見出し画像

19世紀フランス*ナショナリズム&反ユダヤ主義*政教分離

エミール・ゾラが『我、弾劾す』の抗議文を発表した1898年、双子座に海王星、冥王星、射手座に土星、天王星があり、土星と冥王星がオポジションでした。

ゾラのトランシットを見ると、アセンダントにぴったり天王星が貼りついていました。ネイタル3ハウス魚座天王星と、トランシットの土星と冥王星でTスクエア。

アセンダントの天王星でゾラ自身が大変化を迎えているのはわかりますが、その大変化は外圧(7ハウスの他者によってもたらされた)を受けたものだったことも見て取れますね。

*****



ナショナリズムからファシズムへ

ユダヤ人が活躍した19世紀末のウィーン

フランスに反ユダヤ主義が吹き荒れていた同時期、オーストリアのウィーンは史上まれに見る文化の爛熟期だったとか。世紀末ウィーン
特に文学・音楽の分野を中心にユダヤ系の活躍がめざましかったそうです。

グスタフ・マーラー(作曲家)
グスタフ・クリムト(画家)
ヘルマン・ブロッホ(作家)


ハプスブルク帝国の繁栄には翳りが見え、イタリアやドイツのように帝国内でも、民族主義が高揚して反政府運動が盛んになっていました。

しかし、当時のオーストリア=ハンガリー帝国皇帝フランツ・ヨーゼフ1世(1916年没)は、排他的なナショナリズムを避けてユダヤ人に寛容な政策をとり、職業・結婚・居住などについて従来ユダヤ人に課せられていた各種の制限を取り除きました。

ウィーンでは、1869年に6.6%だった都市人口に占めるユダヤ人の割合が、1880年には10.1%、1890年には11%にまで増大したといわれる。
移動の自由を得たユダヤ人たちは、さらにみずからの宗教、ユダヤ教のもつ伝統の重みからも逃れて子女にドイツ語教育をほどこしてオーストリア社会に同化しようとした。この子女の世代から世紀末ウィーン文化の担い手たちが数多く世に現れることとなる。

オーストリアの国章


フランツ・ヨーゼフ1世といえば、1853年暗殺未遂に遭い、1867年メキシコ皇帝だった弟マクシミリアンは殺害され、1889年皇太子ルドルフは謎の心中(不審死)、1898年皇后エリーザベトが旅行中にスイスで無政府主義者によって殺害され、後継者に指名していた甥のフランツ・フェルディナント大公夫妻も1914年に民族主義者に暗殺(第一次世界大戦の発端となったサラエボ事件)されるという、身内の不幸な死が続きました。

*****

1895年に反ユダヤ主義のキリスト教社会党のカール・ルエーガーがウィーン市長に選出され、しだいにオーストリアは反ユダヤ主義の高まりが民族主義へ、やがてファシズムへと変化していきました。


カール・ルエーガー

アドルフ・ヒトラーは、1913年までウィーンに住んでおり、カール・ルエーガーの演説を聞いて影響を受けたと言われています。




ウィーンの新聞記者だったヘルツル

そんなフランツ・ヨーゼフ1世によってユダヤ人に自由が与えられたウィーンで青年時代を送ったのが、ハンガリー王国ブタペスト生まれ、のちに「近代シオニズムの父」と呼ばれるテオドール・ヘルツル(テオドール・ビニヤミン・ゼエフ・ヘルツル、1860年5月2日 - 1904年7月3日)でした。


テオドール・ヘルツル


父方の先祖が、1739年に現在のセルビアのゼムンからボヘミアに移住したときに、レーブル(ヘブライ語のレフ「心」に由来)という姓を、ドイツ語化してヘルツル(ゲルマン語のヘルツ「小さな心」の縮小形)に改名したそうです。

父ヤコブ・ヘルツル(1836年 - 1902年)は、非常に成功した実業家だったとのこと。また、ヘルツル自身が有名なギリシャのカバラ学者ジョセフ・タイタザクの直系の子孫であると主張していたそうです。


ヘルツル(右から2番目)と家族、1866年頃~1873年


1878年、一家はウィーンに移り住みました。
ヘルツルは法律を学び短期間法律家として働いた後、ウィーンのリベラルな新聞Neue Freie Presse(ノイエ・フライエ・プレス)の特派員として1891年にパリに赴任。特派員時代はロンドンやイスタンブールへ特別出張もしていました。

