BRICS前のブラジル|移住前に現実を知った|ドタバタ車旅
この記事に興味を持って頂き、ありがとうございます。この車旅はBRICSが始動する前のブラジルの話なので、同じ道を旅してもガラリと印象は変わっているのではないかと思います。でも、もしかして同じだったら悲しいかな。
結構長いので、お時間のある時に暇つぶしにどうぞ。
登場人物の紹介
ブラジル人のパートナー:サンフランシスコに出稼ぎに来ていたブラジル人。通っていた美容学校友人の紹介で知り合って結婚してしまった。
パートナーの弟:彼と一緒にサンフランシスコで出稼ぎをしていた。ちょっと見カッコ良く調子も良いのでモテるがワガママ。
義父さん:70代で超元気。趣味は週一で通う老人向けナイトクラブで踊ること。義母さんはパートナーが二十歳の時になくなっており、それ以来独り身だがいつも彼女がいる。息子二人、娘二人、養女一人。教育の大切さを自分の経験上知っていて子供全員に大学に行って欲しかったが娘二人だけが従って良い職に就いている。
義姉家族:パートナーの一歳年上の姉は大学を出た後、私立高校の数学教師をしている。旦那さんは一回り違う年上で国家公務員エリート。ブラジル的には中の上的生活をしている。小学校に上がった息子と生まれたばかりの赤ちゃんがおり義姉はとにかく長女として面倒見がいい。欠点は数学教師なのに後先考えず生活費を使い、いつも金欠。
友人:大きな牧場の跡取り息子。金持ちヅラをするがせこい。全てが親掛かり。モデル並みに美人で頭のいい婚約者がいるのに一向に籍を入れず、隙アラバ浮気してる。
序章
当時、ブラジル人のパートナーとサンフランシスコに住んでいたわたしが初めてブラジルを訪問したのは2000年の暮れだった。
ガイドブックでいろいろとブラジルの事を調べてはいたけれど、当時の日本ではあんまり詳しいブラジルのガイドブックもなく、わたし達の住んでいたサンフランシスコからは直行便もなく、11月の終わり頃でなかなかチケットも取れず、やっと取れたのは
サンフランシスコ ~ ヒューストン ~ サンパウロ ~ ブラジリア ~ ゴイアニア
という乗り継ぎ乗り継ぎの最悪のコースと飛行機の遅延で、永遠に辿りつけないのではないかと思った彼の実家があるゴイアニアの飛行場で花束を持って迎えに来てくれた彼の家族にどうにか搾り出すように一度微笑んでから、一切話す事も笑う事もできないくらいボロボロに疲れていた。
そして、飛行場から車で30分ほどの彼のお父さんの家に到着するなり深い眠りにつき、目が覚めると彼の家族はみんな帰った後だった。
わたしにとって、全てが未知の世界だったブラジルだったから、
「ブラジルではこうなんだ」
という彼の言葉を鵜呑みにしつつ約2ヶ月間のブラジル滞在をエンジョイ?したのだけれど、彼の「ブラジルはこうなんだ」というのは、今思うと、はっきりいって全然「嘘」だったことものちのち発覚して、それ以降彼の言う
「ブラジルでは~」
は、99%信用せずに聞く事にしたものだ。
そして、滞在中に最も最悪の彼が言った「ブラジルの常識」に
「2千キロくらい車で旅行するのは、ブラジルでは普通」
というのがあった。。。それが、
「ゴイアニア~フォタレザまでの車での旅」
であった。実際は、フォタレザ経由で義理のお父さんの故郷のナタルまで行ったのでその距離は片道2,800km、日本で例えるなら北海道の稚内から鹿児島中心部までという距離だ。


