備忘録*『我がアメリカのいとこ』⑤カトリック陰謀事件&排斥危機とスペインの黒い伝説
1863年11月9日、ジョン・T・フォードは、ワシントンD.C.に1,500席のフォード劇場をオープンしました。
のちにリンカーンの暗殺現場になったため、フォードは共謀を疑われ1カ月以上も拘束されたそうです。

リンカーン大統領の暗殺者ジョン・ウィルクス・ブース(以下ブースと記す)は、ジョン・T・フォードの友人でもあり、フォード劇場のこけら落としで上演された記念すべき劇の主演でした。
その日はリンカーンがボックス席で観劇していました。
ブースは劇中にリンカーンを指差し、アドリブのせりふで何か辛辣なことをリンカーンに言ったそうです。
ブースのフォード劇場の最後の舞台は1865年3月18日で(2回目の誘拐に失敗した翌日)、これが彼のキャリアの最後になりました。
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この記事は、リンカーン暗殺についての5番目の記事です。
前回④もぜひご覧ください。
ブースは、1865年3月4日のリンカーンの2度目の就任式にゲストで参加しました。
仲間のパウエル、アツェロット、ヘロルドも参加していたようです。
この頃はまだ、ブースと仲間はリンカーンの誘拐を諦めていなかったと言われています。

ブースがリンカーン大統領の誘拐を暗殺に変更したのは、1865年4月11日。
リンカーンが元奴隷に選挙権を与えることに賛成すると述べたのを聞き、激怒したブースは「これがリンカーンの最後の演説になる」と宣言しました。
ブースは、犯行の数日前に(共謀者として処刑されたメアリー・サラットの家に下宿していた)ルイス・J・ワイクマンに、「舞台はもう終わり、今後上演したい劇は『Venice Preserv'd 』だけだ」と告げました。
ワイクマンは当時この意味を理解していませんでしたが、後にこれはリンカーン暗殺の暗示であったと推測されています。
この記事では、『Venice Preserv'd 』が書かれた経緯を調べてみました。
よかったらお付き合いください。
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『Venice Preserv'd 』のあらすじ
トーマス・オトウェイによる『Venice Preserv'd 』(ヴェニス・プリザーヴド=ヴェニスは救われた)は、1682年に初演された王政復古期の悲劇作品で、1680年代に英国で最も多く上演された人気の悲劇だったそうです。

トーマス・オトウェイは、父親が聖職者で彼もまた聖職者になることを期待されていましたが、演劇に魅せられ舞台俳優として一度はデビューしたものの、初舞台で重度の舞台恐怖症を自覚し、劇作家に転身しました。
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『Venice Preserv'd 』は、ベニス政府転覆の陰謀に加担した男が、有力者の娘である妻への愛情と仲間への信義との板ばさみに悩み破滅にいたるという内容です。
政治と女性の苦しみを融合させた当時では新しい悲劇で、ほとんどの場面や会話はその結果生じる苦しみ、哀切を描写しているそうです。
劇の大筋は、1605年に起きたイエズス会による「火薬陰謀事件」、または1618年のヴェネツィアに対する「スペイン陰謀」に似ていると言われています。
【あらすじ】
ヴェネツィア人の貧しい貴族ジャフェイルは、プリウリという名の元老院議員の娘ベルヴィデラと密かに結婚しました。
それを知ったプリウリは、娘を大変愛していましたが娘の相続権を剥奪してしまいます。
ジャフェイルの友人で外国人兵士のピエールは、ジャフェイルの不満を煽り、元老院に対する陰謀計画に彼を誘います。
ピエールは、別の元老院議員アントニオがピエールの恋人(娼婦アクイリナ)を金で買っていることを恨んでいました。
ピエールは、血に飢えたルノー(ルノルド)率いる共謀者たちにジャフェイルを紹介します。彼らの信頼を得るために、ジャフェイルはベルヴィデラを人質としてルノーに預けますが、その夜、ルノーがベルヴィデラを強姦しようとしたため、彼女はジャフェイルのもとに逃げ帰りました。
ジャフェイルがベルヴィデラに陰謀計画を暴露したところ、彼女は共謀者たちとの関わりを断つようジャフェイルを説得し、さらに「元老院に陰謀を密告して、ピエールやルノーたちを罰する」ことを提案します。
ジャフェイルはベルヴィデラに言われた通りにしますが、元老院は陰謀者たちに告白(恩赦の可能性)か処刑かの選択肢を与え、彼らは自尊心を犠牲にするよりは死を選びました。
ジャフェイルは友人を裏切った罪悪感に陥り、「ピエールに恩赦を与えなければベルヴィデラを殺す」と言って、ベルヴィデラの父プリウリや元老院の議員たちを脅しました。

