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備忘録*イングランド・スコットランドの王政復古(1660)と名誉革命(1688)

日本で「島原の乱」(1637年)が起きた頃、スコットランドでは「スコットランド内戦」と「主教戦争」が同時進行で起きていました。

そして1641年には、アイルランドでも蜂起が起こったため、イングランド、スコットランド、アイルランドの三王国戦争(1639–1653年)とも呼ばれています。

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三王国戦争のきっかけとなったスコットランドの内戦は、1625年にイングランド兼スコットランド王に即位したチャールズ1世が、イングランド国教会(聖公会)の形式にもとづく祈祷書と監督制(司教制)をスコットランドに強制したことが原因でした。

スコットランドのキリスト教徒(プロテスタント長老派)が猛反発し、エディンバラを始め各地で民衆暴動が起こりました。


ヴァン・ダイク作「三つの姿勢をとるチャールズ1世」 1635-36年


キリスト教国でない日本人の私たちが混乱しやすいのは、
アイルランドはローマ・カトリックが主流、
スコットランドはプロテスタント長老派(カルヴァン派)が主流、
イングランドは独自のイングランド国教会
ということで、三つの国は同じキリスト教徒だけど典礼が違う(典礼は祈祷書に沿って行われる)という知識不足によります。

私も典礼が違うというのは聞いていたけれど、祈祷書でなぜ反乱が起きるのか疑問だったのですが、アランデル家のことを調べて初めて理解しました。


この戦争では、それぞれに君主制のとらえ方が違うので、戦争の目的と思惑が違っていました。

イングランドはチャールズ1世を全面支持する王党派と、チャールズ1世がカトリックを再導入しているとして反発した議会派に分かれ戦いました。

絶対君主主義や王権神授理論を標榜するチャールズ1世と王党派に対し、議会派、円頂党(Roundheads)は議会(立法府)による行政組織の完全な支配を目標にしていました。

アイルランドは国王に忠誠を誓い、チャールズ1世を支持するイングランドの王党派と共に戦いました。
スコットランドは、第一次イングランド内戦ではチャールズ1世に反発しましたが、長老派は「君主制自体が神の定めた制度​​である」(カルヴァン派の考え)と考えていたので、君主制を廃止しようとする議会軍に反対し、第二次イングランド内戦ではチャールズ1世の味方に回りました。


アイルランド南軍の軍旗には「チャールズ王万歳」という言葉が含まれていた。




1637年、英国国教会の礼拝中に起きた暴動


カヴェナンター(盟約派)の結成

1638年2月、スコットランドのモントローズ伯爵ジェイムズ・グラハムらは国民盟約盟約派)を結成し、祈祷書と監督制を拒否しました。

国民盟約(National Covenant)は、国王チャールズ1世の施行した国教会祈祷書に反対して起こったスコットランドの抵抗運動組織である。
スコットランドには元来、何らかの主張をする時に結束して盟約を作る習慣があったが、国民盟約はその代表的なものであり、国教会の監督制に対して長老制の維持を主張した。

国教会と長老制の違いは、
国教会が国王を頂点に大主教・主教と続く階層・階級によって統制されているのに対し、長老制は宣教長老(牧師)と治会長老(信徒の代表)からなる長老を代表とし、全体教会で議決を行っていました。


カヴェナンター(盟約者)の旗


国民盟約はイングランドに2度にわたる主教戦争(1639年、1640年)に挑み、2度ともスコットランド側の勝利に終わりましたが、1642年から始まるイングランド内戦第一次イングランド内戦)及び清教徒革命の原因の1つとなりました。


イングランド国教会とスコットランド国教会の違い

イングランド国教会(聖公会)は、16世紀に国王ヘンリー8世からエリザベス1世の時代にかけてローマ教皇庁から離脱しましたが、他プロテスタント諸派とは異なっています。