どうしてフォタレザに行くことになったかというと、義父の実家がフォタレザから田舎に入ったナタルという所にあって、義父の夢は、実家近くの海岸に別荘を建てる事でその夢を実現したからだった。
別荘と言っても豪奢なものでなく、「海の家」というのがいかにも似つかわしい3DKの平屋なのだが、元々貧しい牧場出身の義父からしてみれば、上等な別荘だった。当時建ったばかりのその「海の家」を訪問するのはわたし達のブラジル訪問のプランの一つとなっていた。
車でひたすら走り続けて2日半かかると聞いて、飛行機でいけないのかと質問するわたしに、彼は
「これくらいの距離ブラジルでは車で行くのが普通なんだ」
と説明して、ゆくゆくブラジル生活に慣れなくてはいけないわたしとして従わざるを得なかった。

いざ、フォタレザ向けて出発
日本では荘厳としたムードで向かえるお正月。
ゴイアニアでは新年のショボイ花火が上がるだけで、特別何もイベントはない。そして、お金持ちはその時期、ビーチで長期の滞在を楽しむのだ。
お金持ちでなくても、それなりにビーチとか川に向かう人が多い。
そして、わたし達は義父の自慢の「海の家」へと出掛ける事になった。70代なのに義父はもう何度も彼女と二人で車で往復していた(恐るべし体力)
結局今回は、お義父さんのセダンの車にわたしと彼、彼の弟、義父、義父の彼女の5名が同乗する事になった。そして、その時点ですっかり憂鬱になったわたし。。。
というのも、往復5,000キロ以上ものドライブ(これもドライブと言うのだろう)に大の大人5人で行くのだ。しかも、みんなそこそこデカイ。特別太っているわけではないが、やはり後部座席に3人の大人が、しかも骨格のデカイ大人が座るとキュウキュウになる。
わたしは兄妹二人なので後部座席に2人以上乗って旅行という経験がなかった。大人になってスキーとかに行く時でも車には4名以上乗ったためしのない贅沢者だったのだ。。。
けれど、ここで駄々をこねてもしかたがなかったので、取り敢えず車に乗りこんだ。
結局、彼が運転、弟が助手席、義父の彼女、義父、わたしの並びで後部座席に座った。後部座席の3人は各自遠慮がちに小さくなろうと努力していたが、努力して小さくなれるわけもないので、やっぱりキュウキュウは免れなかった。。。
少しでも早く現地に着けるようにと、朝の4時には起き出して暗い内からゴイアニアを後にした。
そして、ひたすらただただ車は走っていく。
日本での常識で「長時間運転の場合2時間毎に休憩をいれよう」というのがあるが、こんな事はお構いなしである。出発して一度朝食代りにコーヒーを飲んだが、ほんの10分くらいですぐに車に戻った。そして、ランチに2時くらいに道沿いの寂れたレストランに入って、また永遠にドライブは続く。道路は雨季の大雨で所所大きな穴が開いていて、ぼんやり運転していたら、穴にはまって車がダメージを受けるからスピードもあんまり出せない。
道路の悪さはその州の貧しさに比例している。ゴイアニア界隈は首都のブラジリアがあることもあって雨季にできた穴はたいてい乾季の内に舗装される。ところが、貧しい北に行けば行くほど道路はガタガタ最悪である。穴に落ち込んだらパンクしそうだ。
まだスマホもカーナビも普及していなかった2000年、その上、ブラジルの田舎は標識が皆無に近い。途中で小さな町に入っては、道行く人に方向を確認する必要があった。
この長時間ドライブで唯一の贅沢は、エアコンがついているという事ぐらいだった。もしも、エアコンもついてなかったら。。。切れてたかもしれない。。。