赴任中の1894年に起きたドレフュス事件の取材を通じてシオニズム運動に関わり、その後、中心的な人物になったとWikipediaには書かれていますが、ヘルツルがドレフュス事件を取材したことはなかったようです。
私が調べた限りでも、彼はドレフュスの有罪を信じていたと言われています。

ヘルツルは、親族が住むウィーンの市長にカール・ルエーガーが就任したことにショックを受け、それからドレフュス事件でベルナール・ラザールらが本格的な動きを始めたことに目を向けたのだろうと思います。

ヘルツルについてはまた次の機会に綴ります。


ナポレオンのユダヤ人解放

フランス革命( 1789年7月14日 – 1795年8月22日)の1790年8月3日、フランス第一共和政はユダヤ人の権利を全面的に認めました。
(しかし、聖職者が特権階級に属していたため、1794年までキリスト教は徹底的に弾圧されました)

16世紀からヨーロッパのユダヤ人は、居住をゲットーに制限され、自由に好きな場所に住むことは出来ませんでした。
ゲットーの外に出る時は、ユダヤ人であることを示す黄色いバッヂやカラー帽子を被らなければならなかったそうです。


最初のゲットーと言われるイタリアの「ヴェネツィア・ゲットー」


フランスは人権宣言と国民議会の議決によって、ユダヤ人は市民権が認められ、ゲットー以外の地に住めるようになり、職業、不動産所得の自由、信仰の自由が得られました。


ナポレオンの第一帝政では、ユダヤ人同化政策の一環としてユダヤ人と高利貸しに関する法令でユダヤ人の金貸しの慣行を制限しました。
ゲットーは廃止したものの、ユダヤ人の移住が認められる地域を制限し、ユダヤ人に正式な名前の採用を義務付けました。
しかし、名前の選択に制限があり、ヘブライ語聖書や町の名前から名前を選ぶことは禁じられました。

ナポレオンは、ユダヤ人コミュニティによって選出された代表団体である大サンヘドリンを、フランス政府へのユダヤ人代表として受け入れるなど、フランス帝国におけるユダヤ人の地位を高める措置を可決したほか、ユダヤ教をフランスの国教の一つに指定したそうです。


ユダヤ人の金貸しを制限するに際し、既婚女性、未成年者、兵士がユダヤ人に対して負っているすべての負債を無効にし、金利が10%を超えるローンを無効にしました。
ユダヤ人の金貸しがアルザス地方で高利貸しをしていると非難されていたため、アルザス地方への移住を禁じ、他の地域に移住したい場合は農業を営むために土地を所有または購入することを義務付けました。

ユダヤ人の味方なのか敵なのかわからない法令ですが、ナポレオンはユダヤ人の人権的平等を望んではいたが、ユダヤ人が金貸し業で財産を増やすことは望んでいなかったのです。

ナポレオンは、ユダヤ人と非ユダヤ人の経済格差を無くそうとしたわけですね。ある意味フランスファーストだった?
ナポレオンの思惑通り、金貸しユダヤ人の財政状態は著しく弱体化したそうです。

この法令は、更新されない限り10年で失効することになっていたため、1818年、ルイ18世(在位: 1814年4月 - 1815年3月、1815年7月 - 1824年9月)は法令を更新しないことを決定しました。
ルイ18世こそが「ユダヤ人の解放者」だったかもしれませんね。



フランスのユダヤ人ジャーナリストの葛藤

エミール・ゾラの『我弾劾す』("J'accuse")の発表後、フランス国内では堰を切ったように激しい反ユダヤ運動が起きました。



ドレフュス派ではないユダヤ人ジャーナリストは、反ユダヤ運動をどう見ていたのだろう?と思っていたところ、J-Stageという日本の文部科学省所管の国立研究開発法人科学技術振興機構(JST)が運営する電子ジャーナルの無料公開システムの記事を見つけました。

*****


ドレフュス事件期の反ユダヤ主義とジャーナリズム
ナントの日刊紙『ロワールの灯台』をめぐってhttps://www.jstage.jst.go.jp/article/bellf/25/0/25_83/_pdf/-char/ja

