20世紀のフランス・ルノー社(民営化前)の3人のCEO
1986年11月17日にフランスの自動車メーカールノーのCEOだったジョルジュ・ベッセ氏が暗殺されました。(3か月後に極左過激派の武装集団アクション・ダイレクトが犯行声明を送った)
アクション・ダイレクトは、ベッセ氏を暗殺した理由を「ルノー社のCEOとしての地位」と「大規模な人員削減の決定によって引き起こされた社会的損害」と主張しました。しかし、裁判ではアクション・ダイレクトのメンバーはいかなる責任も否定しました。
ジョルジュ・ベッセ

ジョルジュ・ベッセ氏は、1958年、ウラン濃縮会社USSI Ingénierieのゼネラルマネージャー、のちに通信システムのアルカテル・ルーセントの副マネージャーとなり、1973年、トリカスティン原子力発電所に ユーロディフ(欧州ガス拡散ウラン濃縮コンソーシアム)を設立し社長に就任。
1978年に核燃料製造、核燃料再処理などを行うCOGEMAの会長、1982年にPechiney-Ugine-Kulmann(ペチニー・ウジン・クールマン)の会長兼CEOに就任しました。

ペチニーは、アルミニウム製品の生産・開発会社で、アルミニウム産業のあらゆる側面で事業を展開しています。また電気分解技術で世界的に認知され、特殊パッケージングおよび航空宇宙用途のリーダーでした。
2003年にカナダのアルミニウム会社アルカンに買収される。
クールマンは、アンモニアを硝酸に変換する反応の特許を取得したフランスの化学者フレデリック・クールマンによって1825年に設立されました。彼は硫酸と過リン酸塩の工業生産で富を築きました。
1966年12月に、スイスのステンレス鋼の製造会社ウギテックと合併しました。
歴史家によると、ナチスドイツの絶滅収容所のガス室で使用されるジクロンBガスを生産したIGファルベンの子会社であるデゲシュは、ウギテック工場で生産していたと言われています。
ただし「ジクロンBは、チフス対策の害虫駆除剤」だったとする主張もあります。

ペチニー・ウジーヌ・クールマン(PUK)の創設は、当時のジョルジュ・ポンピドゥー大統領 (任期1969年 – 1974年)の「国民擁護者政策」の最大の成功の1つと考えられていましたが、10年後の1981年、PUKは破産危機に陥り、政府は1982年にUPKを国有化し、再編に資金を提供しました。
PUKは化学・特殊鋼事業を放棄し、グループの化学部門全体であるPCUK(Ugine Kuhlmann Chemicals)は、Atochemグループ(現在のアルケマ)に引き継がれました。
アルケマ(Arkema S.A.)は、特殊化学・先端材料分野を軸とする化学品の製造・販売を行うメーカー。
2004年10月、フランスに本拠を置く石油メジャーのトタル(現在のトタルエナジーズ)の化学品部門が分離する形で設立された。
世界50カ国以上で事業を展開しており、日本法人はアルケマ株式会社。このほか三菱ケミカルとの合弁によるアルケマ吉富株式会社がある。
1985年、ルノーのCEOに
ジョルジュ・ベッセ氏は、1985年にルノーの会長兼CEOに任命され、ペシニーのCEOはベルナール・パッシュ氏が引き継ぎました。
パッシュ氏は1967年にペチニーグループに加わり、最初は副所長として、次に原子力活動の責任者でした。
UPKでは原子力開発(核開発)が行われていたのかもしれませんね。
ルノーは、1985年1月に株式公開されました。
ジョルジュ・ベッセ氏は、銃撃されるわずか2か月前に赤字企業を黒字に転換させた功績を認められていました。肥大化した企業を効率化する彼の計画により、工場の閉鎖と21,000人の従業員の解雇が行われました。
労働組合は、ヨーロッパでの彼の行動や、財政的に健全ではなかったアメリカン・モーターズ(のちにクライスラー社に吸収合併された)など、米国におけるルノーの投資に対する彼の支持に反対しました。

ジョルジュ・ベッセ氏にちなんで名付けられたジョルジュ・ベッセ発電所(気体拡散ウラン濃縮工場)は、1979年から2012年までトリカスティン原子力発電所でCOGEMA(後のAREVA )によって運営され、その後ジョルジュ・ベッセ2世工場(遠心分離濃縮工場)に置き換えられました。
ジョルジュ・ベッセ2世工場では、フランス最大のフランス電力(EDF) を含む 40 の原子力発電会社にウランを供給しています。
***余談***
フランスの58の原子力発電所の使用済み燃料を再処理した劣化ウランは、ロシアに輸出されセヴェルスクに貯蔵されています。そこで濃縮され、新しい燃料はフランスに輸出されます。