というのも、ブラジルの1月は真夏に当たり、突き刺すような日差しがスモークをかけた車の窓からも容赦なく襲いかかっていた。
予定では、夜は物騒だからなるべく早く少しまともなホテルを探してゆっくりとしようということになっていた。
ところが、思っていた通り、7時になっても8時になっても車は走り続ける。そして、すっかり日が暮れて、もうやばいのではないかという10時頃になってホテルを探し始めるが、小奇麗なホテルは満室状態だった。土地鑑のない町の中で人に聞きながらホテルを探しに探してやっと見つかったのは、ひとりの宿泊料がR$15(当時の為替で約800円)というトイレとシャワーが共通の寂れた佇まいだった。。。
安宿がもたらした悲劇
みすぼらしいドアが廊下を挟んで左右にずらりと並んでいるが、ドアとドアの間隔を見れば、ホテルの部屋がどれくらい狭いか簡単に想像できた。
今夜はここに2部屋を取って、義父と彼女、彼とわたしと弟で眠ることになった。恐る恐るドアを開くと、4畳半くらいの室内にびっくりするくらい小さなベッド?ベンチ?が3個並んでいた。ベッドから落ちないようにとの配慮か、全てのベッドは壁際にくっついていた。部屋の一番奥に小さな洗面台が一つかろうじてあったが、想像した通りのお粗末な部屋だった。
彼の弟が「うわぁ~ 怪しい部屋~!」と奇声を上げながら中に入っていく。それに続いてわたしも部屋の中へ一歩踏み入れた瞬間に
「パチパチパチッ!」
と一瞬目に変な痛みが走った。
変なムシがいるのかもしれないと、持参したアースマットみたいなのをコンセントにはめこんで、どう考えても共同のシャワー室を使う気にもなれないので、部屋にある小さな洗面台で歯を磨いて顔を洗って寝る事にした。
一応、シーツも枕カバーもきれいなものを付けてあるとは思ったが、念のために顔の当たる枕の上に持参のタオルを引いて眠る事にした。次の日の朝も早いのだ。
夢の中で、顔が痒くてしょうがなかった。。。
そして、それは夢ではなかった。。。
朝起きて鏡を見ると、そこには片方の瞼が「お岩さん」のように膨れ上がって、上唇だけ「オバQ」になっているわたしがいた。。。
そして、その腫れ上がった部分は、今にも破裂しそうなくらいパンパンに膨れ上がってジンジンと痛い上に痒みを伴っていた。。。
そんな顔を誰にも見られたくなくって、頭からタオルをかぶって俯きながら準備をするわたし。見せてみろという彼にも、あまりに醜い顔を見せたくなくって知らん振りしていた。頑なに下を向くわたしに彼も飽きれて「勝手にしろ」とつき放した。
もう、全てが嫌になって、言葉も出て来ない。車の中でもひたすら沈黙のわたし。
ホテルには朝食はついていなかったから、出発してしばらくしてからコーヒーの飲める所に車を止めて、みんな朝食を取りに行く。
「一緒に行こう」と彼がしつこくわたしの手を引くが、とても知らない人にこんな顔をさらし出したくなくって「行かない!」と車から一歩も出ないわたしに、
「いいから、行くんだ!」
と強引に彼がわたしの手を強く引っ張った瞬間、頭からかけていたタオルがはらりと落ちて、彼が一瞬固まった。。。
「唇だけかと思ってた。。。目も腫れてたの。。。可哀想に。。。」
彼のやさしい言葉に、一瞬涙が出そうになった。
「冷たいミルクを飲むといいよ」
という彼の言葉に従ってお店に向かった。
ところが、朝食を済まして車に戻ろうした時、彼が思いっきり蹴躓いた!