元老院はピエールに恩赦を与えましたが、間に合いませんでした。
ピエールはジャフェイルを許し、兵士として絞首刑になる不名誉を嘆き、ジャフェイルに自分を殺してくれるように依頼しました。
ピエールが絞首刑に処されようとしたとき、ジャフェイルは絞首台に駆け寄りピエールを刺し殺して、彼の名誉を保ちました。
そして償いとしてジャフェイルは自殺し、残されたベルヴィデラは狂気に陥り死んでしまいます。
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当時は、主人公ジャフェイルよりも、友の裏切りを許し不名誉な死を望まなかったピエールに人気があったそうです。
時代背景(王政復古とカトリック排除)
この作品は、当時の政治的な状況を反映しています。
1660年、チャールズ2世の即位とともにスチュアート朝による王政復古が始まりました。
劇に登場するアントニオ上院議員は、ホイッグ党のアンソニー・アシュリー・クーパー(第1代シャフツベリー伯爵)を暗示していると考えられています。

アンソニー・アシュリー・クーパーは、のちにアメリカ独立宣言、フランス人権宣言に大きな影響を与えた哲学者ジョン・ロックのパトロンでもあり、チャールズ2世のもと一時はcabalの一員として権力を握るも、強い反カトリックの姿勢を示したため、次第にチャールズ2世との間に距離ができ、ついには武装蜂起を計画して亡命を余儀なくされた。
cabalという怪しげな名前は、チャールズ2世が取り立てた5人の政治家の頭文字から名付けられました。
トマス・クリフォード(Clliford)、アーリントン男爵ヘンリー・ベネット(Arlington)、バッキンガム公ジョージ・ヴィリアーズ(Buckingham)、アンソニー・アシュリー=クーパー(Ashley)、ローダーデイル伯ジョン・メイトランド(Lauderdale)。
5人はイングランド国教会に属さない非国教徒でした。

親フランスのチャールズ2世は、1670年に独断でルイ14世とドーヴァーの密約を結び、クリフォードとアーリントンがイングランド代表として調印したことは議会から不信感を抱かれることになりました。
ドーヴァーの密約は、チャールズ2世がフランスから資金援助を受ける代わりに、イングランドがフランス側で参戦する約束でした。
この密約に則ってオランダ侵略戦争及び第三次英蘭戦争が開始されました。
1672年3月にチャールズ2世が第三次英蘭戦争を始め、続いて4月にルイ14世がオランダ侵略戦争を勃発させると、さらに議会の反感を買う結果になりました。

戦争に先立ちチャールズ2世は、1月にトーマス・クリフォードの提案で軍事関係以外の国庫支出の停止を行ないました(事実上の財政破綻)。
クリフォードは男爵に叙され大蔵卿に就任しましたが、国内経済は大混乱に陥りcabal内閣は国民の信頼を失いました。

1672年3月に宗教の寛容を唱えた信仰自由宣言が発布され、アンソニー・アシュリー=クーパーはシャフツベリ伯爵に叙され大法官に任命されました。
翌1673年に審査法が制定されたため、クリフォードはイングランド国教会への宣誓を拒否して大蔵卿を辞任、4ヶ月後に急死しました(自殺とされている)。
審査法は、公職に就くための宗教的テストでした。
基本的な原則は、公職に就く者は国教会(国王至上主義)に忠誠を誓い、役職に就いてから3か月以内に聖餐(聖体拝領)を受ける義務を課しました。カトリック教徒であろうと非国教徒であろうと、国教拒否者に対しては厳しい刑罰が宣告されました。

