備忘録:17世紀‐18世紀の奴隷貿易は植民地経済の基盤を作った
大規模な奴隷輸出が行われた17世紀から19世紀にかけてのアフリカでは、アシャンティ王国(20世紀初めにイギリスに併合され、現在はガーナの一部)やダホメ王国(現在ペナン共和国)、オヨ王国(現ナイジェリアの一部)などが奴隷輸出によって繁栄していたそうです。
アフリカの奴隷は輸出された地域において主な使途に違いがあったが、大西洋交易で輸出された奴隷のほとんどはプランテーションにて農業奴隷として使用されました。
カリブ海諸島やブラジルでは主にサトウキビ農園で奴隷が使用され、北アメリカ植民地では当初はタバコ農園、19世紀の深南部では綿花農園で奴隷が大量に使役されました。
スペインのアシエント・デ・ネグロス(黒人協定)
スペイン帝国は直接的に奴隷貿易を行うことは稀で、代わりにポルトガルやジェノヴァ、後にはオランダ、フランス、イギリスなどの外国商人に委託していました。
アシエント(Asiento)とは、スペイン語で「契約」や「取り決め」を意味する。
16世紀から18世紀にかけてスペイン帝国は、外国人業者や国家に対して一定の特権や独占的権利を与え、その中でも「アシエント・デ・ネグロス(asiento de negros)」はアフリカからアメリカ大陸のスペイン領への黒人奴隷供給契約を指します。
スペイン継承戦争(1701–1714)で結ばれたユトレヒト条約(1713年)で、イギリスはアシエント・デ・ネグロスの独占権を得ました。
もともとアシエントの権利はフランスのブルボン家が保有しており、フランス商人が毎年5000人の奴隷をスペイン帝国に供給していたそうです。
1711年に設立されたイギリスの「南海会社(South Sea Company)」は、公債販売が主な業務でしたが、これにより奴隷貿易にも携わりました。
しかし、1718年には四カ国同盟戦争が始まったためスペインとの貿易は途絶し、1720年に南海泡沫事件が起きました。

投機バブル崩壊によって多くの破産者・自殺者を出した南海泡沫事件(1720年)でもっとも損害が大きかったのはフランスだったと言われています。
当時、王立造幣局長官を務めていたアイザック・ニュートンは南海会社の株で一時7,000ポンド儲けたものの、その後の暴落で結果として20,000ポンドの損害を被っている。
南海泡沫事件のあと、南海会社は黒人奴隷貿易などに事業をしぼって再建され、イギリスは大西洋三角貿易によって巨利を得ました。
アメリカ合衆国における奴隷貿易
アメリカ合衆国内の奴隷貿易の歴史は、おおまかに3つの時期があります。
①1776年から1808年
アメリカ独立宣言で始まり、1808年に連邦法でアフリカとカリブ海諸国からの奴隷の輸入が禁止されるまで。
②1808年からインディアン強制移住と長繊維綿繰り機の発明(1830年代)まで
③1830年代からアメリカ南北戦争まで
1750年代の北アメリカ
フレンチ・インディアン戦争(1754年 - 1763年)で、スペインはフロリダをイギリスに割譲して代わりにキューバを得ました。またフランスから敗戦の埋め合わせとしてニューオーリンズを含めたルイジアナを得ることができました。
フランスとイギリスはこの戦争でかなりの経費を使い、これが後に長期にわたる両国の財政危機の原因となりました。
イギリスは植民地に重課税をかけたためアメリカ独立戦争の原因となり、フランスではアメリカ独立戦争を支援したために国家破産しかかり、それがフランス革命につながりました。

ピンクと紫がイギリス領、青がフランス領、オレンジがスペイン領。
この戦争中にイギリスはフランス・スペインの植民地を次々と獲得し、北米大陸の大西洋沿岸をほぼ全て手中に収め13州の植民地を建設し、大英帝国の礎が出来あがりました。
13植民地は国王の特許状による自主的な運営がおこなわれ、政治的な自由が認められていましたが、経済は北部と南部では著しく異なっていました。

黄色が1762年のフォンテーヌブロー条約後にスペインが手に入れた領土。

北部代表のニューイングランド植民地はピューリタンが多く、豊富な水力や木材を利用した工業が発達し、農業の大規模経営は発展しませんでしたが奴隷がいなかったわけではありません。
マサチューセッツ湾植民地では1630年代から奴隷輸入が行われていました。
北部では都市部に奴隷が多く、家の使用人、職人、労働者、職人として働き、多くの男性奴隷が波止場や海運で働いていました。
バージニアやサウスカロライナなどの南部植民地では、プランテーション(大規模農業経営)が広まりました。
当初はスコットランドなどから白人の年季奉公人を使用していましたが、イギリスの産業革命のピークには(イギリスの求人が多くなったため)年季奉公人が減少し、労働力不足を補うためにアフリカ奴隷を輸入するようになりました。
プランターの多くはカトリック信仰が多かったと言われます。