どうやら長時間のドライブでブレーキとアクセルを交互に踏み続けて足首がかなり疲れていたらしく、蹴躓いた拍子に足首をひどくひねってしまい、一瞬立てないくらいに痛かったようだった。当時のブラジルでオートマ車を持っているのはお金持ちだけだったのだ。
そして、到底運転を続けられる状態ではなかったので、弟と運転を交代した。
すっかりブロークンなカップルとなってしまったわたし達だった。。。
2,800キロを2日で制覇
早朝にはどうしたものかと思うほどに腫れ上がっていたわたしの顔だったけれど、冷たいミルクがよかったのか、午後には他人が見てもビックリ仰天する程ではなくなった。それとは逆に、彼の足首はパンパンに腫れ上がり、歩くのもやっととなっていた。
弟は運転したくなかったのか終始不機嫌で車内の空気は重々としていた。
二日目の夜にはフォタレザに到着できるように、夜が明ける前にゴイアニアを出たけれど、実際にフォタレザに入った時には夜の10時を回っていた。ただでさえ標識のないブラジルで真っ暗な道だから何度も訪問している義父もすっかりお手上げ状態になっていた。
誰かに聞こうにもほとんど人通りがなく、同じような道をぐるぐる回りながらどうにかこうにか義父の「海の家」に到着した時は深夜の0時を回っていた。
真っ暗な平屋の家にわたし達が到着するとぱっと灯りが灯った。
誰だろうと思っていると、中からゴイアニアでわたし達を送り出した彼の姉家族がそこにいた。
彼らは飛行機で来ていたのだ。
後から聞いた話によると、彼と弟が姉家族にチケット代をプレゼントしたのだとか。そして、ほとほと疲れきったわたし達に、姉は
「車でなんてほんとにご苦労様」
みたいな事をいった。そして、この瞬間にやっぱりブラジル人にとっても往復5千キロものドライブは普通でないと悟ったわたしだった。。。
車から降り立つと、足もとのサラサラの砂が海岸がすぐ近くにあることを思わせた。
お義父さんが誇らしげに「海の家」を案内してくれたのだが、わたしは車でグルグルグルグルノロノロ運転したせいか、かなり気分が悪くなっていたし、彼は誰かにつかまらないとほとんど歩けないほどの足首の痛みで義父の話にほどほどしか付き合えず悪いと思ったが、そのまますぐにベットにもぐりこんだ。
Morro Branco(白い山)とブラジルのトイレ事情
目を覚ますと、ゴイアニアとは違った爽やかな空気を感じた。
あいにく薄曇りの空模様だったが、散歩するには丁度良く、彼はまだ足を引きずっていたけれど、昨日よりも足の腫れは多少引いていてほっとした。
義父の「海の家」から海岸までは1キロくらいの距離があるらしかったが、まだ涼やかな朝だったので海岸を少し散歩しようということになり、義姉の旦那さんとわたしと彼の三人で海岸まで車で行くことになった。
この辺の海岸は、自然が作り上げた小さな峡谷が白いことから「Morro Branco(白い山)」という呼び名がついており、まだまだ観光化されてはいなかったが、小さなホテルが数軒あったり、露天が出ていたりして観光客もそれなりにいた。
観光客達はいくらかのお金を払って「Morro Branco」ツアーに出掛けていたので、わたし達もそれに続いた。

ツアーは渓谷の上の方から始まって、少しずつ下へ下へと下って行くというもので、ほんの30分ほどで出口に出たが、目の前にはブラジルの真っ青な空と海、真っ白な砂浜が大きく広がっていた。何よりもまだ観光化の進んでいない海岸だから人はまばらで、その美しさをより誇示していた。
海岸線を散歩しながら車を停めた辺りに到着した頃には朝曇りはすっかり吹き飛んで雲一つない真っ青な空が広がっていた。
散歩している間は回りの景色に見とれていて忘れていたが、この強い日差しの中で背中を露にした洋服で日焼け止めクリームを塗っていないことに気づいた。以前、日本の海岸で焼けど状態になったことがあるからそれ以来、海でもプールも完璧に日焼け止めを用意するわたしだったけれど、雲っていたことからつい油断してしまったのだ。
