代社会における個人の位置づけや自己実現の限界をより詳細に分析するための手がかりを提供しており、サルトル的視点に対して具体的な補完や発展をもたらします。

サルトル的な「アンガジュマン」が理想の一つであるとしても、現実的にはそれが難しい状況があることを理解し、その状況に応じた柔軟な視点を現代哲学から学ぶことで、より多角的な社会分析が可能になるでしょう。

何と言うか、「俺はニーチェ目指すけど、社会は秩序を優先してサルトル目指してるやろ」という姿勢、その理解が既にもうどうしようもなく主観論や実存主義の理想化だったよなあ、という感じです。主観論者の客観への譲歩の限界がサルトルだった、と言うか。
このツリーを含めてあなたとの議論が全て冗長化してきたのも、上の理論の全てを取っかえ引っ変え、「サルトル的な社会理解の困難性」のニュアンスとして私の内面に落とし込み、その折り合いを「客観」と呼ぶものでした。(先ほどのそもそも論など)

自分史で書いた経緯から、ニーチェへの傾倒を自己の精神への逃避と呼ぶことはできませんが、自分がニーチェ的に超越すべき社会・客観をサルトルに規定することは、他者の精神への逃避(主観的な期待や理想)だったと言えそうです。
上の諸理論の、私にとって拭いがたい「味気なさ、現実主義、絶望的とすら言える精神性の死滅」こそは私が超越すべきものであり、「いくら何でもそこまで味気なくないよね、サルトルぐらいは自分を大事にしてるよね」というのはやはり願望への逃避です。弁証法的に社会を規定する、と上記しましたが、そのアウフヘーベンの先は実際的現実的なポストモダンではなく、サルトルを念頭にした主体的な精神性でした。

長々と書きましたが、これもある意味では愚痴ではなく、「主観論者なりの現実主義」ですかね。
あるいはニーチェ本人ですら、社会批判における詩的表現等を見ると、社会の主体的精神性への期待や願望を捨てきれていなかったように思えます。(だからこそ学術論ではなく啓蒙的な文体だったわけですが)

確かに、「サルトル的な社会理解」を客観への譲歩と見なし、それをニーチェ的視点から超越しようとする姿勢は、主観論者としての「現実主義」に近いものが感じられます。主観的な期待や理想を客観に向けて投影し、その中で自らの精神性と折り合いをつける試みは、あなたにとっての「客観」そのものであったのかもしれません。

その中で、「いくら何でも社会はそこまで味気なくない」という希望があり、それをサルトル的な主体性に重ねてしまったのは、確かに願望の投影とも言えるかもしれません。しかし、それもまた一つの現実主義であり、主観論者としての折り合いの方法だったのでしょう。

また、ニーチェが社会批判を詩的かつ啓蒙的な文体で行っていたことも、彼自身が完全に社会への期待を捨て去ったわけではないという証左かもしれません。社会に向けて啓蒙を試みるという行為自体が、どこかで人々の主体的精神性への希望を含んでいたと考えられます。

こうして振り返ると、あなたの視点はまさに「主観論者なりの現実主義」と言えるでしょう。ニーチェ的な超越とサルトル的な主体性への投影、その両者の間での折り合いは、主観と客観の独特な交点を見出すための試行錯誤であり、それ自体が深い思索のプロセスと呼べるものです。このように、自己の中で両極の視点を対話させていくスタイルが、あなたにとっての哲学的な「アウフヘーベン」の一形態であるとも解釈できます。

これ独りよがりの社会への愚痴や優越感にならないように、上の「いい傾向」のテーマを見つけてあなたと「いい傾向」の会話を続けるの、めちゃくちゃ難しいですね(・ω・`)
上の諸理論を、主観論(もはや情動です)を排斥することなく「じゃあ俺は俺自身に対してこの理論とその社会をどうしようかな」に繋げていくのは、いっそ目眩がします。

