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備忘録:北アメリカの毛皮交易とビーバー戦争

16世紀から19世紀にかけての北米における毛皮交易(主にビーバー)は、フランス領カナダ東部諸州とアメリカ北東部植民地で始まりました。

この交易は主にフランス、オランダ、イギリス、スコットランドの入植者や探検家と、五大湖周辺に居住していたウェンダット族(ヒューロン族)イロコイ族などその地域の様々な先住民族が協力して開始され、すぐに北米経済の主な原動力の一つとなりました。

一方、イギリス領南部植民地では、チャールストンを積出港として鹿皮貿易が確立されました。


北アメリカの毛皮交易の始まり

北アメリカの毛皮交易は、フランス人の探検家ジャック・カルティエが1530年代から1540年代にかけて、3度にわたってセントローレンス湾を航海したところから始まります。

1度目の航海(1534年)で、カルティエはイロコイ族の首長ドンナコナ(Donnacona)息子二人を拉致し、フランスに連れ帰りました。

2度目の航海(1535年 - 1536年)は、その息子二人が同行しています。
カルティエは前年探検し残したセントローレンス湾の西端部へ直行し、イロコイ族の村落スタダコナ(現在のケベック)でドンナコナと会い、ドンナコナの家でタバコを振舞われるなど友好的なもてなしを受けました。

オシュラガ(現在のモントリオール)を探検した際、1000人を超える群衆が川岸に集まってフランス人たちを出迎えられ、カルティエはオシュラガの人々と2日間過ごしました。

1535年の冬は、最初はイロコイ族の間で、次いでフランス人の間で壊血病が流行しました。
カルティエはニオイヒバの樹皮から作った飲み物が壊血病に効くことを聞き、その治療法によって遠征隊は壊滅から救われました。110人にいた遠征隊のうち85人が冬を越すことができたそうです。

カルティエの2回目の航海の航路


カルティエは、次回の航海で連れ帰る約束で、再びドンナコナの息子2人を含む10人の先住民を連れフランスに帰国しました。

3度目の航海(1541年 - 1542年)では、ドンナコナから聞いていた黄金郷サグネ王国(Royaume du Saguenay)の探索と植民地の建設を国王フランソワ1世に指示されていました。
カルティエは現在のケベック州キャップ・ルージュを植民地にすると決め、400人の住民が居住する集落シャルルブール・ロワイヤルが建設されました。

シャルルブール・ロワイヤルは、フランス国王フランソワ1世の3男、オルレアン公シャルル2世にちなんで名付けられた。
しかし、厳しい天候、壊血病、そして近隣のスタダコナや他の村のイロコイ族からの攻撃のために、1543年9月に放棄された。

ドンナコナは3年前に死去しており、イロコイ族はもはや友好的ではありませんでした。
カルティエはサグネ王国を探そうと試みましたが発見することは出来ませんでした。翌年フランスに戻り、その後、カナダを訪れることはありませんでした。

カルティエらがダイヤモンドと金だと信じて持ち帰ったのは、石英結晶と黄鉄鉱であったため、フランス語で「 faux comme les diamants du Canada 」(カナダのダイヤモンドのように偽物)という表現が生まれたそうです。

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シャルルブール・ロワイヤルの放棄後、カナダにフランス人が入植することはしばらくなかったものの、カルティエの探検によってこの地域に毛皮が多く産出されることが知られるようになり、フランス人の商人が訪れるようになりました。
1580年ごろには、セントローレンス川をさかのぼって現在のモントリオールまでの間にいくつか交易所を設置されました。



タラ漁とビーバーの毛皮

1580年代まで、毛皮はタラ漁業の副産物でした。
タラの好漁場であるニューファンドランド島沖合は、コロンブスの新大陸来航以前からバスク地方などヨーロッパの漁民たちを惹きつけていました。

