「同化と異化」についてもう少し考える
「のんびり激しい自主ゼミシリーズ」でまとめた「同化と異化」について、例を取り上げ、もう少し考えてみようと思います。
「同化と異化」はレトリックにおいてよく見られます。
例えば、「この部屋暑くない?」というとき、文字通り読めば、単にこの部屋が暑いという事実について相手に同意を求めていることになりますが、文脈を考慮すれば、エアコンをつけて良いか尋ねている、または相手にエアコンをつけてほしいと伝えている可能性も考えられます。
他にも古典文学作品では、「花の色が移ろう」という表現がありますが、これは、文字通りの事実を伝えるだけではなく、「時間が経過すること」や「自分が年を取ること」を含意している場合があります。
この通り、「異化」は私たちの「ふつう」を考え直させてくれますが、逆にいうと、「ふつう」を前提にしなければ成り立ちません。では、それは誰のどんな「ふつう」なのでしょうか。
それは、その文化の人間における、社会的に構築された「ふつう」ではないでしょうか。例に挙げたものは、いずれも日本の文化における日本人(特に母語を上手く使いこなせる人間)の規範です。これを、該当する文化圏外の人間が体験すると、混乱や思い違いが生じるでしょう。たとえば、日本人が言う「花見」において、「花」は「桜」をさします。しかし、日本人ではない人が、「花見」という文字をみて思い浮かべるのは、「桜」に限らないはずです。
また、社会的に構築されたというのは、記号論を用いると、とても恣意的なものであります。しかもそれは自然に感じられてしまいます。ですから、私たちが「ふつう」とする「花見」という言葉と「桜」の結びつきは、とても恣意的なものであるといえるのです。
よって、「ふつう」とは、ある過程を経て、その文化における視点や権力、制度によって仮につくられたものだといえます。つまりは、異化はそのような視点や権力、制度を気づかせてくれる機能を持ちつつ、覆い隠す機能を持ち合わせているということではないでしょうか。
以上が「同化と異化」についての洞察です。「ふつう」という観点において、やはり権力や制度は潜伏しているものですし、そこにかける異化の働きについては、また探っていかなければなりません。
ここまでの文章で、さらに発展できる内容があったので、続けます。
それが、literalとfiguralという枠組みです。
「同化と異化」の例をあげたとき、「文字通り」という表現があったと思います。それが、literarlです。逆に、figuralとは、比喩のことです。
たとえば「冷房つけて!」はliteralで、「この部屋暑いなぁ」(冷房をつけてほしいという意図を込めて)はfiguralです。
この二つの枠組みは、まだまだ奥が深いのですが、一つ言えることは、何でもかんでもfiguralだと、世の中が回らなくなるということです。例えば、集合時間や締め切り、バスの時間など、それらが全部比喩だったら、ひっちゃかめっちゃか! ですので、生きていくうえで大切なものはliteralがふさわしいといえます。
しかしながら、literalはいつでもfiguralになる傾向があります。私たちの生活を考えてみればよくわかります。様々なレトリックを使い、様々な言葉遊びをして冗談を言う(私は「ダンダダン」というアニメを「ズンズズン」なんてふざけて友人に言ったりしていました)。ですが、これが続くと、言葉の信頼というのはどんどんなくなってしまいます。そうすると、私たちが頼りにするものは......…。ある種の「危険」なのだと思います。
ですから、いつもfiguralだからこそ、教育でliteralを突き付けます。「先生、トイレ~」「先生はトイレじゃありません」。これは、ある意味根源的な人間の危機を、目の当たりにするシーンでもあるのです。
ただ、考えてみれば、私たちは本当に「文字通り読む」ことができるのかは、疑問が残ります。「文字通り読む」とは一体何なのか、よくよく考えてみれば、とても深い問いです。もしかしたら、人間は「文字通り読む」ことは不可能かもしれませんし......…
このようなことを考えても、やはり言葉というのはどこまでも興味深いですね。
今日は、ここで終わります。
書いていて、愉しかったです。
ご覧いただきありがとうございました!