執筆者の鈴木 重周(すずきしげちか)さんは、1976年生。
成城大学グローカル研究センターPD研究員ならびに横浜国立大学非常勤講師。専門はフランス文学、地域研究。
主な論文に「フランスにおける「ユダヤ文学」――ジッドの『日記』を手がかりとして」(『フランス語フランス文学研究』112-113、2018年8月)、「初期ドレフュス事件報道における反ユダヤ主義言説――事件の発覚と軍籍剥奪式をめぐって」(『ユダヤ・イスラエル研究』30、2016年12月)など。

上記の記事に出て来るシュウォブ家の人たちを通して、当時のフランスのユダヤ人の生活を覗いてみたいと思います。


フランス系ユダヤ人のシュウォブ家

ユダヤ系フランス人の作家マルセル・シュウォブ(Marcel Schwob1867- 1905)の兄、モーリス・シュウォブ(1859-1928)は 共和派日刊紙『ロワールの灯台』を運営していました。
モーリスは、アルフレド・ドレフュスと理工科学校の同窓生でした。

弟マルセルは、匿名のパリ在住記者として『ロワールの灯台』に「パリ通信」を連載していました。

*****


彼らの父ジョージ・シュウォブは、エジプトで外務省の首席補佐官を務めていました。
ジョージの父レオポルド・シュウォブ2世はラビで、1829年からノルマンディー地域圏のルーアンのハザン(ユダヤ教崇拝大臣) だったそうです。

ルーアンといえばジャンヌ・ダルクですね。



長男のモーリスは旧アルザス地域圏のストラスブールで生まれました。
ストラスブールは中世からユダヤ人が多い都市です。
(反ユダヤ主義による迫害や虐殺の歴史がある)
18世紀末に慈善家のヘルツ・セルベーアがユダヤ人総代として活躍していたそうです。

ヘルツ・セルベーアは軍の請負業者であり、その富とフランス政府に対する影響力を利用して、同じ信仰を持つ人々の物質的、精神的な福祉を促進した。政府は、ユダヤ人を排斥する法律を熱心に施行していたシュトラスブルク(ストラスブール)当局の意向に反して、彼が定住することを許可した。

モーリスが生まれてまもなく一家はなぜかエジプトへ向かい、ジョージは1867年までムハマンド・アリー(1769年3月4日 - 1849年8月2日)の孫カリル・シェリフ・パシャ(1831年6月20日 - 1879年1月12日)のもとで働きました。

この頃、エジプトはスエズ運河を建設(1859年~1869年)していました。
ジョージがエジプトを離れた翌年、カリル・シェリフ・パシャもウィーン駐在のオスマン帝国大使に就任しましたが、1879年1月に急死しました。

*****



普仏戦争(1870年)でフランスが敗北し、第三共和政が始まったときにシュウォブ家は、パリ南西部のシャヴィルから臨時政府(1870年9月4日から1871年2月13日まで)が置かれたトゥールに移住しました。

当時のトゥールは(ブルボン家を支持する)キリスト教徒が多い都市でした。
ジョージは、アルマン・リヴィエール(歴史家、のちにトゥール市長)とアレクシス・ボードロとともに新聞『ル・レピュブリカン・ディ・アンドル=エ=ロワール』を創刊しました。3人は 1874 年に市議会議員に選出されています。


その後1876年に、一家はナントに移り、共和主義の日刊紙『ル・ファール・ド・ラ・ロワール(ロレーヌの灯台)』の発行者・編集長となり、1892年に彼が亡くなった後、長男モーリスが後を継ぎました。


ナントの位置


彼らの母マチルド・カアンは、アルザスの知識階級の出身で、東洋学者のダヴィッド・レオン・カアン(David Léon Cahun 1841年6月23日 - 1900年3月30日)は母方の伯父でした。
Wikipediaには、カアン家はルイ9世の時代に遡る名門とだけ書かれていますが、アルザスのカアン家はアシュケナジーで、綴りは少し違いますがザドック・カーン(Zadoc Kahn)という名が知られた首席ラビを輩出しています。