1673年の審査法は、「カトリックの反逆者から生じる危険を防ぐため」の法律」でした。
議会の「カントリー党」(ホイッグ党の前身)がこれを推し進めた直接の理由の1つは、チャールズ2世の下で強力な発言力を持つcabal内閣を解体することでした。
カトリックのクリフォード卿は、自分の信念に反する宣誓を受け入れることができず辞任したわけですが、cabal内閣は1674年までに完全に解体されました。
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でも、まだ私の頭の中では『Venice Preserv'd 』がリンカーン暗殺とは結びつきません(苦笑)
それで『Venice Preserv'd 』の原作について調べてみました。
原作は、サヴォイアのイエズス会神父セザール・ヴィシャール・ド・サン=レアルが1674年に出版した『ヴェネツィア共和国に対するスペインの呪縛』という小説でした。
スペインの陰謀とは
「スペイン陰謀」については情報が少ないですが、1613年から1618年にかけてスペインとサヴォイアは、イタリア北西部のモンフェッラート公国をめぐってモンフェッラート継承戦争を行なっていました。

フランスは1615年にサヴォイア側に寝返り、その年、アスティの和約が結ばれ、サヴォイアがモンフェラートの領有権を放棄することが決定されましたが、条約は調印されず戦争は続きました。
最終的に1617年に調印し、マントヴァのフェルディナンド・ゴンザーガが正当な後継者に決まりました。



フェルディナンド・ゴンザーガは、ヴィンチェンツォ1世とエレオノーラ・デ・メディチの息子。ハプスブルク家とメディチ家の血を引いています。

フェルディナンドは20歳で枢機卿に任命されましたが、1612年に兄のフランチェスコ4世(在位:1612年2月9日 - 1612年12月22日)が在位10か月のとき天然痘にかかり、跡継ぎを残さずに亡くなったため、兄の後を継いでマントヴァ公爵領とモンフェッラート公爵領を継承しました。
フランチェスコ4世の妻マルグリットの父であるサヴォイア公カール・エマヌエーレ1世がこれに異議を唱え、モンフェッラート継承戦争(1613年 - 1617年) が勃発しました。
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1618年5月、ヴェネツィア共和国は重大な陰謀を発見したと主張し、関与したとされる数名 (全員フランス人) を即決処刑しましたが、陰謀の真の首謀者はナポリ総督の第3代オスナ公爵ペドロ・テレス=ジロンと、ヴェネツィア駐在スペイン大使で初代ベドマー侯爵アルフォンソ・デ・ラ・クエバ(別称ベドマール)であるとほのめかしました。
ヴェネツィア共和国は、モンフェッラート継承戦争ではサヴォイア側について戦っていました。戦争後、ヴェネツィアはスペインに対抗するため、フランス、スイス、オランダと同盟を結んでおり、ベドマールはその同盟を壊滅させるために動いていました。

陰謀はフランス軍に暴露されて未遂に終わり、ベドマールは地位によって逮捕を免れました。
ヴェネツィアの失敗後、ベドマールは評議会の議長としてフランドルに赴任し、1622年に彼は枢機卿になりました。その後、ハプスブルク家のネーデルラント総督、フランドル戦争政府の特命大使および顧問も務めました。
しかし、このスペインの陰謀自体は1622年までは続いていたと見られています。
1618年から三十年戦争が始まっているので、ベドマールはそのためにフランドルへ赴任したのでしょう。

排斥法案危機
『ヴェニスの商人』(1596年から1598年の間に書かれた)という有名なシェクスピア劇がありますが、ヴェニスはロンドンの代役として戯曲でよく使われていたそうです。
本国で起きたことをそのまま上演するのは難しかったんでしょうね。
また、観客も「あの時のことだな」とか「貴族の〇〇のことに違いない」と推測しながら鑑賞することを楽しんでいたようです。
前述の1673年の審査法は、初めのうちは貴族には適用されていませんでしたが、1678年には全ての貴族および代議員に拡大されました。
この改法によってウィリアム・ハワード (初代スタッフォード子爵)ら、貴族院の五大カトリック貴族が排除されました。
このことがカトリック陰謀事件(後述)の大きな原因となったと言われています。
排斥法案は、チャールズ2世の治世中および英国王政復古期の1678年から1681年にかけてイングランドに影響を及ぼした。
排除法案は、国王の弟ジェームズ(後のイングランド王ジェームズ2世)がカトリックを信仰していたため、イングランドとアイルランドの王位継承から排除されることを目的としていました。
トーリー党はこの措置に反対したが、ホイッグ党の前身であるカントリー党はこれを支持した。
1681年までにこの運動は大衆の主要な支持を失い、法案は完全に放棄された。
しかし、1688年の名誉革命の後、英国で絶対君主制が樹立されることへの恐れから、カトリック教徒の王位継承を禁じる同様の法律が「王位継承法」という名で制定され、現在も有効となっている。
ポピッシュ陰謀事件(カトリック陰謀事件)
排斥法案が提案されたのは、反カトリック感情を高めた架空の陰謀「ポピッシュ陰謀事件(カトリック陰謀事件)」(1678年-1681年)が原因のひとつでした。
ポピッシュ陰謀事件またはオーツ陰謀事件は、1678年にイングランドとスコットランドで英国国教会信者によって実行された偽の陰謀で、公的なスキャンダルを通じてカトリックの信用を失墜させることを目的としていました。