魚を乾燥させる新しい保存技術を得て、漁師たちはニューファンドランド島沿岸で漁をし、ヨーロッパへ持ち帰って販売できるようになりました。
彼らは大量のタラを乾燥させるのに適した、木材が豊富にある港を探しました。これが地元の先住民との最も古い接触のきっかけとなり、漁師たちは彼らと簡単な交易を始めました。


ニューファンドランド・ラブラドール州の州章

ニューファンドランド島には、かつてベオスーク(Beothuks)族、ミクマク(Mi'kmaq/Micmac)族という先住民族が居住していた。10世紀末には欧州人として初めて、ヴァイキング族がこの地へ入植した。1497年にイギリスの海外植民地となった。

ニューファンドランド島に漁業基地を築いたイギリス、続いてフランスが多くの漁船を派遣しました。
イギリスやフランス、スペインなどから渡ってきた漁民が暮らし始め、この地域の漁業権や領有権をめぐってはたびたびフランスとイギリスの間で衝突が起こりました。

ヨーロッパの漁師たちは金属製品と、現地でなめされたビーバーの毛皮を縫い合わせて作られたビーバーローブ(コート)を交換しました。
ヨーロッパの人たちは、ビーバーコートの暖かさに夢中になりました。

16世紀後半にはユグノーの帽子職人が毛皮をフェルトに加工し、ビーバーフェルト製の帽子がファッションとして人気が高まりました。
その後間もなくイングランドで帽子製造者が使うようになり、特にフランスから追放されたユグノー避難民がイングランドに移住してから、イギリスでもビーバー帽子が普及しました。


ビーバーフェルトの山高帽をかぶった男性たち


19世紀頃に、ビーバーフェルトからシルク製の山高帽に人気が移行しビーバー帽子の名残りは正統派ユダヤ人を名乗るグループに見られます。


毛皮貿易の先鞭をつけたヌーベル・フランス

季節的な沿岸交易から恒久的な内陸毛皮交易への移行は、1608年にフランスがケベックシティ(のちにヌーベルフランスとして拡大する)を建設した頃に始まります。

16世紀にフランス人が交易を始め、17世紀にはイングランド人がハドソン湾会社(HBC)を設立し、同じ時期にオランダがニューネーデルラント会社を始めた。19世紀に北アメリカの毛皮交易は、経済面で最も大きな頂点を迎えた。

1608年に国王アンリ4世は、サミュエル・ド・シャンプランとド・モン卿ピエール・デュグァに命じて、セントローレンス川の河口にこの地域初の恒久植民地であるケベックシティを建設しました。


サミュエル・ド・シャンプランはケベック植民地の基礎を築き
「ヌーヴェル・フランスの父」と呼ばれた

船乗りの家に生まれたシャンプランは、生涯に21回から29回の大西洋横断航海を行い 、熟練した地図製作者として直接の観察と先住民から提供された情報を組み合わせて、北米東海岸と五大湖地域の最初の正確な地図を作成した。

シャンプランはカナダの先住民族、インヌ族、アルゴンキン族、ウェンダット(ヒューロン)族と重要な同盟を築き、この関係はヌーベルフランスの存続と発展に不可欠となりました。

これらの部族は、イロコイ族との戦争にフランスの協力を求め、ソレルの戦い(1610年6月)でシャンプラン軍はイロコイ連邦国家のモホーク族に勝利しました。この戦いにより、20年にわたるモホーク族との大規模な敵対行為は終結しました。


ド・モン卿ピエール・デュグァ

ピエール・デュグァは、国王からヌーベルフランスにおける毛皮貿易の独占権を与えられたプロテスタント・カルヴァン派の貴族商人でした。

彼らは初めにセントクロワ島に植民地を築きましたが、厳しい冬の気候と壊血病に屈しました。植民地は1605年にポートロイヤルへと移転しました。

新しい場所を探している間、パノニアスという名の先住民の男性とその妻がガイドが同行していました。シャンプランは、両グループ間の言語がいつ変化し始めたかを記録しました。
この地域に住む先住民は農業も行っており、フランス人にとって新しい農法を知ることが出来ました。この地域はセントクロワ島よりもはるかに大きな希望を与えてくれると探検隊は考えたそうです。

