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備忘録:奴隷制度と奴隷貿易の始まり

古代に奴隷貿易がいつ始まったかを特定することは困難ですが、奴隷制はミケーネ文明(B.C.1600頃~B.C.1200年頃)には存在したと言われています。

古代ギリシアの奴隷は、戦争の捕虜、海賊行為、盗賊、奴隷貿易で供給されました。奴隷貿易の主な中心地は、エフェソスビザンチウム黒海の奴隷貿易(後述)を経由して遠く離れたタナイスだったそうです。

ギリシャでは、男性の奴隷は主に鉱山や採石場に使役され、女性は家事労働、特にパン焼きを行なっていたそうです。


古代ローマの奴隷制度

キリキアの海賊に捕らえられたジュリアス・シーザー

キリキア(現在のトルコ)の海賊は、紀元前2世紀から紀元前67年頃まで地中海を支配していました。セレウコス朝は彼らを鎮圧できず、逆に支援を与えて皇帝の地位を守らせていた時代もあったようです。
(CIAがISISテロリストに武器を与えるのと同じですね)

海賊による誘拐

この時代の海賊による誘拐は、人身売買ではなく身代金請求が目的でした。
身代金が支払われない場合には、誘拐した人質を売買しました。珍しいことではなかったそうです。

シデ市(現在のトルコ内)が貿易の中心地であった紀元前2世紀頃、人身売買を目的とした大規模な組織が作られましたが、キリキアの海賊がローマ人に安価な奴隷を供給していたため、ローマ帝国も海賊をあえて取り締まることはしなかったらしいです。
海賊との戦争は大規模で費用がかかり、一度にすべての海賊を撃退することは不可能だと考えられていました。

そのためは海賊たちは内陸を襲撃するようになり、やがて多くの海賊がさまざまな場所に定住しました。
ローマの港町が略奪され、重要なローマ人が捕らえられ多額の身代金を要求されたり、海上が無法地帯となったため貿易が中断され、ローマでは食糧不足と飢餓につながりました。
そこでようやく本腰を入れた海賊退治が行われたようです。
ポンペイウスの海賊に対するキャンペーン



奴隷貿易と奴隷の待遇

イタリア半島で最大の奴隷市場は、ローマのカストルとポルックスの神殿の隣にありました。
ローマ以外で奴隷貿易の最大の中心地は、エフェソス(トルコ)でした。
エフェソスには、イエスの母マリアが使徒ヨハネとともに余生を送ったという言い伝えがあります。

『聖母マリアの家』


ビザンチウム(現在のトルコ領イスタンブールの旧市街地区)は、黒海の入り口に位置していたため、黒海の奴隷貿易の市場になりました。

黒海の奴隷貿易は、東ヨーロッパとコーカサスから黒海を渡ってシルクロード経由で地中海と中東に人身売買しました。19世紀まで。

古代ローマの奴隷は、農場や鉱山などの肉体労働や家内労働だけなく、高度な知的労働(例:教師、会計士、医師)に就いている奴隷もいました。

ローマの奴隷は戦争捕虜や奴隷が産んだ子供が主でしたが、中にはローマ市民を含む自由人が経済的理由で自らを売って奴隷になったり、同様の理由で子どもが売られ奴隷となることもありました。
海賊によって拉致されたり、身寄りのない子供が奴隷として売られることもあり、また主人が奴隷女性に産ませた子供は法律上も奴隷でした。


ジャン=レオン・ジェローム『ローマの奴隷販売』

自由人のように法的権利はほとんど認められていなかったが、都市部の奴隷は金銭や物などの個人財産を持つことや、事実婚を行うことは一般的に認められていた。(正式な結婚は認められなかった)
しかし、主人が拷問の正当性を証明できる場合は奴隷への拷問は認められており、性的虐待も法的に問題はなかった。帝政期になると、主人の暴虐を理由として神殿に逃げこむ権利などが認められるようになった。

老いたり病気になったりして使役に適さなくなった奴隷は、ローマではティベリス川の中州にあるティベリーナ島に捨てる慣習があり、資産価値のなくなった奴隷の扱いは良かったとは言えない。

解放奴隷

都市部の奴隷は主人の決定や遺言により、また奴隷自身や第三者が主人に対価を支払うことで解放されました。(農村部では難しかったようです)
解放されるまでの期間は5〜6年から20年近くと、大きな幅があったそうです。
解放された奴隷は「解放奴隷」(男性の場合リベルタス libertus、女性の場合リベルタ liberta)と呼ばれましたが、解放後も元主人やその家に対して様々な義務を果たすことが法的に決められていました。