既に肩は赤くなってヒリヒリしていたが、日差しが出てからほんの20分くらいだったからなんとか大丈夫だろうと急いで家に戻ってビーチに出る準備をして出直すことにした。
そして、家に戻るとなんだか騒ぎが起こっていた。
どうやら「トイレ」が詰まったようだった。
全くブラジルの工事はいい加減そうだなぁと思っていると、義父が息子であるわたしのパートナーに何か尋ねていて、わたしの名前が出たのを聞きつけ、直感で義父がわたしを疑っている事を察知した。
ブラジル旅行を考えている人は必ず覚えておいた方がいい情報だが、ブラジルのトイレは配管が細いのでトイレットペーパーを流せない。ただ、観光客の多いサンパウロや空港では多分配管が太いのか流してもあんまり詰まらないようだが、基本的には使用後のトイレットペーパーは汚物入れに捨てることになっている。ウォシュレットで甘やかされている日本人にとってブラジルのトイレはなかなかの苦行だ。で、父はトイレットペーパーを流す習慣のある外国人のわたしを疑っているようだった。
モチロン、わたしは流していない。。。心の中で
「あんた達のうん○がデカ過ぎるから詰まったのよ!フン!」
と思いつつ、小声でペーパーを流してないか聞いてくる彼にはっきりと
「ノー!」
と言い切るわたしだった。
そして、海岸へ出掛ける途中でもよおして来たわたしは、止む無く草むらで用を足す羽目になったのであった。。。観光化されていないと、こういう所に不便が出てきてしまう。。。でも、トイレがあったとしてもきっと汚いから草むらの方がマシかもしれない。息を止め、目を曇らせながら用を足すか、誰かに見られないか、そして、変な虫やらがお尻を攻撃してこないか、どちらにしてもヒヤヒヤしながら用を足すのには変わりないか。
数歩離れた草の中には、人間様の立派なブツが既に横たわっていた。。。なんで人間様のものと分かったかというと、ブツの横にトイレットペーパーが落ちていたからだった。。。
浅瀬で溺れるのってこういうこと?!
ブラジル独特のヒモに葉っぱを付けたようなマイクロちっちゃいビキニ(現在はそこまで小さくなくなっていると思うけれど水着といえばビキニというのがブラジルの常識)に身を包み、海になんか浸かるのは10年ぶりくらいのわたしは、恐る恐る波打ち際に近寄って行った。まずは、変なものが浮いたりしていないか確認しておきたかった。ここでいう変なものとは海藻などの類い。というのも福岡で子供の頃に行っていたビーチはいつも大量の海藻が浮かんでいて、それが腕や足に巻き付くのが嫌で海に行かなくなった記憶がある。もう半世紀も前の話だし「福岡の海、海藻だらけ」なんて聞かないからきっと変わっていると思う。
モホブランコの海水は透明よりも透明に透き通っていて、昔の福岡の海のように海草が打ち寄せてもいなかった。砂浜も砂の粒子が小さく、歩くと「キュッ キュッ」と音がするのが小気味良かった。
そっと手を海水に浸すとヒンヤリと冷たかったが、それ以上に日差しは肌を刺すように強かったから心地よい冷たさに感じることができた。
彼は既に肩くらいの深さのところに行ってしまい早く来いと言っている。わたしもそれに続いて一気に全身を海水に浸した。周囲には子供達が浮き輪で「きゃーきゃー」いいながらぷかぷか浮いていた。
わたしも足が届くか届かないくらいの所まで行って、子供達に混じって波遊びを始めた。日本の海ではありえない大波が定期的にやってくるから、それを頭からかぶらないように波に合わせてジャンプするという単調な動作がなかなか面白い。
とはいえ、全身運動で波遊びもそう長くは続かず、まだ海の中に浸っていたいという彼を残して先にビーチへ上がることにした。
波遊びがたたって、少しヨロヨロしながら浅瀬に辿り付き、もう一歩で砂浜と言う時にいきなりそれは起こった。
引き潮に飲まれてしまったのだ!