1613年にイギリス軍に居住地が破壊されたことで、植民地の中心としての役割は終わりました。ポートロイヤル国定史跡として現存しています。



イギリスの毛皮貿易

2025年に倒産したイギリスのハドソン湾会社(HBC)は、1670年にハドソン湾に流れ込む全ての河川の流域での毛皮独占取引権を国王チャールズ2世より与えられました。

1680年代の始めまでには、ハドソン湾に流れ込む川の河口に交易所がいくつも建てられ、先住民は毛皮とヨーロッパで製造された商品を交換しました。

これはイギリスに限らずフランスやオランダも同じですが、先住民に渡される品々は、斧頭、ビーバーの捕獲に使う火薬のほか、銃、弾薬、ナイフほか、様々な種類と色の衣類、毛織りの毛布、リンネルのシャツ、薬罐、宝石、ガラス玉などが「生皮」と交換されました。
ラム酒やウイスキーと交換する習慣も広まり、酩酊状態やアルコール中毒といった問題も起きました。

毛皮貿易は、政治的利点も重要になった。貿易は異なる文化の間で提携を固め、良い関係を維持する方法だった。
北アメリカに赴く毛皮貿易業者は通常、社会的地位のある若い独身男性であり、結婚を外交的結びつきの手段として使い、先住民族との結婚、姻戚関係はよくある話だった。

HBCの毛皮がロンドンで販売される様子(1671年)


1672年、フランスがオランダ侵略戦争を始めると、ルイ14世ドーヴァーの密約を結んでいたチャールズ2世も参戦。第三次英蘭戦争が勃発しました。
しかし英国議会が同じプロテスタントのオランダとの戦争に反対し、資金提供を拒否したため、チャールズ2世は国債の返済を停止し(これにより130万ポンドの収入がありましたが)、ロンドン市の多くの商人が破産し国際貿易に不可欠な短期融資が途絶えました。

この戦争中、オランダが英領セントヘレナ島を占領し、イギリス東インド会社の船舶停泊および物資供給源を妨害しました。
また、1665年よりニューヨークと呼ばれていた、かつてのニューアムステルダムをイギリスから奪還しました。
この戦争はイギリスに不利に展開していったため、1674年にチャールズ2世はしぶしぶオランダと和睦しました。ウェストミンスター条約 (1674年)

この経緯から設立されたのが、イングランド銀行 (1694年設立)でした。
イングランド銀行は、出資者1268人中123人がユグノーでしたが、同行成立以前から、フォンテーヌブローの勅令(1685年)でフランスから流れたユグノー資本が英国債の売れ行きに貢献していました。

フォンテーヌブローの勅令後、フランスにとどまったユグノー系の銀行家もおり、ルイ14世は1694年と1709年の大飢饉に遭遇した彼らを頼ったそうです。離散したユグノーの家族は、アムステルダム、ロンドン、ハンブルク等に亡命していたので、そこから原資を募ることができたとみられています。


HBCはイングランド銀行 (1694年設立)の貸付を受けていました。
大同盟戦争(1688年 - 1697年)が北アメリカにも波及し(ウィリアム王戦争と呼ばれる)、ハドソン湾のHBCの交易所は絶えず攻撃されました。


大同盟戦争は、1685年にプファルツ選帝侯カール2世の死去に伴う相続をめぐって、相続権を主張するフランス王ルイ14世に対抗するためにオーストリア、スペイン、オランダ、スウェーデンなど欧州諸国がアウクスブルク同盟を結成して始まりました。
イギリスは、オランダ総督のウィレム3世が名誉革命後に国王ウィリアム3世として即位した後にアウクスブルク同盟に加わりました。