「解放された奴隷」であることを表すピレウス(帽子)


中世に「自由」を表す意味で用いられたフリジア帽


古代ローマの奴隷制度は、大勢の人間を外部からローマ社会に取り込むための仕組みでもあり、解放された奴隷の子供の代には市民権が与えられ、解放された奴隷自身(親)にも市民権の獲得機会が与えられました。


サハラ交易とエジプトの奴隷制

正確にいつから始まったかは不明ですが、エジプト文明に遡るサハラ横断奴隷貿易はサハラ以南のアフリカで奴隷を集め、地中海と中東に販売していました。
加えてトルコ人、アラブ人、ヨーロッパ人も奴隷として取引されました。

ローマ帝国時代はレプティス・マグナ(リビアのトリポリ)とカルタゴ(チュニジア)に奴隷市場がありましたが、ラクダを使ったキャラバンはまだ少なく、奴隷取引の規模は大きくなかったとみられています。
ちなみにローマ国内ではアフリカの奴隷はほとんどいなかったそうです。


8世紀初頭にイスラムが北アフリカ(マグレブ)を征服すると、アラブの奴隷商人は北アフリカならびに西アフリカに進出しました。
アラブ人は暴力的な襲撃によって奴隷を獲得し、北アフリカの主要な奴隷市場であるモロッコアルジェ(アルジェリアの首都)、トリポリ、カイロ(エジプト)で売買をしました。

奴隷は非イスラムの土地から、いくつかのルートを経由してエジプトに人身売買されました。
ファーティマ朝(909年 - 1171年)では軍事奴隷制が拡大し、男性奴隷の必要性が高まり、女性奴隷は主に家事使用人、または性奴隷として使用されました。

中世アフリカの主な奴隷ルート


エジプトの奴隷制は、古代エジプトの奴隷制とは異なりイスラム法(シャリーア)に従って管理され、20世紀初頭まで行われていました。
イギリスの圧力により1877年から1884年にかけて奴隷貿易が禁止され、段階的に奴隷制が廃止されました。

アラビア半島では早い時期に奴隷売買そのものが縮小しましたが、イスラムはアフリカ大陸北部の住民を奴隷としてヨーロッパに売りさばき、その多くが大西洋奴隷貿易でアメリカ大陸へ輸出されていきました。

しかし20世紀から現在もエジプトでは、東ヨーロッパ諸国から商業的性的搾取のためにイスラエルに人身売買される女性の中継国となっており、組織犯罪グループが関与しています。

エジプトの奴隷貿易(1894年)


紅海奴隷貿易

紅海奴隷貿易は、古代からサウジアラビアとイエメンの奴隷制が1960年代まで存在していたため知られています。第二次世界大戦後、国際的な圧力の高まりにより、公式に停止しました。

イスラム以前のアラビアでは、アラブの戦争捕虜が奴隷制の一般的な標的でしたが、エチオピアからの奴隷輸入も行われました。
紅海の奴隷貿易は、1世紀以降に確立されたようです。

紅海奴隷貿易における奴隷は主にアフリカ人でしたが、紅海にインド洋奴隷貿易のルートが含まれていたため、他の民族、主にアジア人も売買されていました。

インド洋の奴隷貿易は紀元前2500年にさかのぼり、西暦 1 世紀 に大幅に拡大しました。現在のケニア、モザンビーク、タンザニアの内陸部からバントゥー族(ザンジ)が捕らえられ、インド洋に隣接するすべての国に奴隷として輸送されていました。
サンジの反乱(869年 - 883年)


毎年恒例のメッカ巡礼サウジアラビア)であるハッジは、20世紀までサハラ横断奴隷貿易に代わる奴隷売買の手段でもありました。
巡礼者は騙されて、サウジアラビアの奴隷市場で売られました。旅費を支払うために、家族や仲間を売ったケースも少なくなかったそうです。

ジョン・F・ケネディ大統領は、同盟国であるサウジアラビアの奴隷制を問題視し、サウジアラビアに「近代化と改革」を迫りました。
1962年、サウジアラビアは正式に奴隷制を廃止し、同じ年にイエメンでも奴隷制が禁止され、1963年にはドバイ、1970年にはオマーンが奴隷制を禁止しました。


中世ヨーロッパの奴隷貿易

西ローマ帝国が滅んだあとの西ヨーロッパ、フランク王国メロヴィング朝では、帝国全土においてキリスト教徒の奴隷販売を禁止したそうです。

つまるところ中世では宗教的原則に沿って、キリスト教徒もイスラム教徒も同じ信仰を持つ人々の奴隷化を禁止しました。
キリスト教徒がキリスト教徒を奴隷化することは許されず、イスラム教徒がイスラム教徒を奴隷化することも許されていませんでしたが、どちらも異なる信仰を持つ人々の奴隷化は承認しました。