1678年、英国国教会の牧師タイタス・オーツが、「カトリック教徒が国王チャールズ2世を暗殺し、カトリック教徒である弟のジェームズを国王に据える陰謀を企てている」とデマを流しました。
オーツは国王と議会に作り話を聞かせ、嘘の証言をし、事件を捏造するために仲間を殺害しました。
反カトリック感情を煽られた民衆(イギリス人はカトリック嫌いで、とくにイエズス会を恐れていた)は集団ヒステリーに陥ち入り、暴徒がカトリック教徒を襲撃しました。
1678年11月5日のガイ・フォークスの日にはガイ・フォークスの人形の代わりに教皇の肖像を燃やしたそうです。
貴族の女性たちは、夜間に外出しなければならないときは銃器を携帯していた。カトリックの未亡人の中には、英国国教会の男やもめと結婚することで身の安全を確保しようとした者もいた。
カトリック教徒であると疑われた者はロンドンから追放され、市街地から10マイル (16 km) 以内に立ち入ることが禁じられた。
カトリック教徒の若い銀行家ウィリアム・ステイリーは、酒に酔って国王を脅迫し、10日以内に裁判にかけられ反逆罪を企てたとして有罪となり、処刑された。
平穏な時代であれば、ステイリーの罪はおそらく軽い刑罰である拘禁刑で済んだであろう。

無実のカトリック教徒30人以上が処刑され、議会でもカトリックを排除する動きが活発になり、でっち上げだとわかるまで約2年半もかかりました。
しかし名誉革命が起き、イエズス会に不満を持っていたでっちあげ犯人は処罰されることはありませんでした。
イエズス会は、ポピッシュ陰謀事件の期間に9人のイエズス会士が処刑され、12人が獄死、暴徒により3人が殺害されたそうです。
イエズス会ではない他のカトリック修道会も集団ヒステリーの影響を受け、イングランド国内で宣教を行うことは許されなくなりました。
枢密院が陰謀に関する情報を持っている可能性のある者を確実に捕えようとしたため、多くのカトリック司祭が逮捕され、裁判にかけられました。
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トーマス・オトウェイはこの事件への苛立ちを『Venice Preserv'd 』の登場人物のせりふに表しました。
ジェームズ3世を王位継承から排除する法案を提出したホイッグ党(反王党派)のシャフツベリ伯爵を、元老院議員アントニオに仮託しました。

****余談*****
トーマス・オトウェイは、イエズス会神父セザール・ヴィシャール・ド・サン=レアルが1672年に書いた小説『ドン・カルロス』をもとに、『スペイン王子ドン・カルロス』という、スペイン国王フェリペ 2 世(イングランド女王メアリー1世の夫だった)とその息子カルロスの悲劇も描いています。

カルロスは精神的に不安定な人物として知られ、1568年初頭に父によって投獄され、半年間の独房監禁の末に死亡(餓死)しました。
『スペイン王子ドン・カルロス』は、愛国主義と恋愛を融合させたロマンチックな悲劇で、カルロスは高貴で勇敢な騎士の理想を体現し、フィリップ2世の妻である若きエリザベス・ド・ヴァロワの恋人として描かれています。
2人は自由と愛のために、残酷で専制的で情け容赦ないフィリップ2世と同様に、残酷で専制的なスペイン人の宮廷と戦うが、最後に主人公は反逆罪で敗れるというストーリーです。
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スペインの黒い伝説
イエズス会とバチカンと陰謀が結びつくのはその成り立ちからしてしょうがない気がしますが、スペインも陰謀と結びつきやすいのはどうしてか?と調べてみると、「ハプスブルク帝国」への反感が出て来ました。
黒伝説(Leyenda negra)またはスペインの黒伝説(スペイン語:Leyenda negra española)は、反スペインおよび反カトリックのプロパガンダからなる歴史学上の傾向である。
その起源は16世紀にまで遡ると言われている。