つまり、これは八十年戦争の別バージョン、カトリック対プロテスタントの戦争のスピンだと思います。
大同盟戦争に参加するための名誉革命だったかも?
名誉革命以降からイギリスはプロテスタントの立場を明確にし、カトリックのフランスと決別しようとしました。

ウィリアム3世


オランダの毛皮交易

ニューネーデルラント植民地は、八十年戦争の休戦中の1614年にアメリカ東海岸に建設されました。
1609年、ハドソン湾の由来となったヘンリー・ハドソン船長が率いるオランダ東インド会社のヨット「ハーフ・ムーン」号による探検航海の結果としてなされたものでした。

国際法によって領土の領有権主張は単に発見や地図を作ったということだけでなく、入植も必要とされた。
1624年5月、オランダはノーテン・アイラント、今日のガバナーズ島に30家族を上陸させ、国際法の要求を満たした。

ハドソン船長は、ハドソン川の探検で遭遇した多くの先住民族と、小規模な物々交換を行ないビーバーやカワウソの毛皮を得た帆報告しました。
オランダはこの航海をきっかけに、オランダ西インド会社(1620年設立)によって毛皮交易を始めてハドソン川流域の植民が行ない、ニューネーデルラントを建設しました。
1625年にはマンハッタン島にニューアムステルダム(後のニューヨーク)を建設しました。

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余談ですが、ハドソン船長は1610年にイギリスのヴァージニア会社とイギリス東インド会社の出資により4度目の航海を行ないましたが、乗組員が反乱をおこし、ハドソン船長と息子ジョン、乗組員のうち6人が小舟に置き去りにされ、そのまま消息不明となったと言われています。


1650年代のニューアムステルダム(現在のニューヨーク)


ここで出てくるのが、奴隷貿易の記事にも書いたオランダ系の「ヴァン・コートランド家」です。ニューヨークの市章には、コートランド家の紋章が取り入れられています。

オロフ・スティーベンス・ヴァン・コートランド大尉は、1637年にニューアムステルダムに到着しました。オランダ西インド会社で働き、市議会長や市議会議員として何期も務めました。
彼の子孫は政治に関与し、ヴァン・レンセラー家、スカイラー家、リビングストン家など、アメリカの最高の政治的および影響力のある家族と結婚しました。

ハドソン川からコネチカット州境まで広がる今日のウェストチェスター郡にある86,000エーカー(35,000ヘクタール)の土地は、1697年にウィリアム3世によってステファヌス・ヴァン・コートランド(オロフの子)に特許として付与されました。


問題はここからで・・・フランスは先住民のウェンダット(ヒューロン)族と交易を行なっていましたが、フランスの入植者を攻撃していたイロコイ族に武器を提供していたのが、オランダ西インド会社でした。

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イロコイ族の民族には、(東から西に)モホーク族、オナイダ族、オノンダガ族、カユガ族、セネカ族が含まれていました。
1722年以降、南東部のタスカローラ族が連合に受け入れられ、「シックスネーションズ」として知られるようになりました。


1624年にニューヨーク州アルバニーのレンセラーズウィック(後にオランダ西インド会社の取締役ヴァン・レンセラー家が所有)と呼ばれた土地に、オランダ西インド会社はフォートオレンジ(オレンジ砦)を建設しました。
1614年に建設したナッソー砦が洪水で流されたため、約1マイル北に新しく建設された砦でした。
どちらもオランダ貴族のオラニエ=ナッサウ家(イギリス国王ウィレム3世も同家の出身)にちなんで名付けられました。

オランダ人は、この砦を毛皮交易の拠点としていました。
イロコイ連邦部族モホーク族は、オランダ人の交易相手だったため、イロコイ連邦部族はフランス人貿易商に頼る必要がなく、モホーク族を介してヨーロッパ市場に直接アクセスできました。
1630年代までにイロコイ部族はオランダを通じてヨーロッパの武器で完全に武装していました。