ザドック・カーン


フランスの首席ラビは、フランスのユダヤ人コミュニティにおける最高の宗教的人物。首席ラビはすべてのフランスのラビだけでなく、パリ地域のパリのラビに対して道徳的権威を有しており、彼らは共に当局に対してユダヤ教徒を代表している。

ザドック・カーンは、1894年6月に後にドレフュス事件の真犯人となるフェルディナント・ヴァルサン・エステルハージがロスチャイルド家の援助を受けられるように仲介した人物です。

また、テオドール・ヘルツルに対抗して、ドイツ系ユダヤ人の慈善家モーリス・ド・ヒルシュ(ハーシュ)男爵Maurice de Hirschにアルゼンチンにユダヤ人植民地を設立する計画を提唱しました。
その後1891年に イギリスの団体としてユダヤ人植民協会(ICA) を設立しました。

ヒルシュの紋章



モーリス・シュウォブが直面した反ユダヤ主義

そんなバッグボーンを持つユダヤ人ジャーナリスト、モーリス・シュウォブは、「ユダヤ人である前にアルザス人、アルザス人である前にフランス人
」と評されるほどフランスへの忠誠心が強かったそうです。

*****


パリでドレフュス事件をスクープしたのは、反ユダヤ主義の日刊紙「ラ・リブレ・パロール(La Libre Parole)」でした。

軍内部に詳しい者から垂れ込みがあったそうなのですが、前の記事に書いたように「ラ・リブレ・パロール」の編集発行人のエドゥアール・ドルモンとドレフュス事件の真犯人フェルディナント・ヴァルサン・エステルハージがともにロスチャイルドから援助されており、二人に交流があったことからもエステルハージから情報提供があったと考えるのが自然でしょう。


エドゥアール・ドルモン


すでにパリでは実名報道がされている中、『ロワールの灯台』がドレフェス事件を報じたのは1894年11月2日だったそうです。

鈴木重周さんの論文によれば、「あるフランス人将校が、その職務 上犯しうる最も忌まわしい犯罪に手を染めた。金によって、彼は祖国を売った のである 」と報じたということです。
モーリス兄弟は、さすがにユダヤ人の事件とは書きづらかったのでしょう。


1895年1月5日には、ドレフュスの軍籍剥奪式が行われました。


ドレフュス大尉の軍籍剥奪式を目撃するために集まった人々の描写
ドレフュス大尉の不名誉な除隊を描いた挿絵
(官位剥奪式で剣を折られるドレフュス=中央左)


『ロワールの灯台』は「フランスに おけるすべてのユダヤ社会は、この憎むべき犯罪者に対して、愛国心こそがあ らゆる疑惑を否定するのだと決定的に表明するのだ ) 」と、ドレフュスの問題 と「ユダヤ社会」とを切り離すべく呼びかけた。
モーリスは、自らの揺るぎな い愛国心を表明することによって、同胞をめぐる騒動を乗り切ろうとしたので ある。

ドレフュス事件期の反ユダヤ主義とジャーナリズム


1896年11月、ドレフュス派のジャーナリスト、ベルナール・ラザールはドレフュスの冤罪を訴える小冊子「誤審 — ドレフュス事件の 真実」を著名人に一斉に送付しました。
マルセルもそれを受け取っていましたが、ドレフュス派に同調することはできなかったそうです。

マルセル・シュウォブ


しかし、ゾラの告発文が出る以前に、マルセルもドレフュスの無罪を信じるようになっていたと鈴木重周さんは書いておられました。
ドレフュス派の運動に積極的に関わることはなかったようですが。


兄のモーリスが住んでいたナントにも、ゾラの告発文以降は反ユダヤ運動の激流が及びました。

ドレフュス事件期の反ユダヤ主義とジャーナリズム


ナントはストラスブールと比較すると、ユダヤ系住民はかなり少なかったそうですが、名前や外見がユダヤ人っぽいと判断された場合も「ユダヤ人」として襲撃されたそうです。

モーリスの娘、ルーシー・シュウォブは当時まだ2歳でしたが、ナントに根付いた反ユダヤ主義によって1905年から1906年頃、彼女が女子高生だったころクラスメートに酷い迫害を受けたため、モ―リスはイギリスへ転校させています。