寿命が尽きたらすべての原子炉を閉鎖する計画であるスイスやドイツとは異なり、フランス政府は原子力発電から撤退する計画はなく、2011年の福島メルトダウンから3か月後に原子力発電の予算増額を表明しました。
そのためEDFのウェブサイトは、2011年に6回、アノニマスのDDoS攻撃によってダウンしました。
シベリア化学コンビナート
1958年に世界ではじめての核兵器工場 (AES-1) が建設された。これらの工場群は、後にシベリア化学コンビナート (Siberian Chemical Combine、SCC) と呼ばれるようになった。
1953年から稼動している工場では、ウラン濃縮と転換やプルトニウム生産用原子炉の運転、そこから発生する使用済み核燃料の再処理などが行なわれている。
1993年4月6日、放射性物質を貯蔵していたタンクが爆発し、操業以来、最悪の事故となった。
ちなみにEDFの元取締役会長兼最高経営責任者(CEO)アンリ・プロリオ氏は、二コラ・サルコジ氏の大親友でサルコジ・カダフィ事件で懲役6年の判決を受けアレクサンドル・ジューリの「個人的な友人」です。
アンリ・プロリオ氏は、2010年までヴェオリアのCEOでした。
日本におけるヴェオリア
日本では、「ヴェオリア・ジャパン株式会社」(2002年設立)と「ヴェオリア・ジェネッツ株式会社」(1997年設立)の2法人がある。自治体向けの上水・下水処理施設の運転維持管理や水道管路の維持管理・漏水調査、各種産業向けの工場・商業施設の水処理設備向けのテクニカルサービス及び環境分析、再生可能エネルギー事業やプラスチックリサイクル事業を行っている。
水道民営化とヴェオリアが日本に与える影響と宮城県の実例を徹底解説 | 掃除プロの知恵袋

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ジョルジュ・ベッセ氏の別の暗殺理由として考えられているのは
フランス政府のイランへの軍事核兵器販売とイラクのサダム・フセイン(2006年12月30日に処刑される政権への関与です。
フランスはユーロディフ(ジョルジュ・ベッセが設立)のためにイランに3億3000万ドルを払い戻したが、濃縮ウランの引き渡しをを拒否したといわれています。.

1975年、フランスとイランの協定により、スウェーデンが保有していたユーロディフの株式10%がイランに譲渡されました。
フランス政府の子会社COGEMAとイラン政府は、それぞれ60%と40%の株式を保有するソフィディフ企業を設立。ソフィディフはユーロディフの株式25%を取得し、これを通じてイランはユーロディフの株式10%を取得しました。
1974年、イラン国王モハンマド・レザー・シャー・パフラヴィーは、生産量の10%を購入する権利を得るため、工場建設のために10億ドル(1977年にはさらに1億8000万ドル)を融資しました。
イランは現在もソフィディフを通じてユーロディフの株主であり、フランス・イラン連合の株主は依然としてユーロディフの株式25%を保有しています。

しかし、私はウラン濃縮に生涯をかけたジョルジュ・ベッセ氏が、ルノーのCEOに抜擢されたのを不思議に思っています。
レイモンド・レヴィ
ジョルジュ・ベッセ氏の後任、レイモンド・レヴィ氏は1987年から1992年まで、ルノーの会長兼CEO を務めました。

