外部モデルなき時代の学術政策—日本は予期せぬ成功体験から学べるか?
「河童の目線で人世を読み解く」市井カッパ(仮名)です。
「すべての組織と人間関係の悩みを祓い癒し、自然態で生きる人を増やす」をミッションに社会学的視点から文章を書いております。
御覧いただき、ありがとうございます。
noteのできるだけ毎日更新を実践しています。現在の曜日ごとのテーマはこちら。木曜は「コーチング/大学講師絡みの話/教育論、アカデミックな話題」のテーマとなります。
今回は、そういえば「学問」というのはそもそもどういう言葉なんだろう、という疑問が湧き、例によってAIとやりとりしていたところ、この言葉は明治の翻訳語ではなく、むしろ西洋にはない概念であることがわかってきました。で、そこからさらにやりとりをしたところ、今の日本の学術界の閉塞感を突破できそうな話になりましたので、これまた例によって文章化してもらいました。
ということで、早速、その名文を紹介します。
外部モデルなき時代の学術政策—日本は予期せぬ成功体験から学べるか?
いま、日本は国家と学問の関係について、明確なモデルを持てずにいるように見える。研究費の配分は揺れ、大学は「国際競争力」と「地域貢献」のあいだで引き裂かれ、研究者は「自由な探究」と「社会実装」のはざまで葛藤している。しかしこれは単なる政策の混乱ではない。日本の学問は歴史的に、常に「国家モデル」と結びついて形成されてきた。その前提が崩れつつあるのである。そのことを、「学問」という言葉の思想史から辿り直してみたい。
1.『孟子』における「学問」とは何か
「学問」という語が思想的に明確な形で現れる代表例は、孟子である。「学問之道無他、求其放心而已矣」という言葉において、学問は制度や資格ではない。失われた本心を求める営みであり、道への参与である。ここでは制度と個人は対立しない。真理は一つであり、徳の実践と政治秩序は同じ原理の異なる現れである。学問は国家装置ではなく、生の在り方そのものだった。
2.『礼記』と制度化の方向
一方、礼記の「学記」篇に見られるように、学問は教育制度や社会秩序の中で体系化されていく。孟子的な内面回復と礼記的な制度設計は未分化の世界観のなかで併存していたが、やがて制度の側が強まる。徳は制度として外在化され、国家秩序と結びつく。ここに、学問の制度化の萌芽がある。
3.仏教における学の相対化
インド仏教では、経典を学ぶことは悟りへの手段であって目的ではない。智慧こそが核心であり、学は超えられるべき段階でもあった。この視点は中国を経て日本に伝わるが、奈良期の日本では教学能力が国家制度の内部で評価され、「学問僧」という存在が生まれる。もともと解脱への道だった学は、国家秩序の一部へと組み込まれていく。
4.『古事記』と『日本書紀』の分岐
古事記には「学問」という語は現れないが、日本書紀には現れる。後者は漢文体で中国史書の形式を踏襲し、対外的に文明国家であることを示す文書でもあった。学問がある国家であること自体が文明の証明だったのである。
5.奈良から明治へ――輸入される国家モデル
奈良期には唐の太学を模範とした大学寮が整備され、明治期には1877年創設の東京大学を中心に近代大学制度が導入された。日本は二度、「学問を持つ国家像」を外部から輸入した。いずれも翻訳を通じて制度が整備され、学問は国家の文明性や近代性を示す装置として機能した。
6.しかし鎌倉期に何が起きたか
だが、日本には外部モデルの模倣ではない、内発的な思想爆発の時期がある。それが鎌倉期である。法然、親鸞、道元、日蓮らは、既存の教学中心の仏教制度を根底から問い直した。彼らは単に制度を批判したのではない。人はいかに救われるのか、修行とは何か、信とは何かという根源的問いを投げかけた。学問はここで、制度の内部で評価される能力ではなく、生の危機に応答する実践となった。既存秩序が揺らぐなかで、多様な思想が噴出したこの時代こそ、日本で最も“問”が噴出した時代だった。
7.江戸期の思想的成熟
さらに江戸期には、伊藤仁斎や荻生徂徠が朱子学を批判し、本居宣長が国学を展開した。国家体制は安定していたが、思想的論争は活発であり、学問は制度の内部でありながら制度を問い直す契機を持っていた。ここでも「問」は消えていなかった。
8.翻訳国家の終焉
しかし近代以降、日本は再び外部モデル参照型国家へと戻る。戦後はアメリカ型研究大学が参照モデルとなり、翻訳を通じて制度が整備された。だがインターネットと自動翻訳の普及は、国家を翻訳装置とする構図を崩した。参照すべき完成形も存在しない。ここに現在の混乱の根がある。
9.いま参照すべきは鎌倉である