余談ですが、ルーシーは幼馴染のスザンヌ・マルヘルブ(イラストレーターのマルセル・ムーア)と秘密の恋人同士でした。
父がスザンヌの母と再婚したため、二人は異母姉妹となりパリで一緒に生活しました。ルーシーは「クロード・カアン」として写真家になりました。

ルーシー・ルネ・マチルデ・シュウォブ


ジャーナリズムが火をつけた反ユダヤ運動

ナントの暴動は新聞各社によってが報じられましたが、推定参加者人数が警察発表と『ロワールの灯台』は 3000人だったのに対し、1万5000人、2 万人と報道した新聞社があったとか。
昔からメディアの印象操作はすごいですね。

*****

暴動の翌週に出された論説でモ―リスは、
「勤勉で理性に満ちた我が街のような場所で起きたここ数日の騒乱は、教権主義による、作為的かつ全くもって底の浅い暴力的な企てに過ぎない。
現在フランス中で起きているこの運動は、ドレフュス=エステラジー事件に
よって引き起こされた嘆かわしい政治的混乱の前から周到に準備されてい
ものだ。」と論じています。

反ユダヤ主義運動の影には教権派がいると、モ―リスには見えたのでしょう。あるいは、そう信じたかったのもしれません。


1898年1月の暴動から1年8ヶ月が過ぎ、ようやくモ―リスは胸の内を語ることができました。

長きにわたるため らいと多くの疑念の後に、私はドレフュス派になった。
私はこの不幸な人物の有罪を 信じていた。
その内にこもった性分、冷たい性格、口数の少なさ — 自分 の財産や知識を自慢する以外で彼はほとんど口を利かなかったものだ。
そのような彼にまつわる良からぬ思い出を持つほとんどの同期生たちと同 じように、彼の有罪を信じていたのだ。 


ナショナリズムの高揚

モ―リスもマルセルも、ユダヤ人の血とフランス人の精神の葛藤の末に、ドレフュスを支持するようになりましたが、逆にドレフュス派からアンチになった政治家もいました。


人権派のポール・デルレード(Paul Déroulède、1846年9月2日 - 1914年1月30日)は、1898年1月に政治的理由により見解を改め、反ドレフュス派に転向しました。

ポール・デルレード


デルレートは「ドレフュスはおそらく無罪だろう。しかし、フランスに罪はない」と述べています。
デルレートは、反ユダヤ主義とナショナリズムを融合させた愛国者同盟を率いていたからです。

愛国者同盟は、1882年にのちに大統領になるフェリックス・フォーレらによって設立されました。
1889年3月に解散しましたが、ドレフュス事件が勃発する前の1897年に復活していました。


愛国者同盟


たまたまなんでしょうが、ドレフュス事件を待つように同盟は復活しているんですね(気になります(苦笑)

前の記事に書いた「フランス祖国連盟」はゾラの裁判後の1899年、王党派組織「アクション・フランセーズ」は1905年に創立されました。
反ユダヤ主義の新聞発行人、エドゥアール・ドゥルモンは、1889年にフランス全国反ユダヤ主義連盟に設立しています。


1905年、政教分離法 (ライシテ法) の成立

1905年に政教分離法(ライシテ法)が成立しました。

「ライシテ」の語源はギリシア語の「ラオス (λαός, laós; 民衆)」、「ライコス (λαϊκός laïkós; 民衆に関すること)」であり、「クレーリコス (κληρικός, klêrikós; 聖職者に関すること)」と対語を成している。

ライシテの起源はフランス革命 (1789-1799) にありました。
フランス革命では、共和制への従属を拒否したカトリック聖職者の多くが処刑されました。

革命後に権力を掌握した人々は近代国民国家 (État-Nation) の樹立を目指し、たアンシャン・レジーム下で支配的なイデオロギー装置であった教会を駆逐し、さらにその上の王制への従属を破壊することを目的としました。

人権宣言(人間と市民の権利の宣言


アンシャン・レジームを風刺した画
第三身分者が聖職者と貴族を背負う


*****


その後、復古王政ブルボン朝 (1814-1830) においてカトリックが再び国教として復活し、第三共和政 (1870-1940) の初期に至るまで、カトリック勢力と反教権勢力の対立が続いていました。

