親ガチャと進化論について
親ガチャという言葉はうまく表現したものであると思う。ソーシャルゲームから派生した言葉であるから、若い世代にしか伝わらないというのもこの言葉の持つ魅力であろう。しかし、私はこの言葉が若い世代だけのものではなく、もっと社会の包括的な問題点からのカウンターとして生み出されているのではないかと考えている。そして今からこのキーワードを手引きにして、親世代と子世代の世代間の問題や格差社会といった視点とは違った方向から現代社会を見ていこうと思う。
親ガチャが、子供のどうしてこんな家庭に生まれなかったんだろうという理想であるのであれば、親のどうしてこんな子が生まれなかったのだろうという理想もあるはずである。それを仮に子ガチャと名付ければ、親ガチャに失敗したと感じた子供たちは子ガチャを意識せずにいられるのだろうか。遺伝という言葉、意味を超えてこの音は頭の中に響き続けるのではないだろうか。
これはおそらく90年代辺りまでは問題にならなかったはずだ。それは結婚、子育てをして当たり前という風潮が、子ガチャへの懸念を弱めていったのではないか。しかし、現在は未婚や子供を持たない家庭も一般的になってきた。この親ガチャと子ガチャへの連関を断ち切るために、子供を持たないと考える人も少なくないのではなかろうか。
この流れはダーウィンの進化論を彷彿とさせる。進化論は環境に適応できないものが絶滅すると優生思想と結び付けられがちだが、本来の意図からずれていないか。むしろ環境が変化したときに偶然変化に適応できていた種が生存できているという、進化は事後的な見いだされ方のはずだ。そう考えれば、今回の件こそまさに進化論の実例ではないだろうか。未婚や子供を持たない家庭が一般的になるという現代の流れに対して、偶然親ガチャの問題を抱えた人達が子供を持たない方向に進んでいき、問題を抱えていない人達は偶然何も考えずにいられる。
勿論、私は親ガチャという言葉や未婚や子供を持たない家庭に対して批判する意図は毛頭ない。最近の政治の流れを見れば、同性愛者や子供を作ることに積極的でない家庭がまるで少子化の直接原因のように騙る政治家も少なくないが、それはまるで的外れだ。生き抜くのは環境の変化と戦う生物ではなく、適応する生物であるはずだ。親ガチャという言葉に目くじらを立てるのではなく、どのように解決するかを真摯に向き合うのが環境への適応ではないだろうか。
長くなりましたが、最後まで読んでいただきありがとうございました。