人間は経験の積み重ねで力の入れ具合を調節するようになる生き物だ。例えば、卵を割るのに満身の力を込めると卵はぐっちゃりと壊れてしまうだろう。ケーキにフォークを突き刺す力加減はステーキに突き刺すそれとは当然違う。経験上とっさに力具合を加減できるようになっているのだ。
そして、その経験が日本に打ち寄せては引くさざなみしか知らなかったわたしには自然にゆったりとした足の運びをもたらしてしまった。。。
しっかり踏ん張っていなかったわたしの足はブラジルの力強い引き潮に一気に掬われてしまった。
あまりに一瞬のことでなにがなんだか分からないままに、浅瀬ででんぐり返りを2回転ほどして、体がめちゃくちゃになりそうなのを
「マズイ。。。ホントに大変な怪我をするかも?!」
とグルグル波にもてあそばれながらも全身の力を振り絞ってその波からなんとか逃れた。
そして、次の引き潮が来る前に急いで砂浜に上がったわたしの髪はぐちゃぐちゃで、両耳に水が入って「グワングワン」といっている。取り敢えず、マイクロちっちゃい水着がはだけてなかったのだけは幸運だったかも。
実際波に飲まれたのはほんの数秒だったが、わたしにはとっても長い時間のように感じた。けれど、実際はそれが一瞬だったという事を証明しているかのように、誰もわたしには気を止めていなかった。
モホブランコのビーチは観光化はあんまり進んでいなくても、海の家のような所が数軒あって、飲み物や簡単な料理をサーブしてくれるガルソン(ウェイター)もいた。赤ちゃんがいるので泳ぎに行かない彼の姉が赤ちゃんと一緒にパラソルのある場所をキープしてくれていたので、疲れると休憩に戻り、気が向くと海に出るのを繰り返しつつビーチでの初日を楽しんだ。

彼のお婆ちゃんに会う
次の日の朝、背中の痛みで目が覚めた。。。
たった20分くらいと甘く見ていたが、日焼け止めなしでのモホブランコツアーでここまで火傷状態になるかというくらい真っ赤に腫れあがっているわたしの背中は、キャミソールのヒモがあたるだけで激痛が走っていた。
それは、ブラジルの赤道に近い辺りの日差しが半端なものでない事を物語っていた。そして、白人のような白い肌をしていないブラジル人だとサンオイルをテカテカに塗って1時間くらい平気で日向に寝転がって日焼けを楽しんでいるのだから、それもすごい。(ラテン系は日本人と同じような肌の色をしている人が多い)
彼の家族は、わたしが神経質なくらい日焼け止めを塗っていたにもかかわらずこういう状態になっている事にびっくりしていた。「日本人の肌ってやわだね」的なことをコソコソと話すのが聞こえた。ほとんどポルトガル語が理解できなくても悪口は何故か理解できるから面倒だ。
その日はとてもビーチに出れないと思っていたら、義父さんの家族に車で会いに行く事になっていた。車は1台しかないからまた、彼と弟、義父とその彼女とわたしでのドライブだ。
来る時、フォタレザに入った頃には周りは真っ暗で景色なんか全然分からなかったので、この日はブラジル高原の真ん中に鎮座するゴイアニアとは全く違う海岸に近い風景を楽しみながらドライブできた。フォタレザの辺りは「CAJU(カジュ)」という種部分が「カシューナッツ」になるフルーツの産地だったのでところどころにカジュが実っていた。義父さんの庭にカジュの木が植えてあるのは、故郷を想ってのことだったんだなと納得した。また、巨大なヤシのような形の木が野生でなく植樹されたようにたくさん茂っていて、それにしては長い間放置されているような感じがしたから何の木なのか尋ねると
「昔はレコード盤の材料として輸出されていた木だよ」
という答えが帰って来てびっくりした。わたしはレコードが木からできているとは知らなかったのだ。なんだか、そんな時代に取り残された木々達を眺めていると、このフォタレザ近くの田舎町も時代に取り残されたまま忘れられた存在のように感じられた。。。