カトリック両王と呼ばれたアラゴン王フェルナンド2世とカスティーリャ女王イサベル1世(Isabel la Católica)の結婚によってスペイン統一がなされたあと、レコンキスタによってイベリア半島全体がキリスト教の支配下になりました。
同じ年、クリストファー・コロンブスが新大陸を発見し、スペインは広大な植民地政策を始めました。
また両王は王宮をバルセロナへ移し、対フランス戦へ突入しました。
1493年に和平が成立し、フランスはピレネー山脈の北側に撤退しましたが、この和平が一時的なものであることが容易に予測できたため、他の強国との婚姻政策をとりました。
しかし、長男のジョンは1947年に19歳で亡くなり、ポルトガル王マヌエル1世と結婚した長女イザベルも翌年、出産中に亡くなってしまいました。
イングランドに嫁いだキャサリンは、1502年に配偶者アーサー王太子が亡くなるなど(その後ヘンリー8世と再婚)で、次女ファナの夫であるハプスブルク家のフィリップ(フェリペ1世)に統治権を譲らざるを得なくなったのです。

女王イサベル1世は1504年に亡くなっており、フェルナンド2世はフランスとの同盟の一環として、ルイ12世の姪、ジェルメーヌ・ド・フォワ(17歳)と結婚しました。(1505年第二次ブロワ条約)
フェルディナンド2世(53歳)は、この結婚によって男子の後継者をもうけナバラ王位に就くことを望んでいましたが後継者に恵まれず、1516年2月に亡くなりました。
ハプスブルク家の統治への反対とスパイス戦争

孫のカール5世の治世下でも、クリストファー・コロンブスによって開始された新世界の征服は継続されました。
当時のヨーロッパの植民地拡大は、世界をポルトガル領とカスティーリャ(スペイン)領に分割するトルデシリャス条約(1494年)によって規定され、これに1529年のサラゴサ条約が加わえられました。
スペインは、この条約のおかげでアメリカ大陸の全域で優先権を持つことができた。
ただ、現在のブラジルにあたる領土は、1500年にポルトガルの冒険家ペドロ・アルヴァレス・カブラルが到達したため、ポルトガルに与えられた。

1530年代にカナダに定住したフランスを除いて、他のヨーロッパ諸国はほとんど関与しておらず、フランス、イギリス、オランダなどはこの条約によって領土獲得の優先権から締め出される形となりました。
この状況を打破するには、スペインやポルトガルの船団に対して海賊行為を行なうか、教皇の決定を無視するという選択肢しかありませんでした。
こうして新領土獲得から締め出された国々は、スペイン・オランダ戦争(八十年戦争)と英西戦争 (1585年-1604年)中にスペインに対するプロパガンダを始めたと見られます。
イベリア同盟のポルトガルは、八十年戦争の延長線としてポルトガル・オランダ戦争(1598–1663)を戦わねばなりませんでした。
つまり、北アメリカに到達したスペインと、香辛料貿易を独占したポルトガルを弱体化させるために行われた戦争と、ローマ・カトリックに反対する宗教改革とプロテスタントに対抗するために教皇庁が始めた反宗教改革が「スペインの黒い伝説」というセンセーショナルなプロパガンダを生み出したのでしょう。
スペインが植民地で行ったと言われている残虐行為も、全部ではないにしてもプロパガンダによって曲解されたまま、後世に伝えられたものがあるでしょうね。
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ところで、ブースは政府転覆をするつもりで『Venice Preserv'd 』のことを言ったんでしょうけれど、主役のジャフェイルよりも名誉のうちに死んだピエールに自分を重ねていたんでしょうね。
ブースは、自分が「暴君を倒した英雄」と称賛されると思っていたようです。
リンカーンの暗殺は、イエズス会による謀略だったという説があります。
それは『ローマ教会での50年』を書いた19世紀のカトリック司祭チャールズ神父が、「リンカーンの暗殺はイエズス会に責任がある」と述べたことが発端になっているようです。

ブースがイエズス会と接触していたのは確かだろうと思います。
長くなりましたので、イエズス会については次回に送ります。
最後までお読みくださりありがとうございました。ではまた。
