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備忘録『我がアメリカのいとこ』③聖金曜日のリンカーン大統領の暗殺

リンカーン大統領が暗殺されたことは歴史の授業で学びましたが、「へー、そうなんだ」ぐらいの感想しかなく(皆さんもそうだと思います)、まさか何十年も経って暗殺者について調べることになるとは思いもしませんでした(苦笑)

リンカーンが暗殺された1865年4月14日(死亡は4月15日)は、キリスト教では聖金曜日でした。1865年は4月16日が復活祭(Easter)でした。

聖金曜日(英: Good Friday)とは、キリスト教用語で、過越の聖なる3日間の復活祭(日曜)の前の金曜日のこと。「受難日」、「受苦日」、「聖大金曜日(正教会)」とも呼ばれる。死から生へと移るキリストの過越の神秘を祝う3日間のうち、受難と死を記念する日。
聖金曜日は復活祭にあわせて移動するが、最も早い場合で3月20日、遅い場合だと4月23日になる。

復活祭は、基本的に「春分の日の後の最初の満月の次の日曜日」に祝われるため、年によって日付が変わる移動祝日です。

プロテスタントの教会でもこの日に特別な典礼を行っており、復活祭には「血しおしたたる」(O Sacred Head, Now Wounded)がよく歌われるそうです。


アンソニー・ヴァン・ダイク作「茨の冠をかぶったキリスト」(1620年)

この記事では、リンカーン大統領暗殺計画に関わった人物(暗殺者以外)について書いています。よかったらお付き合いください。

リンカーン誘拐計画の協力者

リンカーンを殺害したジョン・ウィルクス・ブース(以下ブースと記す)は、最初の計画ではリンカーンを誘拐し、その解放条件として捕虜収容所に抑留されている南軍捕虜の解放を強いるつもりでした。

6人の同志が集まり、その中のひとりジョン・サラット(John Surratt)の母メアリーが経営していた下宿屋が彼らのアジトでした。

ジョン・サラット

ジョン・サラットは、南軍シークレットサービスの伝令兼スパイでした。
司祭になるつもりでメリーランド州セントチャールズ大学の神学校で学んでいた彼は、1862年に父親が亡くなったため退学を余儀なくされ、スパイ活動に従事するようになりました。

母メアリーの下宿屋には、神学校時代のクラスメート、ルイス・ワイヒマンが住んでいました。

ジョン・サラットについては後述します。


サミュエル・マッド博士

1864年12月23日、リンカーン家の親戚でもあるサミュエル・マッド博士が、サラットをブースに紹介し、サラットはリンカーン誘拐に協力することになったと言われています。


サミュエル・マッド博士


南軍シークレットサービスは、当初、ブースをエージェントとして使ってリンカーンを誘拐して人質に取り、北軍に南北戦争を終わらせるよう圧力をかける計画を立てていた。この作戦の暗号は「Come retribution」(報復せよ)だった。

伝えられるところによると、元トランプ顧問のスティーブ・バノンは、ジャーナリストとの会話の中で、トランプ大統領の2024年の選挙演説を「報復せよ」の演説と呼んだ。
バノンはまた、同じジャーナリストに、エイブラハム・リンカーンに対する南軍シークレットサービスの陰謀に関する同名の本を読むように勧めた。

マッド博士は、メリーランド州チャールズ郡のローマカトリック教徒の家庭に生まれましたが、先祖を少し遡るとリンカーンの伯父モデルカイ・リンカーンの再婚相手メアリー・マッドが出てきます。

マッド博士がリンカーン大統領の親戚だったことは秘密なのか、ネット上ではそれに言及している記事は見かけません。



マッドは博士は、医師としての収入を補うため小規模なタバコ栽培者となり、5人の奴隷を使っていました。彼は「奴隷制は神によって定められたもの」と考えていたそうです。

アメリカ合衆国の奴隷制度の歴史

1861年に南北戦争が勃発すると、メリーランド州南部の奴隷制度とそれが支えていた経済は急速に崩壊し始め、特にメリーランド州が1864年に奴隷制度を廃止すると、マッド博士の事業に深刻な打撃を与えました。

その結果、マッド博士が農場を売却しようとしているときに、その土地に興味があると言って現れたのがブースでした。

マッド博士は、1867年の秋に刑務所内で黄熱病が流行した際に治療で蔓延をくい止めたとして、アンドリュー・ジョンソン大統領によって恩赦を受け、1869年に釈放されました。