ニューヨーク、ペンシルベニアなどの中部は小麦を中心とする農産物輸出が主でしたが、プランテーションは発達せず農業と商業を中心に発達しました。今からは信じられないですが、ニューヨークに小麦畑があったのです。
奴隷の所有率は、1703年にはニューヨーク市の世帯の42%以上でした。
独立以前のアメリカの奴隷商人はオランダ系
スコットランド生まれオランダ育ちのロバート・リビングストン・エルダー(1654年 - 1728年)が、一攫千金を夢見てアメリカへ移住したのは第三次英蘭戦争が終わった1674年でした。
1663年に父である牧師のジョン・リビングストン(カルヴァン派長老派教会)は、イングランド国教会により追放され一家でロッテルダムに亡命した。
ロバートはオランダ語を流暢に話せるようになり、後にニューヨークとニュージャージー(旧オランダ植民地ニューネーデルラントの一部)で活躍する上で大きな助けとなった。
ロバートにはジェームズという兄がおり、ジェームズの息子ロバートは1687年にニューヨークに移住し、叔父であるロバート・リビングストン・エルダーの仕事を手伝った。

ロバートはビジネススキルと語学力を活かし、1675年8月、オランダ植民地ニューネーデルランドの領地レンセラーズウィック(のちにヴァン・レンセラー家の所有となる荘園)の長官だったニコラス・ヴァン・レンセラーの秘書になりました。
ニコラスは改革派オランダ教会の聖職者でもありました。
ニコラス・ヴァン・レンセラーの父は、アムステルダム出身のオランダ人でダイヤモンド・真珠商人であり、オランダ西インド会社の創設者兼取締役でした。
オランダ西インド会社は、大西洋奴隷貿易において最大の密売会社でした。
ヴァン・レンセラー家は、現在のニューヨーク州として知られる地域で活躍したオランダ系の一族で、アメリカ合衆国の建国に重要な役割を果たし、ビジネス、政治、社会の指導者として活躍しました。
1678年にニコラス・ヴァン・レンセラーが亡くなり、翌年、ロバートはニコラスの未亡人であるアリダ・スカイラーと結婚しました。
彼女はフォート・オレンジの副長官フィリップ・ピーターズ・スカイラーの娘であり、彼女の兄弟ピーターは初代ニューヨーク市長(在任:1709年、1719年 - 1720年)となり、姉妹のゲルトルーイ(1654年生まれ)は、ニューヨーク市長のステファヌス・ファン・コートランドと結婚しました。

スカイラー家は、18世紀から19世紀にかけてニューヨークとニュージャージーで活躍したオランダ系の有力な一族であり、その子孫はアメリカ合衆国(特にニューヨーク市とニュージャージー州北部)の形成、政治、ビジネス、軍事の指導において重要な役割を果たしました。
スカイラー家は、セオドア・ルーズベルト、エレノア・ルーズベルトの先祖でもあります。
また、ベイヤード家、ブッシュ家、キーン家など、アメリカの多くの大名家に影響を与えました。イギリスの貴族の家系にもスカイラー家の子孫がいます(ゲージ家、ケネディ家(エイルザ侯爵)、バーティー家、フィッツロイ家など)。

ヴァン・コートランド家は、1637年にオランダ西インド会社のオロフ・スティーブンス・ファン・コートラントがアメリカに移住したことで始まりました。オロフは市長や市会議員を何度も務め、彼の子孫はイギリス植民地時代、そして州成立後、そして19世紀に至るまで影響力のある政治的一族でした。
ヴァン・コートランド家系図には、フィリップス家、ヴァン・レンセラー家、スカイラー家、リビングストン家、デ・ペイスター家、ゲージ家、ジェイ家およびデランシー家が含まれます。
「アメリカ合衆国建国の父」の一人ジョン・ジェイはオロフの孫にあたります。
コートランド家の紋章は、現在もニューヨーク市章に採用されています。

コートランドはコルトラント(自由人の土地)という意味。
リビングストン家、スカイラー家、コートランド家は、ハプスブルク家もびっくりの親族結婚です。
彼らの結婚によって現代にも影響を及ぼすオランダ系アメリカ人の巨大な人脈網が築かれました。
アメリカ北部は、カルヴァン派のオランダ系アメリカ人(ならびにアシュケナージユダヤ人)に現在も強い影響を受けています。
ロバート・リビングストン・エルダーの孫で、「建国の父」の一人フィリップ・リビングストンの母は、スカイラー家の娘でした。
彼の娘キャサリンは、ヴァン・レンセラー家の子孫と結婚し、もうひとりの娘サラは従兄弟と結婚しました。
ロバートの曾孫にあたるマーガレットは、オランダ系アメリカ人のピーター・スタイヴェサント(商人)と結婚しました。