もし日本がいまモデルを必要としているのだとすれば、それは唐でも欧米でもない。むしろ鎌倉期ではないか。鎌倉は、既存制度が揺らぎ、社会が不安定化し、人々が生の意味を根底から問い直した時代である。そこでは学問は国家の威信装置ではなく、存在を賭けた問いの実践だった。重要なのは、国家が思想を管理していなかったことではない。むしろ、複数の思想が並立し、衝突し、それでも消えなかったという事実である。鎌倉をモデルにするとは、教団を国家制度にすることではない。問の多様性を許容する社会構造をつくることである。
10.鎌倉型国家モデルとは何か
鎌倉を国家モデルにするとは、具体的には三つの転換を意味する。第一に、国家が特定の「正しい学問像」を固定しないこと。第二に、問いの多様性を保障する基盤的支援を行うこと。第三に、短期成果や国際ランキングではなく、長期的思想形成を支える仕組みを整えることである。鎌倉期の思想家たちは、制度に従属する知識人ではなく、生の危機に応答する実践者だった。現代においてそれは、分野横断的議論の場を保障し、研究の自由を強化し、異端的問いを排除しない制度設計を意味する。
11.結び
「学問」という語は、中国古典において倫理的探究を意味し、日本では国家制度と結びつき、明治に再編され、そしていま再び揺れている。だが日本には、外部モデルに依存せず、内発的に問いが爆発した経験がある。鎌倉仏教の時代である。外部モデルが消えた現在、日本が参照すべきは、そのような問いの噴出を許容した時代ではないか。国家の役割は学問を所有することではなく、問いが生まれ、衝突し、継承される空間を守ることである。鎌倉を思い出せるかどうかが、日本の次の時代を決めるだろう。
12.付記:現代日本への具体的政策提言―鎌倉型国家モデルを制度にする
鎌倉をモデルにするとは、宗教国家に戻ることではない。思想の多様性と問いの噴出を可能にした「構造」を、現代的に制度化することである。ではそれは、具体的に何を意味するのか。
第一に、基盤的研究費の抜本的強化である。鎌倉期の思想家たちは、短期成果や評価指標のもとで動いていたのではない。現代においても、研究を競争的資金と短期的成果主義に過度に依存させれば、問いは痩せる。運営費交付金や恒常的ポストの安定化は、単なる財政問題ではなく、「問」が生き延びるための条件である。
第二に、分野横断的討議空間の制度化である。鎌倉期には既存教学の枠を越えて、浄土・禅・法華といった多様な実践が並立した。現代においても、文理融合や異分野対話をスローガンで終わらせず、常設の越境研究拠点や公共フォーラムを制度として保障すべきである。大学内外を問わず、問いが衝突する場を国家が支えることが必要だ。
第三に、「異端」を排除しない評価制度への転換である。鎌倉の思想家たちは当時の正統から見れば周縁的存在だった。現代でも、評価指標が画一化すれば、新しい問いは生まれにくい。論文数や被引用数だけではなく、長期的影響や思想的独創性を評価する枠組みを設けるべきである。
第四に、AI時代の学問インフラ整備である。インターネットと自動翻訳が翻訳国家の構図を崩した以上、国家は情報管理者ではなく、公共的知識基盤の整備者でなければならない。オープンアクセスの推進、研究データの公共化、計算資源の共有基盤など、問いのためのインフラを整えることが急務である。
第五に、「学問の自由」を改めて国家原理として位置づけることである。これは抽象的理念ではない。研究テーマの選択自由、政治的圧力からの独立、長期的視野の保障を制度として明文化し、予算措置と結びつける必要がある。鎌倉期が示したのは、問いが権力に完全には従属しなかったという事実である。
鎌倉型国家モデルとは、国家が思想を方向づけるのではなく、思想が噴出する環境を守る国家である。成果を命じる国家ではなく、問いを許容する国家である。競争力を掲げる国家ではなく、思索の持続性を保障する国家である。
いま日本は、唐も欧米も参照できない地点に立っている。しかしそれは空白ではない。日本自身の歴史のなかに、内発的に問いが爆発した経験がある。鎌倉という時代である。外部モデルが消えた今こそ、日本はその経験を思い出し、国家と学問の関係を自ら設計するべきである。
国家が学問を所有する時代は終わった。国家が問いを守る時代へ移れるかどうか。それが、日本の次の文明のかたちを決めるだろう。
現場からは以上です。お読みいただき、ありがとうございました。面白かった、参考になった、という方は是非、高評価いただけると嬉しいです。フォローも大歓迎です。
ご意見・ご感想・記事で取り扱って欲しい話題のリクエストも専用フォームより募集しております。
いいなと思ったら応援しよう!
よろしければ応援お願いします! いただいたチップはクリエイターとしての活動費に使わせていただきます!