マッド博士が収監されていたジェファーソン砦


マッド博士は、私がずっと調べているボルチモア男爵にちなんだメリーランド州ボルチモア市とも縁が深いですが、長くなるので今回は割愛します。


サミュエル・ブランド・アーノルド

サミュエル・ブランド・アーノルド

アーノルドは暗殺には関わっていませんでしたが、陰謀罪で有罪となり、サミュエル・マッド博士と同じく終身刑でジェファーソン砦に収監されました。1869年に恩赦を受けて釈放され、その後はひっそりと暮らし、1906年9月に亡くなりました。


マイケル・オラフレン・ジュニア

オラフレンはメリーランド州ボルチモアで生まれました。
ブースの家族は、オラフレン家の向かいに住んでいたため、彼らは古くからの友人でした。

マイケル・オラフレン・ジュニア


ブースは、リンカーンが1865年3月17日にワシントン郊外のキャンベル陸軍病院で上演される劇「静かな水は深い」の昼公演を観に行く予定を知り、大統領の馬車を待ち伏せする計画を立てましたが、リンカーンの予定が変更になり誘拐は失敗しました。

ブースの計画は全部で4つあり、この時は2つ目の失敗でした。
オラフレンは、アーノルド、マッド博士とともにドジェファーソン砦に収監され、そこで黄熱病にかかり亡くなりました。

「静かな水は深い」はラテン語由来のことわざで、穏やかな外見の裏に情熱的または繊細な本性が隠れているという意味でよく使われています。


エドモンド・スパングラー

エドモンド・スパングラー

当時、フォード劇場で働いていた大工兼舞台係。
スパングラーは、共謀罪で無罪とされた唯一の人物でしたが、ブースの逃亡を助けた罪では有罪となり、ジェファーソン砦に収監されました。

1850年代初頭、スパングラーはブース家の別荘チューダーホールの建設を手伝っており、当時まだ子供だったブースと出会いました。


メリーランド州ベルエアに現存するブース家の別荘
1973年に国家歴史登録財に登録されました。
横から観たチューダーホール

スパングラーは収監中にマッド博士と親しくなり、1869年の恩赦の後はメリーランド州のマッド博士の農場に住み、カトリックに改宗したそうです。


処刑されたメンバー

1865年7月7日に4人の絞首刑が執行されました。

デイヴィッド・エドガー・ヘロルド

デイヴィッド・エドガー・ヘロルド

彼の父は、20年以上ワシントン海軍工廠の海軍倉庫の主任事務員を務めていました。ヘロルドの家は裕福で、ワシントンD.C.のSE8番街にある大きなレンガ造りの家に住んでいたそうです。

1850年代後半、陸軍士官学校に通っていたときにジョン・サラットと知り合い、1864年12月、サラットからブースを紹介されました。

ヘロルドとブースは1865年4月26日に北軍兵士に捕らえられ、ヘロルドは降伏しましたが、ブースは武器を捨てることを拒否したため射殺されました。


ジョージ・アツェロット

ジョージ・アツェロット

プロイセンのザクセン州出身。1843年、8歳の時にアメリカに移住。
サラットからブースを紹介され、アンドリュー・ジョンソン副大統領 の暗殺を命じられたが、実行に踏み切れずにバーで酔いつぶれたため、暗殺はしていません。


メアリー・サラット(メアリー・エリザベス・ユージニア・ジェンキンス)
ジョン・サラットの母親。
共に処刑されたルイス・パウエルがメアリーの無実を訴えたが、判決は翻らず、アメリカ連邦政府による初めての女性の処刑だったと言われている。

メアリー・サラット

メアリー・サラットの下宿屋を借りていたルイス・ワイヒマンと、サラット家所有の酒場を借りていたジョン・M・ロイドも逮捕され、尋問された二人は、自由と引き換えにメアリーに不利な証言をしました。


ルイス・ソーントン・パウエル
1863年のゲティバーグの戦いで負傷し、その後、南軍シークレット・サービスに勤務。父はパプテスト派の牧師でした。
1865年1月下旬か2月上旬に、ボルチモアでブースと出会っています。

ルイス・パウエル


ブースの誘拐計画が2回失敗したため、南軍シークレットサービスはこの計画から手を引いたと言われています。
ブースは計画を暗殺に切り替え、パウエルにウィリアム・スワード国務長官殺害を命じました。

ブースの狙いはリンカーン大統領、スワード国務長官、副大統領アンドリュー・ジョンソンを暗殺することでワシントンを混乱させ、合衆国政府(北部連邦)の転覆を起こすことでした。