スタイヴェサント家は、1647年からオランダ領ニューアムステルダム(現・ニューヨーク)総督を務めたピーター・スタイヴェサント(1612年-1672年8月)の子孫です。
1635年頃にオランダ西インド会社に入ったピーター・スタイヴェサントは、1642年から1644年までキュラソー島植民地(ベネズエラの北側)の管理医者でした。
1651年、キュラソー島に12人のユダヤ人が移り住み、1732年に西半球で最も古いシナゴーグを建てた。
スタイヴェサントは改革派オランダ教会の強力な信者であり、植民地内で信教の自由を認めていなかったため、影響力のあるクエーカー改宗者ロバート・ホッジソンの公開拷問を命じた。続いてクエーカー教徒を匿ったと分かった者は罰金と投獄で罰するという条令を作った。
これに抗議が起こり、アメリカ合衆国憲法に含まれる権利章典の信教の自由条項の先例になったと考えられている。
ロバートの曾孫マーガレットとピーター・スタイヴェサント(商人)の子孫は、婚姻により有名な大地主で投資家のアスター家(ドイツ系アメリカ人)と繋がっています。

1715年、イギリス国王ジョージ1世の治世中にロバートは勅許を得て、ハドソン川とマサチューセッツ州境の間に16万エーカー(6万5000ヘクタール)のリビングストン・マナー(荘園)を建設しました。
建国の父たちと動産奴隷制

「建国の父」は正確には55人いるそうですが、有名なのはやはりジョージ・ワシントン、ベンジャミン・フランクリン、ジョン・アダムズ、ロバート・モリス、トマス・ジェファーソンですね。(個人的にはベンジャミン・ラッシュが気になります)
植民地生まれのイギリス系アメリカ人が多いと思いきや、上述したオランダ系のコートランド家のジョン・ジェイ、フィリップ・リビングストンも含まれています。
また初代財務長官となったアレクサンダー・ハミルトンの妻は、スカイラー家の娘でした。
55名のうち何人かは無宗教だったが、カトリック信徒の3人を除いて他はプロテスタントでした。またほとんどがフリーメイソンだったそうです。
※時々誤解が見受けられますが、カトリックではフリーメイソンは破門されるので、厳密にはフリーメイソンにカトリック信徒はいません。
イエズス会がフリーメイソンというのは基本的には成立しません。

12名は奴隷所有者、ならびに奴隷労働者を所有するプランテーション所有者でした。
ジョージ・ワシントンの当選からエイブラハム・リンカーンの当選までの72年間で、そのうちの50年間は奴隷所有者が米国大統領に就任した。
元の憲法は奴隷を所有する権利を保持しており、奴隷を所有することは政治的な優位性を示しました。

ジョージ・ワシントンの一家は、バージニア州で黒人奴隷プランテーションを経営し、後には鉱山開発も手掛けた。
トーマス・ジェファーソンは奴隷制廃止論者でしたが、奴隷プランテーションを持っていました。ジェファーソンは大きな負債を抱えており、奴隷を担保にしていたので手放すことができなかった。
独立戦争中および独立直後、北部のほとんどの州で奴隷制度廃止法が可決され、奴隷制度廃止運動が展開されました。
アメリカ独立宣言は、当初の原文には大西洋奴隷貿易を批判し奴隷制反対を明らかにする文言が盛り込まれていたそうですが、建国の父達に奴隷制大農園主が多かったので、13植民地の分裂を防ぐため独立宣言の文章から奴隷解放の部分が削除されたと言われています。
動産奴隷制と5分の3の妥協
1776年の建国から1865年に廃止されるまで、主に南部ではアフリカ系アメリカ人を奴隷とする人身動産奴隷制という法的制度が広く行われており、奴隷は売買または譲渡可能な財産として扱われました。
奴隷制度は政治、経済、社会慣習のあらゆる側面に浸透していました。
コネチカット妥協とも呼ばれる「5分の3の妥協」は、アメリカ合衆国史において大妥協案とも言われます。
1787年の合衆国憲法起草会議で、新連邦政府における代表権をめぐってコネチカット代表のロジャー・シャーマン(建国の父のひとり)が提案した妥協案です。