1640年代初頭、イロコイ族がフランスとの交易を妨害するためにセントローレンス川沿いの辺境のウェンダット(ヒューロン)族の村を攻撃したことで、ビーバー戦争が本格的に始まりました。

ヌーベルフランスの総督シャルル・ド・モンマニーは、 1641年にイロコイ連邦国家のモホーク族との和平を拒否した。これは、同盟国(ヒューロン族)を見捨てることを意味するからである。


フランス植民地とイロコイ部族の確執

イロコイ族はハドソン川(ニューヨーク州)の西に住んでいました。
毛皮との交換で得た銃の導入がビーバーの乱獲につながり、1640年までにハドソン渓谷からビーバーがほとんど消えてしまいました。

イロコイ族はビーバーを求めてセントローレンス川沿いの地域に移りましたが、その地域はヒューロン族がフランス人と交易していた場所でした。

1648年、オランダはの仲介業者なしでモホーク族に400丁の銃を売りました。冬が始まると、イロコイ連邦はウェンダット(ヒューロン)族の領土に攻撃を開始し、いくつかの重要な村を破壊し、数百人を殺害、数千人を捕虜にしました。

生き残ったヒューロン族は散り散りになり、一部はケベックのイエズス会に避難し、別のイロコイ族であるペトゥン族またはタバコ族に加わってワイアンドット族となりました。


1650年代早く、イロコイ族はフランス人入植者への攻撃を始めました。
捕虜が女子供の場合は村に連れ帰り、風習により養子として部族の同胞に迎えました。
インディアンの襲撃は頻繁ではなかったものの、ヌーベルフランスの住民を恐怖に陥れました。

イロコイ族は同時に、五大湖地方への拡大も始めバージニア植民地からセントローレンス川まで拡がる広大な領域を支配しました。
結果としてイロコイ族は北東部の勢力地図を塗り替え、他の北東部部族はミシシッピ川のさらに西(グレートプレーンズ)まで押し出されました。


ウィリアム王戦争とフランスの反撃

第二次英蘭戦争(1665年 - 1667年)後のブレダの和約で、ニューアムステルダムを含むニューネーデルラントはイングランドに割譲されました。
チャールズ2世はこれを弟のヨーク公(後のジェームズ2世)に与えたので、ニューアムステルダムはニューヨークと改称された。これがニューヨークの起源である。

ジェームズ2世 (イングランド王)

1664年、オランダがニューネーデルラントの支配権をイギリスに奪われたため、イロコイ族に対する支援も弱まりました。
(のちにイロコイ族はイギリスと手を組みます)

1666年1月、フランス軍がイロコイ族の本拠に侵攻しました。侵攻そのものは失敗だったが、カナクイーズ酋長を捕虜にした。
9月、フランス軍はリシュリュー川を下ってイロコイ族領土への2度目の侵略を行った。イロコイ族の部隊を見つけられなかったフランス軍はトウモロコシなどの作物や家を焼いて本陣に戻った。フランス人によるこの焦土作戦によって、多くのイロコイ族がその年の冬、飢えで死んだ。

イギリス人入植者たちは、かつてオランダ領であったニューヨーク州北部に移り住み始め、イロコイ族と同盟を結びました。
イギリス人はオランダ人と同様にイロコイ族に銃を供給し始めました。

1683年、ヌーベルフランスの総督ルイ・ド・ブアードが西部の毛皮貿易を復活させようと試み、毛皮取引を独占しようとしたイロコイ族は再びフランスへの攻撃を開始しました。
この戦争は10年続き、初期のものように血なまぐさいものとなりました。

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そのうちにヨーロッパでは大同盟戦争が始まり、北米ではウィリアム王戦争(1689年 - 1697年)が開始されました。

ウィリアム王戦争では、イギリスもフランスも北アメリカの植民地に遠征軍を派遣する余裕が無く、植民地はそれぞれが独自の兵力で戦いました。

ニューイングランド王領(首都はマサチューセッツ湾植民地の首都ボストン)とイロコイ族は同盟を結び、ヌーベルフランスとアベナキ同盟を相手に戦いました。
イギリス人入植者がヌーベル・フランスとニューイングランドの間に位置するアカディアに入植地を拡張しようとしていたため、フランス側がそれを阻止しようとした戦争でした。