石油グループであるエルフ・ユニオン(Union Générale des Pétroles (UGP) の専務取締役(1972-1976年)、次いで会長(1976-1980年)を務め、
1975年から1980年までエルフ・フランスの会長兼CEO、1976年から1980年までエルフ・アキテーヌの副CEO を務めました。
1982年から1984年までは鉄鋼メーカーであるユシノールの会長、CEOを務めました。姓からわかるようにユダヤ人です。
1984年5月、ミッテラン政権で産業大臣だったローラン・ファビウス(アシュケナジムのユダヤ人)の首席補佐官であるルイ・シュバイツァー氏に呼び出され、ユシノールの会長職を解任されることを告げられたそうです。
その後、1985年にブリュッセルのベルギー鉄鋼グループ、コッカリル・サンブル(のちにユシノールと合併)に移り、会長兼マネージング・ディレクターに就任しました。
1986年12月ルノー社長ジョルジュ・ベッセ氏が暗殺された後、ジャック・シラク首相のもとで産業大臣となったアラン・マドランから 後任の指名を受けました。1986年といえばチェルノブイリ原発事故の年ですね。
レイモンド・レヴィ氏は、会社の財務安定化に注力しました。1987年春、アメリカン・モーターズをクライスラーに売却することでルノーのアメリカ事業に終止符を打ち、ジャスト・イン・タイム生産システムを導入し生産コストを削減しました。それによって1989年には再び黒字を計上したのです。
1989年、レイモンド・レヴィはルノーのエンジンサプライヤーとしてF1への復帰を実現させた。
ルノーF1チームは最初のシーズンに2回のグランプリ優勝を果たした後、1992年には初のドライバーズ・コンストラクターズ・ダブルタイトルを獲得し、その後ルノーのエンジンは競合他社を圧倒し、5度のコンストラクターズタイトル(1992年、1993年、1994年、1996年、1997年)を獲得した。
レイモン・レヴィ氏はルノーの事業拡大の必要性を認識し、ベルリンの壁崩壊直後にチェコスロバキアの自動車メーカーであるシュコダ・オートの買収を模索したが、交渉はフォルクスワーゲンに有利になったため、次にスウェーデンの自動車メーカーであるボルボ・カーズに目を向け、合併への道筋をつけました。
1992年に定年退職を迎えたレヴィ氏は、1984年にユジノールの会長職を解任を伝えた人物であるルイ・シュバイツァー氏にルノー会長の職を譲りました。
並行して1962年に主任鉱山技師、1978年に総技師に任命されたレヴィ氏は、1987年から1992年まで鉱山総評議会の副議長を務めていました。
1993年から2010年までラガルデールSCAの監査役会会長を務め、2010年以降は名誉会長になりました。

***余談***
ラガルデールは、これまたサルコジ氏に関係ある会社です。
書籍出版と旅行小売を柱に事業展開していますが、かつては兵器メーカーやエアバスの前身である航空防衛企業であるEADS、自動車事業など多岐に渡っていました。
2003年2月 - 自動車事業からの撤退を発表し、ルノーの全株式を売却。その後ルノー・アヴァンタイムの生産も中止している。
創始者の息子のアルノー・ラガルデール(1961-) は、サルコジ氏を兄のように慕っていると言われています。
サルコジ氏の大親友ヴァンサン・ボロレ(ヴィンセント・ボロレ)氏は、ラガルデールの株57%以上を所有するボロレ・グループのオーナーです。
ルイ・シュバイツァーとルノー民営化

ルイ・シュバイツァー氏は、 1992年から2005年までルノーの会長、COOを務め、2001年から2005年までルノー・日産アライアンス取締役会長を務めました。
ルイ・シュバイツァーは、1963年から1973年まで国際通貨基金(IMF)の専務理事を務めたピエール=ポール・シュバイツァーの息子である。
2012年6月8日までアストラゼネカの会長も務め(2004年3月11日に取締役に就任)、BNPパリバ銀行、フランス電力、ヴェオリア・エンバイロメント、ボルボAB、ロレアル の社外取締役、およびフィリップス・エレクトロニクスNVの監査役会副会長を務めている。
アストラゼネカの非執行会長としての役職では、年間100万ポンドの報酬を得ている。
1986年、ジョルジュ・ベッセ氏の尽力により、ルイ・シュバイツァー氏は、ルノーの経営管理部長に就任した。社会党内のコネも彼を支え、彼は急速に昇進しました。
1996年にルノーの民営化が準備される中、シュバイツァー氏は他のメーカーとの連携を強化し、ルノーに欠けていたグローバル展開を実現しました。
1990年、ルノーは韓国の小規模メーカーであるサムスン自動車を買収し、サムスン自動車はルノー・サムスン自動車となり、ルノーが80%の株式を保有することになりました。
しかし、レイモンド・レヴィ氏が合併への道筋をつけたルノーとボルボが合併契約は、1993年12月2日 にボルボが合併から撤退しました。
1994年7月18日 - ルノー民営化法案が成立し、ルノー国営会社(Régie Nationale des Usines Renault)がルノーに改称される。
1996年7月3日 - ルノーは完全に民営化され、フランス政府はその株式を52%から46%に減らした。
シュバイツァー氏は、カルロス・ゴーンを副社長に迎え入れ、コスト削減の指揮を執らせました。