1775年の第2回大陸会議において、ジョン・アダムズ、ベンジャミン・フランクリン、トーマス・ジェファーソン、ロバート・R・リビングストンと共に五人委員会を結成し、アメリカ合衆国独立宣言の原型を作った。フリーメイソンリーのメンバーでもあった。
この妥協案は、連邦議会を二院制とし、上院は各州から均等に、下院は州の人口に基づく比例代表制とするものでした。
つまり、問題は奴隷を州の総人口に含めるか否かということでした。
人口数によって、下院の議席数、各州に割り当てられる選挙人の数、各州が納める税金の額が決定されます。
奴隷保有州は、その州が選出して議会に送る下院議員の数を決定するために奴隷を全人口数に加えることを望み、自由州は奴隷には投票権がないとして奴隷保有州が奴隷を人口数に含めないことを望みました。
この問題を解決するために成立した妥協案では、各州の奴隷人口の5分の3をその州の総人口に数えることになりました。
実質的に下院において南部の州に北部の州よりも多くの権限を与えることになり、南部の議会においては奴隷保有者に同様に拡大された権限を与えることとなったのです。
その結果、南部諸州は南北戦争まで大統領、下院議長、最高裁判所に対してさらなる影響力を持つようになっていきました。
歴史家、法学者、政治学者の間では、5分の3妥協案が、奴隷は人口統計学的にだけでなく存在論的にも人間の5分の3と考えられていたという考えを支持するものとして解釈されるべきか、それとも5分の3は単に南部諸州が連邦議会に何人の代表者を送るかを決定するために使われた統計上の呼称に過ぎなかったのかという点で、根強く、時に激しい論争が繰り広げられている。
1807年イギリスは、本国とアフリカ・西インド諸島間で行われていた奴隷貿易を禁止したが、この時点では黒人奴隷制度そのものは否定されていませんでした。
翌年、アメリカも奴隷貿易を禁止、1814年にオランダ、1815年にはフランスが続きました。
欧米諸国で急速に奴隷貿易が禁止されたのは、人道主義的な反対運動だけではない、経済のしくみの変化が背景にありました。
19世紀初頭、ヨーロッパではかつての重商主義、重農主義の時代が終わり、産業革命の時代を迎えつつあった。
南北アメリカ植民地やアフリカとの関係でも、奴隷を労働力とするプランテーション経営や、アフリカからの奴隷供給をその一辺とする大西洋三角貿易で利益を得ていた時代から、第一次産品の供給地おおび製品の市場としての植民地が求められるようになる。
そうしたなかで、イギリス、オランダ、フランスが相次いで奴隷貿易を禁止する。<川田順造『アフリカ』地域からの世界史 朝日新聞社>。

ウィリアム・ウィルバーフォースは、イギリスの政治家で大西洋奴隷貿易廃止運動のリーダーでした。
英国国教会の福音派の支持者で、英国および海外での宣教活動を育成および支援し、教会宣教師協会(その後教会宣教協会に改名)の創設メンバーであり、ユダヤ人の間でキリスト教を促進するためのロンドン協会の初期の副会長でした。
1808年1月1日奴隷輸入禁止
奴隷制廃止は段階的でした。
大西洋奴隷貿易は、独立戦争中に個々の州で非合法化され始め、1808年に議会によって奴隷の輸入が禁止されました。
それにもかかわらず、密輸は一般的に行われていました。
「ペリー来航」のマシュー・ペリーは違法な密輸船の取り締まりをしていたそうです。
奴隷制は1865年に廃止されるまで米国の約半数の州で続きました。

奴隷州と自由州に分かれたアメリカは、奴隷制の問題をめぐってますます二極化しました。
1808年以降は、合衆国内で既存する奴隷の売買が行われました。
歴史家は、1790年から1860年の間に100万人の奴隷がメリーランド州、バージニア州、ケンタッキー州、ノースカロライナ州、テネシー州、ミズーリ州などのアッパーサウスから、ジョージア州、アラバマ州、ルイジアナ州、ミシシッピ州、アーカンソー州、テキサス州などのディープサウスの地域や州に売却されたと推定しています。

アフリカから南部諸州への輸入は1776年から続いており、そのほとんどはサウスカロライナ州チャールストンとジョージア州サバンナの港を通じて行われていました。
当時、奴隷商人は、ニガー・トレーダー(ニガー・トラダーと表記されることもある)と呼ばれていました。
1820年に密輸業者は捕まった場合の死刑を含む厳しい罰則の対象となりましたが、アメリカへの奴隷の密輸は南北戦争が始まる直前まで続きました。
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長くなりましたので、南北戦争直前までのアメリカの奴隷ビジネスについては次に譲ります。
ヨーロッパにおける奴隷貿易の開始によって海路ルートが、15世紀以前の陸路の貿易ルートにとって替わり(その影響でペストがヨーロッパと中東で大流行した)、大航海時代と呼ばれる(占星術的にはざっくりと「水の時代」)海外植民地建設が盛んに行われた時代を経て大西奴隷貿易(三角貿易)によってヨーロッパ諸国の植民地経済の基盤が築かれました。
産業革命が始まった19世紀から20世紀は「地の時代」。
奴隷貿易で利益を得たヨーロッパの大国では、経済のしくみが変わっていきました。