ヘンリー8世


ヘンリー8世の離婚問題が原因で教皇庁から離れたため、カトリック教会の教義自体は否定していませんでした。そのためカトリック教会の典礼との共通点が多いです。

イングランド国教会は、立憲君主制であるイングランド(イギリス)の統治者である国王が教会の首長(Defender of the Faith、直訳は『信仰の擁護者』)であるということが最大の特徴である。


スコットランドも16世紀の宗教改革により、カトリック教会から離脱しプロテスタント教会を設立しました。
こちらはイングランド国教会とは違い、明確なプロテスタントです。

16世紀前半からスコットランドの学者や宗教指導者は、プロテスタントの宗教改革者マルティン・ルターの教えに影響を受けました。
現在のスコットランド国教会(The Kirk)は長老派の教会で、国教ではありませんが人口の42%が属しているそうです。


ジョン・ノックス(1510年 - 1572年)は、カルヴァンに師事していた。


イングランド内戦(清教徒革命)

イングランド内戦及び清教徒革命は、国王を支持する王党派と議会派(円頂党)の間で、1642年から1651年までの9年間にわたって行われました。


国王と議会の対立

議会の役割と宗教的慣習をめぐる対立は、 チャールズ1世の父ジェームズ1世の即位以来続いていました。
1603年にエリザベス1世が未婚のまま亡くなり、テューダー朝が断絶したため、親戚関係にあったスコットランド・ステュアート朝からジェームズ1世がイングランド王を兼任することで即位しました。


しかし、国制の違いからジェームズ1世はイングランドの法慣習を無視し、宮廷財政は急激に膨張していきました。
1610年に国家財政の一部を国民が負担するとする財政再建案(大契約)が提示されましたが実現されることはなく、以後国王と議会の確執が深まったと言われます。

「大契約」は、大蔵卿初代ソールズベリー伯ロバート・セシルが提案した財政再建案で、年間20万ポンドの収入を地租及び消費税から確保する権利を国王に与えるという提案を行った。
これは国王にとっては確実な収入が確保できる一方で、議会が国王の財政収入を監督し、封建領主を重負担から解放する画期的な構想であった。

三十年戦争では、1624年にフランスの呼びかけに応じてデンマーク=ノルウェーを対ハプスブルク同盟へ引き込む為に資金を提供した結果、英王室は財政難に苦しみました。

対ハプスブルク同盟またはハーグ同盟は、1624年にフランス宰相になったリシュリューによる軍事同盟である。
これは三十年戦争における反ハプスブルク包囲網でフランスが仕掛け人となり、三十年戦争における神聖ローマ帝国に対するフランスの外交戦争の始まりであった。また、この同盟により、デンマークが三十年戦争に参戦することとなった(デンマーク・ニーダーザクセン戦争)。

「権利請願」と国王批判

1628年、議会はチャールズ1世に対する「権利請願書」を採択しました。
議会の同意なしに課税したり、不当な逮捕や投獄、兵士を自宅に駐留させたりできないことを認めるよう求めました。

それに反発したチャールズ1世は議会を解散し、さらに11年間議会を開催せずに統治しました。
スコットランドとの主教戦争(1639年 - 1640年)による財政破綻の後、議会を招集せざるを得なくなって、短期と長期を数回開催しました。

国王の批判をする議員が増え、チャールズ1世はその議員たちを逮捕しようとして失敗。それによって国王と議会の関係はさらに悪化しました。


チャールズ1世


オリバー・クロムウェルの台頭

アイルランドで問題が起こり始めると、国王と議会はともに現地のカトリック教徒の反乱を鎮圧するために軍隊を編成しました

1642年10月のエッジヒルの戦いが、イングランド内戦における最初の戦闘と言われています。


第一次イングランド内戦(1642年 - 1646年)は、当初は国王軍に有利に見えましたが、「ネイズビーの戦い」で議会軍が勝利し、チャールズ1世はハンプトン・コート宮殿で軟禁状態に置かれました。