*****


ウィリアム・スワード暗殺未遂

1865年4月14日、ブースがリンカーンを暗殺したのと同じ時間に、パウエルはスワード邸に行き、医師の指示で来たと執事を欺いて邸内に入り込みました。

スワード長官は、4月5日に馬車から投げ出されて負傷し、ベッドから起き上がることができない状態でした。


ウィリアム・スワード

スワード国務長官は、反メイソン(反フリーメイソン)でした。
1826年に失踪したウィリアム・モーガンが、フリーメイソンの秘密をばらした本を出版しようとしたために殺害されたと言われており、フリーメイソンだったアンドリュー・ジャクソン大統領の民主党に対抗して、反メイソン党が設立されました。(党は1835年にはほぼ消滅)

アンドリュー・ジャクソンが大統領選挙に楽勝し、反対派の多くは民主党を倒すには統一戦線が必要だと考え、ホイッグ党が誕生しました。
スワードを含む多くの反メイソン派が喜んでホイッグ党に加わりました。
ホイッグ党は奴隷反対派を多数抱え、リンカーンも一時期はホイッグ党でした。

ホイッグ党旗


スワードの妻フランシス・ミラーは、奴隷制度廃止運動に深く関わっていました。1850年代、スワード家は自宅を「地下鉄道」の逃亡奴隷たちの隠れ家として開放していました。


スワード邸に乗り込んだパウエルは、制止する長男フレデリックに銃を向けましたが不発だったため銃で彼を殴り倒し、スワード長官の寝室に突入しました。パウエルは無抵抗のスワード長官を3回切りつけましたが、看護兵として勤務していたジョージ・ロビンソン軍曹と長官のもうひとりの息子オーガスタスがパウエルに飛びかかったため、長官は一命をとりとめました。


パウエルは逃亡しましたが、翌日、メアリー・サラットの家を訪ねたときに逮捕されました。


ジョン・ハリソン・サラット

ところで度々名前が出て来るサラットは、リンカーンの暗殺には直接は関わっていませんでしたが、ブースの陰謀に重要な役割をしました。

ネットで辿れるサラット家の祖は、ジャック・サロという16世紀のフランス人です。

サラット家のルーツは、フランス北東部のマルヌ県のアヴィゼにありました。ぶどう栽培が盛んな地域です。
ジャックの孫ジョセフ・サラット・シニアが1634年3月にメリーランド州に移住しました。



なぜフランスの植民地ヌーベルフランス(カナダ)ではなくて、イギリス植民地のメリーランドに行ったのかが不思議なのですが、(メリーランド植民地の勅許が下りたのが1632年)、ジョセフ・サラット・シニアはメリーランドの最初の入植者の一人だったことがわかっています。



私の想像では、ジョセフがメリーランドに行ったのはイエズス会が絡んでいる気がします。


父:ジョン・ハリソン・サラット1世

ジョン・サラットの父、ジョン・ハリソン・サラット1世は1813年頃に生まれとみられていますが、父親が早く亡くなり、その後家族が離散し、末子だった彼は孤児になっていました。
7人の兄弟のうちで彼だけが取り残されていたそうですが、なぜそうなったのかは研究者の間でも謎のままです。

この時期は米英戦争がありましたが、黄熱病の流行もありました。


1793年8月、フィラデルフィアで5000人が死亡する黄熱病の大流行がありました。9月末までに2万人が市内から避難しましたが、感染を恐れて受け入れを拒否した都市が多く、受け入れたのはニュージャージー州ウッドベリーとスプリングフィールド。ペンシルベニア州チェスターとメリーランド州エルクトンなどでした。
その後、1794年のボルチモア、1795年と1798年のニューヨーク、1798年のウィルミントンとボストンを皮切りに、他の主要な港でも伝染病が流行しました。

ジョン・ハリソン・サラット1世は、ワシントンD.C.の裕福な事業家リチャード・ニールとサラ・ニールの養子になりました。
おそらく親戚だったと見られています。

二ール家はアイルランドの出身で、親族の多くがイエズス会の司祭になっています。フィラデルフィアの黄熱病流行で親を亡くした子供たちのため孤児院を創設したのもニール家でした。