さらにどちらも異端者と見なした人々の奴隷化を許可しました。
カトリック教徒が正統派キリスト教徒を奴隷にし、スンニ派イスラム教徒がシーア派イスラム教徒を奴隷にすることも可能でした。


子供奴隷の売却


ほとんどのキリスト教国の奴隷商人は、非キリスト教徒の地域からイスラム、北アフリカ、中東に奴隷を移動させることに重点を置き、非キリスト教国の商人は、イスラム教徒の市場に焦点を当てました。

イスラム以前の宗教についてはほとんど知られていませんが、アラブ人はアル・ラート、マナト、アル・ウッツァ、フバルなどの神々を崇拝し、彼らの最高神はアッラーだったそうです。

サカーリバ(スラヴ人奴隷)

サカーリバとは、中世アラブ世界や中東、北アフリカ、シチリアやアンダルス(イベリア半島)において販売された、ゲルマン人とスラヴ人の奴隷と傭兵を意味する言葉。

中央ヨーロッパ、特にカール大帝のカロリング朝フランク・ドイツ・神聖ローマ帝国では、東方への襲撃や戦争によって捕虜にしたスラヴ人を奴隷として絶えず供給していました。
裕福なイスラム帝国ではヨーロッパ系の奴隷の需要が高かったため、奴隷市場が急速に形成されました。

イスラム世界へのスラヴ人奴隷の主な供給路は、中央アジア経由、地中海経由、中央ヨーロッパおよび西ヨーロッパ経由など複数ありました。
ヴォルガ川ヴォルガ交易路と他のヨーロッパ交易路は、ユダヤ商人によって供給されていました。

ルーシ族(中世東ヨーロッパに侵入したヴァリャーグ(ヴァイキング)は、このルートを利用してカスピ海南岸のイスラム諸国と貿易をし、時にはバグダッド(イラク)まで進みました。

ヴォルガ交易路(赤)とヴァリャン人(ヴァリャーグ)からギリシャ人への交易路(紫)。
8世紀から11世紀の他の交易路はオレンジ色で示されています。


ラダニテ(ユダヤ人の商人)
ラダニテは、中世初期のユダヤ人商人で、8世紀から10世紀頃にかけてキリスト教世界とイスラム世界の間で貿易活動を展開しました。
一次資料が限られているため、ラダニテが特定のギルドやユーラシア横断貿易におけるユダヤ人商人全般を指しているかどうかは不明。

ラダニテは主にスパイス、香水、宝石、絹などの少量で需要の高い商品を商うほか、油、香、鋼鉄製の武器、毛皮、奴隷などを輸送していました。

アル・アンダルス(イベリア半島のイスラム教徒支配地域)の奴隷貿易では、奴隷はスペインのキリスト教地域や東ヨーロッパ(サカーリバ)から輸出され、アル・アンダルスへの輸送はラダニテが中心に行っていたと言われています。

ラダニテ族の交易網(青色)

ユダヤ商人は宗教の境界を自由に移動できるという利点があり、キリスト教世界にイスラム教徒の奴隷を、イスラム教世界にキリスト教徒の奴隷を供給しました。また、両方に異教徒の奴隷も供給していました。

女性奴隷は家庭内奴隷または性奴隷として、男性奴隷は軍事奴隷または宦官(去勢された召使)として売られました。
キリスト教徒とイスラム教徒はどちらも去勢を行うことを禁じられていましたが、ユダヤ人にはそのような禁止事項はなかったのでラダニテが奴隷の去勢を行なっていたと言われています。


プラハの奴隷貿易

プラハ奴隷貿易とは、中世初期、およそ9世紀から11世紀にかけて、アル・アンダルス地方において、ボヘミア公国とコルドバ公国の間で行われた奴隷貿易を指し、イスラム世界へのサカーリバ(スラヴ奴隷輸送)の主要ルートの一つとして知られている。

異教徒のスラヴ人はキリスト教とイスラムの両方において、奴隷化の正当な対象とみなされていました。
そのためボヘミア(当時は新興のキリスト教国家)では、キリスト教国フランスを経由して異教徒の捕虜をアル・アンダルスの奴隷市場に容易に輸送することができました。

奴隷貿易による収入はボヘミア国家の経済的基盤の一つとされ、中央集権国家を形成するために必要な軍隊の資金源となりました。東ヨーロッパの新しいキリスト教国家では珍しいことではなかったそうです。