その後、王室との妥協を求める長老派が議会軍の解散を要求し、議会派内部で深刻な対立が起きている隙に、チャールズ1世はワイト島へ脱走し、長老派のジェイムズ・ハミルトン公爵と同盟を結んで「エンゲージャーズ」を結成していました。


ワイト島


しかし、議会派軍の指揮官だったオリバー・クロムウェル(ヘンリー8世の右腕だったが反逆罪で処刑された家トマス・クロムウェルの子孫)が軍をまとめ上げ、第二次イングランド内戦(1648年 - 1649年)でも、プレストンの戦い(1648年)で議会派が勝利しました。


オリバー・クロムウェルは、ピューリタンの独立派(分離派)でした。
1620年代にピューリタンへの弾圧が強まったため、イングランドに居づらくなり海外へ安住の地を求めたピューリタンが結成したのが独立派です。(例:メイフラワー号のピルグリム・ファーザーズ)

1640年にピューリタン弾圧を主導していたカンタベリー大主教のウィリアム・ロードが失脚すると、独立派ピューリタンがイングランドへ帰国し、清教徒革命に参加しました。


オリバー・クロムウェル

オリバー・クロムウェルの軍隊は、ピューリタンのジェントリ(地主)、ヨーマン(農家)が中心となった信者集団で、信仰に厚い人物なら出自を問わず士官に抜擢し、良家の子弟以外は指揮官になれないという当時の伝統を破りました。

信仰は軍の団結心に役立ち、兵士達は携帯聖書をポケットに入れて戦場に臨んだ。自分達が「選ばれた聖者」とした意識が士気を高め、敵(王党派)に容易に屈服しない精神を育んだ。

第二次イングランド内戦後、議会軍は『プライドのパージ』とよばれる軍事クーデターを敢行して、長老派を議会から全員追放しました。
残った50数名の議員のみからなる下院ランプ議会を承認し、イングランド共和国の樹立を宣言。そして、議会は1649年1月にチャールズ1世の処刑を執行しました(レジサイド)。


チャールズ1世の死刑執行令状。59名の委員によるサインと印章がほどこされている


清教徒革命による共和国の誕生

チャールズ1世が処刑された後、イングランドはオリバー・クロムウェルらが指導する共和国となりました。
クロムウェルは重商主義に基づいた政策を示し、同時に貴族や教会から没収した土地の再分配を行いました。
1651年の航海条例は、オランダの中継貿易を制限することになり、1652年の第一次英蘭戦争英蘭戦争)の引き金になりました。

イングランド共和国は、1653年から1658年までの間はオリバー・クロムウェル、その死後は息子リチャード・クロムウェルによる2代にわたっての護国卿による独裁が敷かれており、この時代は特に護国卿時代とも呼ばれる。

クロムウェルの紋章


話がややこしいのですが、チャールズ1世の処刑から6日後、スコットランド議会は、チャールズ1世息子のチャールズ2世を「スコットランド、イングランド、アイルランドの王」と宣言しました。

スコットランド人は「君主制自体が神の定めた制度​​である」という考えにより、チャールズ1世を処刑してしまったオリバー・クロムウェルら議会派に怒ったそうです。

フランス革命と同じ「王殺し」でも、スコットランドでは「王がいない政府はありえない」と思っていたそうです。

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しかし、オリバー・クロムウェル率いるイングランド軍がスコットランドに侵攻し、第三次内戦としても知られるイギリス・スコットランド戦争(1650年 - 1652年)が勃発しました。

スコットランド軍は、ダンバーの戦いウスターの戦いで大敗を帰し、亡命先のオランダから帰国していたチャールズ2世は、再びフランスへ亡命しました。

もちろん、アイルランドも侵略され、併合されました。
クロムウェルのアイルランド侵略


王政復古と司教制の復活

クロムウェルの失脚に伴う王政復古(1660年)によって君主制が返還され、チャールズ2世はイングランド、スコットランド、アイルランド王に即位しました。(在位1660年 - 1685年)