1688年時点における王領の範囲を示した地図(赤く示された部分)。
元の植民地名やその領域も記されている。

アベナキ同盟(ワベナキ、ウォバナキ、「夜明けの人々」または「東の人」と訳され、「夜明けの国」とも呼ばれる)は、北米の 先住民とネイティブアメリカンの連邦であり、5つの主要な東部アルゴンキン語族、アベナキ族、ミクマク族、ウォラストキイク族、パサマクォディ族(ペスコットマクアティ) 、ペノブスコット族で構成されています。

1581年頃、シャンプランがケベックシティを建設する前に、フランス人はアベナキ族と恒久的な貿易拠点を築いていました。

1500年当時、アベナキ族はニューファンドランド島に多く居住していました。1500年代を通して、アベナキ族は探検家や多くのヨーロッパ人漁師と遭遇し、捕らえられ奴隷にされる危険にさらされていました。
1534年頃、探検家ジャック・カルティエはセントローレンス湾を探検した際に、シャルール湾に住むミクマク族と交易を行ないました。

フランスとアベナキ同盟の協力関係は、シャンプランが先住民を理解しようと努力した賜物だと思います。



当初アカ​​ディアでは、フランス中西部出身者が中心となって入植していましたが、フランス系住民とワバナキ族の人々は同じ地域で独立しつつも同盟を組んだ政府をもって共存していました。
しかし、この地域はヌーベル・フランスとニューイングランドの間に位置するため、領有権は北米植民地の覇権を争う二国の間を度々行き来した。

ポートロワイヤルの戦い (1690年)とビーバ戦争の終結

ウィリアム王戦争中、アカディアの首都であるポートロイヤルはフランスの巡洋艦の安全な港として、またアベナキ同盟の補給地点として機能していました。

アベナキ連邦/同盟


ニューイングランド軍は、アカディアの首都であるポートロワイヤルを攻撃しました。アカディア総督は2日間の戦いの後に、条件付きの降伏をしました。
ニューイングランド軍は、自分たちのものとなった砦を破壊し、ポートロワイヤルの住民も教会に閉じ込められ、イギリス国王への忠誠を宣言させられました。

のちにニューヨークから軍艦がやってきて町はよりひどく破壊され、町や教会は略奪され、首都を内陸のより安全なナシュワーク砦(現在のニューブランズウィック州フレデリクトン)に移した。
ここは、1699年に、ポートロワイヤルが首都として修復されるまで、アカディアの中心地であった。

1698年になると、イロコイ族はイギリスの代理戦争の駒となっていることに気づき、この戦争を終わらせたいと考え始めました。

疫病の蔓延も相まって人口減少が進み、彼らの存亡は危ぶまれると同時にヨーロッパのファンションの流行が変化し(小氷河期を抜け、再び温暖になってきたせいもありそう。毛織物から綿織物に移ったことも)、毛皮価格が下落してイロコイ族の商業活動もほぼ消滅していました。
アメリカ毛皮会社と他の幾つかの会社は倒産し、多くのインディアンたちが長期にわたる窮乏生活に陥れられました。

1701年、モントリオールで31名のイロコイ族酋長達とフランス植民地政府およびイギリス植民地政府が署名した「偉大なる平和」(Grande Paix)の条約が締結され、五大湖地方の避難民は東部に戻ることを認められました。

のちにイロコイ族は、アメリカ独立戦争(1775年 - 1783年)に巻き込まれ、パリ講和条約(1783年)とスタンウィックス砦条約(1784年)によって独立した地位(主権性)をほぼ喪失しました。
長くなりましたので、詳しくは別の機会に。

今日はこのへんで。
最後までお読みくださりありがとうございました。

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