もう一つの奴隷供給源はヴァイキングでした。
西ヨーロッパにおけるヴァイキングの襲撃で捕虜となった人々は、ダブリン奴隷貿易(アイルランド)を通じてアル・アンダルスに売られたり、ヴォルガ川交易路を経由してロシアへ運ばれたりしました。そして最終的には中央アジアへと送られました。


ダブリン(アイルランド)奴隷貿易
9世紀から12世紀にかけてダブリンは、ヴァイキングの主要な奴隷貿易の中心地でした。841年にヴァイキングが入植し、奴隷市場を始めたことによりダブリンは栄えたと言われています。


ハザール奴隷貿易

ハザール奴隷貿易は、東ヨーロッパのハザールカガン国で行われました。
8世紀から10世紀に国が滅びるまで、サカーリバ奴隷の人身売買の主要なルートの1つでした。

ハザールはテュルク系民族と推測されており、9世紀頃にアニミズムのテングリ信仰からユダヤ教の一派(?)に改宗したことで知られています。
周辺国がキリスト教化されていく中で、特殊な例だと思います。
キリスト教でもないイスラム教でもないユダヤ国家のハザールは、ヨーロッパとイスラム世界の間の緩衝地帯となりました。


私は、最初「ビザンチン(正教)の入れ知恵」でハザールがユダヤ教に改宗したのかなと思いましたが、キリスト教でもないイスラム教でもないので奴隷貿易の中継地点になることが出来るし、ハザールの支配者にとっても経済的WINWINだったんですね。

ハザールカガン国


ヴォルガブルガリアの奴隷貿易
ハザールに代わって現れたのが、ヴォルガ・ブルガリアの奴隷貿易です。
ヴォルガ・ブルガリアは、ハザールを滅ぼしたキエフ大公国から奴隷を購入し、中央アジアのブハラ奴隷貿易(現在のウズベキスタン)を通じて19世紀までイスラムに輸出しました。

ブハラは古くからシルクロード貿易の中心地で、古代のペルシャの一部でした。


黒海の奴隷貿易
15世紀の黒海地域で主要な奴隷貿易の1つは、クリミア奴隷貿易として知られるクリミア・ハン国(イスラム教)の貿易でした。
クリミア・ハン国はオスマン帝国と同盟を結び、リトアニア、ポーランド、モスクワ大公国(現ロシア)を頻繁に襲撃し、捕らえた捕虜を奴隷としてイスラムに販売しました。
16世紀~18世紀の間には約200万人の奴隷を主にオスマン帝国に輸出しており、奴隷貿易はクリミア・ハン国の経済の根幹でした。



バルカン半島の奴隷貿易

中世初期の7世紀から15世紀半ばまで、バルカン半島からアドリア海とエーゲ海を渡ってヴェネツィアの奴隷商人を経由してイタリア、スペイン、イスラム中東に奴隷を取引しました。

バルカン半島の奴隷貿易は、プラハ奴隷貿易、黒海奴隷貿易、ハザール奴隷貿易、ブハラ奴隷貿易と並んで、ヨーロッパのサカリバ奴隷がイスラム中東に向かう主要なルートでした。

ヴェネツィアの奴隷貿易のルートの1つであり、地中海の主要な貿易帝国としてのヴェネツィア共和国の繁栄に貢献しました。
ヴェネツィアの商人はバルカン奴隷貿易で異教の戦争捕虜を購入し、エーゲ海諸島を経由して南ヨーロッパまたは中東に販売しました。

『ヴェニスの商人』シャイロックとアントーニオ


また黒海奴隷貿易では、クリミア半島にヴェネツィアの植民地を設立し、さまざまな宗教の奴隷を獲得しました。
両方の奴隷ルートは15世紀のオスマン帝国の征服により閉鎖され、オスマン帝国の奴隷貿易に統合されました。

バルカン奴隷貿易によるスペインとポルトガルへの奴隷供給の終了は、新世界アメリカ大陸の植民地への奴隷を供給する大西洋奴隷貿易の確立に貢献しました。



長くなりましたので、大西洋奴隷貿易については次回のアメリカ大陸の奴隷制の記事に送ります。

ところでこの記事を書いていて気づいたこと!
私はJFKの暗殺はCIAが関わったと思っているのですが、彼は中東の奴隷制度批判もしていたのですねぇ。
リンカーン大統領は奴隷制を廃止したので殺害されたと言われていますが、もうひとつ二人の共通点があります。それは紙幣を発行しようとしたこと。
奴隷制廃止と紙幣発行で困ったのは誰でしょう・・・

それでは、今日はこのへんで。
お読みくださりありがとうございました。

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