チャールズ2世


分離派の多くが国王の処刑に署名していたため、王政復古後にレジサイド(王殺し)として逮捕・処刑されました。
クロムウェルのようにすでに故人となっていた者は、墓を暴いて遺体(遺骨)の首を切断するなどの儀式処刑が行われました。


イングランド国教会の復活

共和国時代にはクロムウェル政権と同盟を結んでいたピューリタンが力を持っていましたが、王政復古後1662年の宗教統一法によりイングランド国教会が元の体制に戻り、国内のピューリタンは公職に就くことが禁じられ、衰退しました。

歴史家による推計では、この「大追放」によって約2,400人のピューリタン聖職者が教会を去ったとされる。
この時に「Dissenter」(反対者)という単語にピューリタンが含まれるようになった。より厳密には1662年の『共通祈祷書』改訂に反対した人々(聖職者及び信徒)を指す言葉であった。

イングランド国教会の分離派


チャールズ2世は、ローマ・カトリック的な司教の監督制をスコットランド教会に復活させました。

スコットランド大臣に任命されたローダーデイル公ジョン・メイトランドとスコットランド大法官のロシズ伯ジョン・レスリー、セント・アンドリュース主教のジェームズ・シャープの3人がスコットランドで弾圧政策を推し進めました。

長老派の牧師の多くが追放されましたが、牧師たちの中には洞窟などに潜み、野外での集会を行う者もおり、何千人もの信者が集まったそうです。
しかし、1664年に信者たちは集会と秘密礼拝を禁止されました。
決められた教区の礼拝に出席しない者には罰金、秘密集会を行ったものは死刑宣告や拷問が行われました。(殺戮時代


殉教したカヴェナンターの少女


カヴェナンターの反乱

1679年、カヴェナンターが反乱を起こしました。
迫害に加担していたセント・アンドリュース大主教のジェームズ・シャープは殺害されました。

1679年6月1日のドラムクロッグの戦いでは、カヴェナンターの軍が勝利しましたが、6月22日のボスウェル橋の戦いではチャールズ2世の庶子ジェームズ・スコット、初代モンマス公爵が指揮を執り、大砲を持たないカヴェナンターは敗北し、約1200人が政府軍の捕虜になったそうです。

カヴェナンターは全員、反逆者および裏切り者としてグレイフライアーズ教会刑務所に投獄され、処刑された者も多くいました。


グレイフライアーズ教会刑務所


捕虜の中に、リンカーン大統領夫人メアリー・アン・トッドの先祖、ジェームズ・トッドがいました。
彼はその後、(おそらく奴隷として)アメリカへ輸送されている途中に、船が嵐に巻き込まれて難破し、溺死したと言われています。

船に乗っていた囚人257人のうち、生き延びた48人は逃亡したそうです。

トッド家については次の記事に書きます。


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カヴェナンターの反乱を制圧したジョン・グラハム (初代ダンディー子爵)は容赦なく処刑を行なったことで、「血まみれのクラバー」と呼ばれていたそうです。
ジョン・グラハムは、チャールズ2世の弟のヨーク公ジェームズ(後のジェームズ2世)にも重用されました。


名誉革命によるプロテスタントの救済

1685年にチャールズ2世が脳卒中で亡くなり、弟のジェームズ2世が即位しました。ジェームズ2世はイングランドで最後のカトリックの王様でした。

チャールズ2世は臨終の際にカトリックに改宗し、ジェームズ2世は1668年から1669年(35歳前後)の頃に改宗したとみられます。
この兄弟の母、ヘンリエッタ・マリアはフランスの王女で、イングランドに嫁いでもカトリックの信仰を貫きました。


ジェームズ2世


17世紀のイングランドにおいて、王がカトリックを信仰することは、イングランド固有の法と伝統の破壊者、そして絶対王政を布く暴君といった烙印を押されることを意味しました。

