日本の大学教員に見られる「偉そうさ」の正体について―制度・不安・主体性の観点から
「河童の目線で人世を読み解く」市井カッパ(仮名)です。
「すべての組織と人間関係の悩みを祓い癒し、自然態で生きる人を増やす」をミッションに社会学的視点から文章を書いております。
御覧いただき、ありがとうございます。
noteのできるだけ毎日更新を実践しています。現在の曜日ごとのテーマはこちら。木曜は「コーチング/大学講師絡みの話/教育論、アカデミックな話題」のテーマとなります。
ここのところ数回に分けて、日本のアカデミック界について、謎だなーと思っていることをつらつらと書いていますが、そういえばこの連載は「すべての組織と人間関係の悩みを祓い癒し、自然態で生きる人を増やす」をコンセプトにしながら、あまり直接的な人間関係のトラブルについては扱っていないな、と思ったので、今回はこの分野において、現実にあった人間関係のトラブルについて扱います。個人的には解決している話ですが、もしかしたら、現在進行形で悩んでいる方の参考にはなるかもしれません。
前にコーチングにアカデミックな研究が必要だと考えて、いろいろな学会に出てみたり、大学の先生と関わったりしてみた、という話を下記に書きました。
結局は2012年に自分で学会を作り、それがご縁で様々な大学の先生と関わることになるのですが、そろそろもういいかな、と思い始めていたところに、今度は自分が大学の非常勤講師になる、という事態(?)に。
2026年からは自分の作った学会もリニューアルを考えておりまして、そんな中でこの15年ほどを振り返ったときに、特に大学の先生や元先生絡みで被った、様々なトラブルが思い出されてきました。
それは端的に言うとこういう問いです。
日本の大学教授や准教授、あるいは元教授や准教授に共通する、ある種の「偉そうさ」の正体は、いったいなんなんだろうか?
これがただ「偉そう」ならいいのですが、人間関係やコミュニケーションのトラブルに発展することが多く、それは問題だなぁ、と思ったのですが、これ、結論から言うと、大学の先生だけではなく、ある種、権威を持っている(と勘違いしている)人全般に当てはまるなぁ、と思ったのです。
というわけで、皆様の人間関係の悩み解決の一助になれば、ということで、今回は、この話題についてAIと相談の上、書き上げた論考をご紹介します。
日本の大学教員に見られる「偉そうさ」の正体について
――制度・不安・主体性の観点から
日本の大学教授・准教授、あるいは元教員と関わる中で、共通して感じられる「偉そうさ」について考えてみたい。ここで述べるのは、特定の個人を指すものではなく、筆者が複数の場面で断片的に体験してきた事例をもとにした構造的な考察である。
観察されるいくつかの特徴
まず、現象として共通して見られた行動や態度を整理しておく。
ルールや契約を自分には適用しないように振る舞う
公式な場ではなく、後から個人的に言葉遣いや態度を責める
会議や約束への遅刻を当然視する
他者の事情を考慮せず、自分の都合で物事を決定しようとする
周囲に従順な人を置き、雑務や調整を委ねる
自己の業績や地位の誇示が多い
大学・大学院という制度や肩書の価値を自明視し、他者にも共有を求める
表では穏健だが、裏では強い言葉で他者を批判し、それを「正義」や「学問的正当性」で正当化する
これらは一見すると、権威主義や人格の問題として理解されがちである。しかし、少し視点を変えると、別の解釈も可能ではないだろうか。
仮説:背景にある「怯え」や「不安」
筆者がこの問題を考える中で浮かび上がってきたのは、「偉そうさ」は必ずしも自信の表れではなく、むしろ不安や怯えへの防衛反応ではないか、という仮説である。
大学教員という職業は、外から見えるほど安定したものではない。研究費獲得、業績評価、ポストの減少、制度改革への適応など、常に不確実性にさらされている。その中で、
「自分は学問の側にいる」
「制度や正義が自分を支えてくれる」
という感覚は、心理的な支えになりうる。一方で、それが揺らいだとき、人は無意識のうちに制度・肩書・正義を盾にして自己を守ろうとするのではないだろうか。
このとき、「自分自身の学問」ではなく、「制度の代理人」「正義の代弁者」として振る舞うほど、他者への圧迫感は強まる。
なぜ、同じ大学教員でも全く違う人がいるのか
重要なのは、同じ大学教員でも、まったく異なる振る舞いをする人が確かに存在する点である。そうした人々に共通するのは、
肩書や制度に過度に依存しない
自分なりの研究テーマや問題意識を持っている
他者との対話を「評価」ではなく「探究」として捉えている
といった特徴であるように思われる。
つまり分かれ目は、「自分が制度・学問・正義の代理人だと感じているか」、それとも「自分自身の問いと体系を生きているか」にあるのではないか。
仮説の延長:問題は解消されうるのか
もしこの仮説が妥当だとすれば、問題の解決策は、単なる大学改革や規則変更だけではない。むしろ、
大学教員一人ひとりが、「制度の中の自分」ではなく
「自分自身の学問とは何か」を問い直すこと
が本質的な鍵になる。
「制度・学問・正義の代理人」ではなく、固有の学問的主体を持つ教員が増えること。それによって、他者を威圧したり、裏で裁いたりする必要は徐々に失われていくのではないか。
公開することの意味
このような議論を公開することは、誰かを糾弾するためではない。
むしろ、
読む側が「自分はどうだろうか」と立ち止まる
当事者が、無自覚な振る舞いに気づく
巻き込まれてきた側が、「構造の問題だったのか」と言語化できる
そのような小さな「気づき」を社会に残すことが第一歩だと考えている。
大学という場が、本来の意味での知的対話と探究の空間であり続けるために、この問題は個人の資質ではなく、構造と主体性の問題として考えられるべきなのではないだろうか。
以上です。今回はChatGPTによるものですが、自分の思い付きを素晴らしい文章に仕上げてくれました。ちなみに、これ、自分のことを書いている?と思った方には、そうではなく一般論ですよ、と申し上げておきますので、それ以上の詮索はおやめください。個人攻撃に関心はありませんので。
それ以外の方で、どのようなやりとりでこの文章が出来上がったのか、プロンプトが気になる、という方はこちらからご覧になれます。内容というよりは、AIを使ってどのように人間関係のトラブルを構造化して解決策を探るか、ということの参考にしていただけますと幸いです。
現場からは以上です。お読みいただき、ありがとうございました。面白かった、参考になった、という方は是非、高評価いただけると嬉しいです。フォローも大歓迎です。
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