ドレフュス事件は、モーリス・シュウォブが論説で書いたように教権派と、共和派の対立が結びついていました。

ドレフュス派は1898年に「人権同盟」を結成し、政教分離支持・反教権主義の立場を表明しました。
1902年の選挙で左派の社会党・急進党が勝利し、首相に就任したエミール・コンブは約3千の無認可の修道会系学校を次々と閉鎖し、約2万人の修道会員、54の修道会がフランスから追放されました。


1904年7月7日の法律第1条で「フランスではあらゆる段階、あらゆる種類の修道会による教育は禁止される」と規定され、1904年7月29日、フランスとローマ教皇庁との国交が断絶されました。

これにより、フランスの反教権主義(反カトリック主義)は完成し、国家の宗教的中立性・無宗教性および信教の自由の保障が図られたのでした。


(風刺画) 政教分離

1905年の政教分離法(ライシテ)は人権宣言第10条の精神を受け継ぎ、第1条に「フランス共和国は思想・良心の自由を保障する。
フランス共和国は、以下に述べる公の秩序のための制約を守る限りにおいて、信仰実践の自由を保障する」とある。
さらに第2条には、「フランス共和国はいかなる宗教も公認せず、俸給を与える又は助成金を支出することはない。したがって、本法(政教分離法)の布告後、(1906年)1月1日以降、信仰実践にかかる費用は、国家、県、コミューン(市町村)の予算から排除される」と書かれている。



最後に*フランスの反ユダヤ主義の3タイプ


ユダヤ人の神殺しとは、2世紀頃、初期キリスト教で生まれた概念。
マタイによる福音書27章24~25節も、ユダヤ人がイエスの殺害に対してイエスの死後も何世代にもわたって集団的に責任を負っていることを表していると見なされている。

24ピラトは手のつけようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て、水を取り、群衆の前で手を洗って言った、「この人の血について、わたしには責任がない。おまえたちが自分で始末をするがよい」。
25 すると、民衆全体が答えて言った、「その血の責任は、われわれとわれわれの子孫の上にかかってもよい」。

「そして民衆は皆答えた。『彼の血は我々と我々の子孫の上にかかってもよい』」という一節は、血の呪いとも呼ばれている。

ユダヤ人がキリストを殺したという非難は、キリスト教の反ユダヤ主義を助長し 、十字軍の際のユダヤ人虐殺、ユダヤ人の追放、異端審問中の拷問など、ユダヤ人に対する暴力行為に拍車をかけたと言われます。


◆反資本主義

資本主義に反対するさまざまな態度や考えを包含する政治的イデオロギーおよび運動。


◆生物科学的人種差別
人種は固定した特徴を持っているという議論に基づき、ユダヤ人は否定的な特徴を持っていると主張する。


前述のエドゥアール・ドゥルモンは、この3つの混合タイプの反ユダヤ主義であったため、かなり強力な陰謀論者だったと言われています。
でもユダヤ人のロスチャイルドからお金貰っていたことを鑑みると、おそらく「両建て」か、むしろ炎上狙いで本質は「ユダヤ人のための反ユダヤ主義」だったんじゃないかと思わなくもないです。


日本人に多く見られるのは、2の反資本主義がゆえのユダヤ金融ロスチャイルド批判という感じですよね。
日本には、ユダヤ人のディアスポラがなかったこと(ユダヤ移民が少ない)と、キリスト教の聖書に詳しくないということが幸いして、反ユダヤ主義が生まれなかったんだと思います。

イスラエルでは、「(第二次世界大戦集結以前から)先進国の中で唯一ユダヤ人を差別しなかったのは日本だけ」と教えているそうです。
日本における反ユダヤ主義

*****


古代ローマで高位公職者の周囲に付き従ったリクトルが捧げ持った権威の標章として使用され、20世紀にファシズムの語源ともなった。

*****

この記事もすっかり長くなってしまいましたが、何か少しでも参考になれば幸いです。

現在、イスラエルのネタニヤフ首相とメディアによって「反ユダヤ主義」の烙印を突き付けられている世界情勢によく似ている気がします。
反ユダヤ主義がナショナリズムを強め、隠れていたファシズムが再び表に出て来るのか・・・

最後までお読みくださりありがとうございました。
ではまた。


いいなと思ったら応援しよう!