ヘンリー8世の長女メアリー女王が統治した時代は、メアリーがカトリック信者であったためプロテスタントが弾圧され、
次女のエリザベス1世の時代にはカトリックが弾圧され、
ジェームズ1世はスコットランド女王だった母がカトリックだったため(母メアリーはエリザベス女王によって処刑された)イングランド国教会との板挟みになり、
チャールズ1世は妻ヘンリエッタ・マリアがカトリックだったため議会から信用されることはなく、プロテスタントに処刑された。
そしてチャールズ1世の息子たちの運命もまた・・・・


1688年6月、ジェームズ2世に待望の男子ジェームズ・フランシス・エドワード(ジェームズ老僭王)が生まれました。
このため、1代限りと思われていたカトリック政権が続くことが明白となり・・・反カトリック派の反発が激しくなりました。


ジェームズ・フランシス・エドワード


ジェームズ2世を廃位し、先に生まれていたメアリーと婿であるオランダのオラニエ公ウィレム3世(後のウィリアム3世)に王位を継承させようという陰謀計画が発動し、ジェームズ・フランシス・エドワードの誕生から5ヶ月後に名誉革命が勃発しました。


名誉革命( Glorious Revolution)は、1688年から1689年にかけて、ステュアート朝のイングランドで起こったクーデター事件である。
イングランド国王ジェームズ2世が王位から追放され、ジェームズ2世の娘メアリー2世とその夫でオランダ総督ウィリアム3世(ウィレム3世)がイングランド国王に即位した。これにより「権利の章典」が発布された。

ジェームズ・フランシス・エドワードは母に連れられてフランスへ避難し、父ジェームズ2世も廃位されてフランスへ亡命しました。


ウィリアム3世


名誉革命(何に対する名誉なのか?)により、イギリスにおけるカトリックの復権の可能性が完全に無くなり、カトリック教徒にとっては以後数世紀に渡る苦難の始まりでした。


また「権利の章典」により国王の権限が制限され、議会政治の基礎が築かれたと言われています。

国王およびその伴侶がカトリック教徒であることも禁止されましたが、2013年に王の伴侶がカトリック教徒であることを禁止する規定は廃止されました(2013年王位継承法)。


ジャコバイト運動が始まる

スコットランドのカヴェナンターへの迫害も名誉革命によって終わりましたが、今度はプロテスタントがジェームズ・フランシス・エドワードを国王にしようという運動が始まりました。

ジャコバイトは、1688年イングランドで起こった名誉革命の反革命勢力の通称である。
彼らは追放されたステュアート朝のジェームズ2世およびその直系男子を正統な国王であるとして、その復位を支持し、政権を動揺させた。
ジャコバイトの語源はジェームズのラテン語名(Jacobus)である。

【スコットランドのジャコバイト】

ステュアート家がスコットランド出身ということもあって、スコットランド人はジェームズに同情し、ステュアート朝を復興させることを目的にジャコバイト運動が活発化しました。

カヴェナンターを迫害して「血まみれのクラバー」と呼ばれていた、あのジョン・グラハムが運動を主導しました。
ジョン・グラハムは今度は英雄となり、「麗しのダンディー」と呼ばれたそうです。


ジョン・グラハム (初代ダンディー子爵)


スコットランドでは、名誉革命によって長老派が復権したため司教たちが職を追われ、聖公会(イングランド国教会)信者が疎外させられました。
これもジャコバイトによる動乱が継続した一因となったとみられます。

さらにジェームズ2世がフランスのルイ14世の支援を受け、フランス軍を率いてアイルランドに上陸すると、カトリックのアイルランド人がこれに同調し、ウィリアマイト戦争が始まりました。

1690年7月1日にアイルランドのボイン川の戦いで、イングランド軍はジェームズ2世率いるフランス・アイルランド連合軍を破り、ジェームズ2世は再びフランスに逃れ戦争は終結しましたが、これらの紛争は 1707年の合同法への道を切り開くことになりました。

タータンチェックはジャコバイト反乱のシンボルとされた


長くなりましたので、今日はこのへんで。
最後までお読みくださった方、ありがとうございました。

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