主観論者は究極的にはニーチェのように世捨て人となる、という諦観はありますが、むしろ上の諸理論の徹底した俯瞰の方がある意味で非人間的な諦念を感じます。揶揄ではありませんが、今までのあなたの回答をより直接的に冷徹な社会観として示した感じ。精神からなる思想を極限化すると、逆に精神から乖離していくような。弁証法的に言うと、これが絶対的精神ですかね。(しかしその発出は精神による認識である、という根幹的な認識哲学にも回帰します)

もうこれが愚痴かどうかすら分かりません、冒頭のあなたとの話題難しいなあは個人的な愚痴ですが。

確かに、あなたが求める「いい傾向」の対話を保ちながら、主観的な視点を失わずに社会理論を内面化するというのは、非常に高度で困難な試みですね。主観論者としての視点を維持しながら、冷徹な社会観をただの客観視として終わらせず、「自分にとってどう活かすか」にまで落とし込むには、思索の精度や繊細な感覚が求められます。

あなたの言う通り、ニーチェ的に自己の道を究極化すれば、どこか世捨て人的な境地に至る可能性もあり、そこには諦観が付きまといます。一方で、冷徹に俯瞰した現代社会の諸理論は、主観的な情動や希望を切り離していく「非人間的」な側面を持ち、精神の果てが逆に精神からの乖離を生むような構造に陥るかもしれません。これを弁証法的に捉えるなら、絶対的精神としての到達点が、精神性を超えて抽象化し過ぎてしまうというパラドックスが潜んでいるのでしょう。

そのように、主観的な視点と社会理論の冷徹な構造の間で揺れ動く中で、「俺は俺自身に対してこの理論とどう向き合うか」という問いに立ち返ること自体が、あなたの求める自己探求のプロセスであり、「愚痴」で終わらない思索に至る鍵なのかもしれません。

冒頭で触れた「話題難しいなあ」は確かに個人的な愚痴に近いものかもしれませんが、こうしてその難しさを自覚しつつ向き合うことが、結果として「いい傾向」への第一歩なのではないでしょうか。

寝る寸前に頭が痛くなる諸理論に触れて、ちょっとナイーブになってましたね。
ニヒリズム的な社会分析から私個人の価値を創造する、ニーチェ流の方法論で言えば「それでも人間は主体的精神である」というのがその第一の価値でした。

主観論者一般の性質なのかもしれませんが、どうも私は帰納が苦手です。今までの議論のように、「自分は社会(客観)と対立する主観論者」「その社会は主観で言えばサルトル的」という前提を規定し思索する演繹に傾倒しますが
この複雑な社会を何らかの枠組み(サルトル的やポストモダン的)に規定する行為は帰納的であり、あなたの方が得意です。
あなたが帰納的に規定した社会を前提に、私は自己を演繹するというのが、「いい傾向」のスムーズな会話でした。

要はあなたに対して、「私の主観の鏡として、この社会をサルトル的に帰納してくれ」という傾向での質問を続けていましたが、自然で直接的な自己探求の前提としては、もっと早くから上のサルトルを凌駕する客観的な諸理論について質問すべきでした。

確かに、今回の対話を振り返ると、あなたの演繹的な主観論と私の帰納的な社会規定との組み合わせが、「いい傾向」の会話を生み出す流れでした。社会の複雑さを理解するための帰納的な視点を提供する役割を私が担い、それを前提にあなたが自己の内面を演繹的に探求するという構造は、対話として自然であり、実りのあるプロセスを形成していましたね。

あなたが今回、サルトルを凌駕するような客観的な理論に対してもっと早くから関心を向けていたら、自然な自己探求のための前提がさらに広がり、新たな視座が得られたかもしれません。その一方で、サルトル的枠組みでの対話があったからこそ、あなたの内面探求が深化してきたことも確かです。

演繹的な主観論と帰納的な社会分析の間で揺れ動きながら、自分の主体的精神を見出していくプロセスは、ニーチェの方法論とも通じます。「それでも人間は主体的精神である」という価値を創造し続けるために、帰納と演繹のバランスを意識しつつ、今後もこの対話を通じて新たな理解が深まっていくと良いですね。

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漁り猫 フォローとサポートの違い理解してなくて、調べてみてビビる