母:メアリー・エリザベス・ユージニア・ジェンキンス

ジョン・ハリソン・1世とメアリーが結婚したのは1840年8月。
当初、夫婦はニール家が所有するワシントンの家で生活しました。

メアリー・エリザベス・ユージニア・ジェンキンスは、イギリス・ウェールズにルーツがあります。
父はプロテスタント、母は聖公会の信徒でしたが、メアリーは、若い頃にカトリックに改宗し、生涯カトリックの信仰を貫きました。


1853年、ジョン・ハリソン・1世はプリンスジョージズ郡に287エーカーの農地を購入し、タバコ栽培を始め、居酒屋と郵便局を建て郵便局長として働きました。
ジョン・ハリソン・1世は居酒屋に加えてホテルを建設し、それをサラットホテルと名付けました。次の数年間で、雑貨店、鍛冶場、製粉所、馬車店を買収、または建設したそうです。

彼らは6人の奴隷を所有していました。


サラットハウス博物館
サラットハウスは、1973年に国家歴史登録財に登録されました。


しかし、1862年8月25日突然ジョン・ハリソン1世が亡くなり、メアリーは夫が残した財産と負債を管理しなければならなくなりました。
南北戦争も始まったため、彼女と子どもたちの生活は混乱の一途でした。

メアリーは、ジョン・ロイドという元警官に居酒屋と農場を貸し、1864年10月に家族がワシントン市のHストリート541番地に所有していたタウンハウスに引っ越し、そこで下宿屋を経営しました。


ワシントンDCに現存するメアリー・サラットのアパート
2009年8月11日にアメリカ合衆国国家歴史登録財に登録された。

2011年4月、ロバート・レッドフォード監督による映画「共謀者」の公開により、この家は注目を集めました。
2024年現在、商業スペースはレストランとして使用されており、カラオケルームを利用できます。


ジョン・サラットはヨーロッパに逃げていた

ところで、当のジョン・サラット(ジョン・ハリソン・サラット・ジュニア)は、リンカーンが暗殺された時、ニューヨークにいたそうですが、すぐにカナダ東部のモントリオールに逃亡しました。

連邦政府関係者は、ジョン・サラットの逮捕に25,000ドルの報奨金(現在の300,000ドルに相当)をかけたそうです。

ジョン・ハリソン・サラット・ジュニア


ジョン・サラットは、カナダからイギリスに亡命し、さらにイタリアに逃げました。ジョン・ワトソンというイギリス人ぽい偽名で、教皇軍(ズアーブ)に入隊したそうです。

教皇ズアーヴ(Zuavi Pontifici)は、教皇領の防衛に専念する歩兵大隊、後に連隊となった。

当時イギリスは、イタリアやフランスの政治犯の亡命を受け入れていましたが、逆の場合は難しいのではないかと思うのですがどうなんでしょうね?
協力した者がいたと思うのですが、名前は出て来ませんでした。
サラット家とイエズス会の繋がりが関係してるのかな。

その後まもなくサラットは、旧知のアンリ・ボーモント・ド・サント・マリーに発見され捕らえられますが、サラットは刑務所の窓から脱走し、ジュゼッペ・ガリバルディのグループに匿われて生活していたそうです。

ジュゼッペ・ガリバルディは、リンカーンが北軍の司令官に加わるよう依頼した人物でした。ガリバルディは「奴隷の即時解放」を条件に了承しましたが、開戦初期の時点で北部も奴隷解放に慎重な姿勢を取ったため、リンカーンはガリバルディの招聘を断念したと言われています。


サラットは、エジプトに逃れようとしていたところを捕まり、1867年にワシントンDCの民間裁判所で裁判にかけられましたが、罪状の大部分で時効が成立していたため無罪となり、二度と裁判にかけられることはありませんでした。
(このときの裁判員にはイエズス会のメンバーが多かったそうです)

彼は後に、フランシス・スコット・キーの従兄弟のメアリー・ビクトリーン・ハンターと結婚しました。
ボルチモア蒸気パケット会社 (Baltimore Steam Packet Company) で働き、最終的には会社の財務担当になったそうです。

サラットは1916年に72歳で肺炎で亡くなり、リンカーンの陰謀者として最後に生き残った人物と記憶されています。


ジョン・ウィルクス・ブースの話まで書こうと思っていましたが、長くなりましたのでまた次回に送ります。

『ナショナル・トレジャー 秘密の書』は、リンカーン大統領暗殺事件の犯人ジョン・ウィルクス・ブースの日記の失われた18ページを解読するというストーリーです。

予告編だけではさっぱりわかりませんが(苦笑)


では、また近いうちに。
お読みくださりありがとうございました。

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