カルロス・ゴーン・ビシャラはブラジル出身の実業家。
2004年に藍綬褒章を受章。ルノー、日産自動車、三菱自動車工業の株式の相互保有を含む戦略的パートナーシップを統括する「ルノー・日産・三菱アライアンス」の社長兼最高経営責任者(CEO)を務めていた。
金融商品取引法違反および特別背任の疑いで起訴されたのち、保釈中に関西国際空港から国外へ逃亡した事により、現在公判停止中となっている。
シュバイツァー氏は、他の日本メーカーとの競争に苦戦していた日産と接触を図り、株式交換と産業連携を組み合わせた緊密な協力の基礎となる合意を締結しました。1999年3月27日ルノー・日産・三菱アライアンスが正式に結成されました。
( ルノーが日産の株式36.8%を買収)
カルロス・ゴーンが日産のトップに就任しました。
ルノーのゴーンCEO、サルコジ大統領から「呼び出し」 | レスポンス(Response.jp)

ルイ・シュバイツァー氏の任期終了までに、典型的なフランス企業であった旧ルノーの変革は完了しました。
ルノーのフランス国内の従業員数は85,962人から42,953人へと大幅に減少したが、同時に同社は世界の自動車産業において大手多国籍企業となりました。
シュバイツァー氏は2005年にルノーの取締役会長に就任(任期:2009年)したが、これはほぼ名誉職であり、彼は年間90万ユーロの固定給と、取締役会長としての職務に伴う年間20万ユーロの固定手当を受け取り続けました。
起訴と有罪判決
1995年、ルイ・シュバイツァー氏は汚染血液スキャンダルで「毒物混入への共謀」の罪で起訴されました。
1970年代後半から1985年まで、汚染された血友病血液製剤は深刻な公衆衛生問題であった。これらの製品やその他の製品の汚染により、多数の血友病患者がHIVやC型肝炎に感染しました。
1981年、後にエイズとして知られることになる、免疫系の機能不全に関連する未知の感染症に対する懸念が高まっていました。米国では主に同性愛者の男性と静脈注射による薬物使用者に見られましたが、フランスではより多様な患者層が影響を受けていました。
フランスは1983年8月まで旧式の非加熱在庫を使い続けており、1985年に5人がエイズで死亡し、他に2人が感染したとして当時の保健大臣は有罪判決を受けました。2人の政府職員(1人はシュバイツァー氏)は懲役刑を受けています。
伝えられるところによると、3人の政治家は、競合するフランスの製品が市場で販売される準備ができるまで、米国製のエイズ検査キットの配布を遅らせていたそうです。
シュバイツァー氏は遅延の責任を問われたが、最終的に無罪になりました。
1995年にはエリゼ宮盗聴事件でも起訴されました。
2005年11月にこの事件で有罪となったが、執行猶予付きの判決を受けました。

エリゼ宮盗聴事件は、フランソワ・ミッテラン大統領(1996年死去)の最初の任期中の1983年から1986年にかけて行われた大規模な電話盗聴事件で、約2000人が盗聴されたそうです。
ミッテラン大統領は、エリゼ宮で盗聴システムを組織したことを否定したが、テロ対策を理由に盗聴を正当化したと言われています。
シュバイツァー氏は、作家のジャン=エデルン・ハリエ氏を盗聴した罪で有罪判決を受けました。
1998年、ベルギーの司法制度は、ヴィルヴォールドのルノー工場の閉鎖中にベルギーの労働法に違反したとして、彼に1000万ベルギーフラン(160万FF)の罰金を科しました。
***余談***
2025年7月22日、カルロス・ゴーン氏もオランダにあるルノーと日産自動車の企業連合統括会社で汚職などの罪で起訴されています。
共に訴えられているのが、フランスの現文化大臣ラシダ・ダティ氏です。

ダティ氏は、欧州議会議員時代の2010年から2012年にかけて弁護士報酬として90万ユーロをオランダの統括会社から受領したとみられ、これが違法なロビー活動への見返りとみられており、2019年にルノーの株主から告発されていました。
写真を見てびっくりしました。つい最近起きたルーブル宝石強盗事件に関してインタビューされていたのを見たばかりだったので・・・・。
ラシダ・ダティ氏もサルコジ氏に近い人物で、ラガルデール・グループで働いていたことがあり、前述のサルコジ氏の大親友アンリ・プロリオ氏の愛人と言われています。

ルーブル美術館の宝石強盗グループの2名が逮捕されたそうですが、長くなりましたので、詳しくは別の記事で。
ルーブル盗難事件、出国間際の空港などで2人を拘束…4人組が開館中に侵入し被害総額156億円(読売新聞オンライン) - Yahoo!ニュース
お読みくださりありがとうございました。
ではまた。