2時間ほど乾燥した風景を眺めてドライブをして、義父の母(彼のお婆ちゃん)が40才くらいの孫である女性と暮らしているという小さな佇まいに到着した。
まずは、簡単に挨拶を済ませて少し話しをした。というか、わたしは当時ポルトガル語が全然分からなかったから、雰囲気だけを楽しんだ。
お婆ちゃんはお爺ちゃんに先立たれた後、牧場からこの小さな町に移って来たようだった。オランダ系移民の子孫で小柄で白髪を肩より下まで伸ばして後ろで束ねていた。足が弱っているらしく動作は緩やかだけれど爪にはピンクのマニキュアが塗ってあり、お洒落心を忘れていない可愛らしさがほんわか伝わってくる。けれど、その指はどれくらい働いたかを誇示するかのように大きくてごつごつしてて、右手の親指は変形していた。日本人にしては大きな手のわたしだったが、お婆ちゃんの手と並べるとなんとも貧弱に見えて苦労知らずのわたし手を見ながら「きれいな手だね」とニコニコしながら言うお婆ちゃんに対して少し恥ずかしくなった。。。とっても人懐っこく、わたしの事を気に入って、言葉が分からないのに、ソファで隣に座りずっとわたしの手を握っていた。
わたしが片言のポルトガル語で
「おばあちゃん、何才なの?」
と聞くと、大笑いしながら
「もう、忘れるくらい年をとっちゃったわ」
といってホントに覚えてないようだった。
若い頃、家族で撮ったという大きな写真を持って来て見せてくれると、そこには長身でハンサムなお爺さんの姿があった。
お婆ちゃんに
「子供は何人いるの?」
と尋ねるとちょっと考えてから
「14人。。。かしら?」
わたしがビックリ仰天していると
「その中でわたしの子供は9人よ」
と言った。お爺ちゃんはハンサムだっただけにかなりの遊び人だったようだ。。。
そんなたわいもない会話を続けている所へお婆ちゃんと一緒に住んでいるという孫の女性が彼氏を伴って帰って来た。
彼女は、まずわたし達に挨拶して彼氏を家の中に招き入れた。すると、その男性は「モリさん」という日系人だった。
モリさんは二世だということだったが、日本へは短期訪問したことがあるだけで、出稼ぎの経験はないといっていた。なので、彼の話す日本語は両親から教わったというちょっと古めかしい表現が多かった。彼自身も当然だけれど、ポルトガル語の方が楽だと言っていた。
モリさんはブラジルで生まれ育ったわけだから、流暢なポルトガル語を話すけれど、ポルトガル語の中にも両親から躾られたのか、日本人的な気配りの表現が所所にうかがわれて「あれっ?」と思った。
ブラジルで先においとまする時に
「話の途中で大変申し訳ないけれど。。。」
と、自分が話し掛けられている訳でもないのに謝って帰るブラジル人なんか見た事がなかったわたしには、かなり新鮮に感じた。
彼の親族を訪問する
お婆ちゃんの家で小1時間ほど過ごした後、近くに点在するというお義父さんの親族達を尋ねることになった。
最初に訪問したのは、もともとはお爺さんが所有していた牧場を次いでそこに住んでいる家族達の家だった。お爺さんにはたくさんの子供がいたから、お爺さんがなくなった後、牧場は兄弟達に分配されたということだった。
ちなみに、お義父さんは長男だったのだが貧乏な牧場生活が嫌で家を飛び出してゴイアニアに出て来たという経緯があったので、遺産分配の時には辞退したという事だった。というのも、分割された牧場に住む数軒の親族達を尋ねても、誰も豊かとはいえない暮らしぶりだったから、ゴイアニアで自力で大学を出て、取り敢えず測量技師として国の機関で仕事をしていた義父の暮らしは、彼らのそれに比べると断然良かった。
わたしの知っている中では、彼らの生活は「牧場管理人」レベルのものだったのだ。生活するのに精一杯で家の中にムダなものは一切存在していなかった。お義父さんのように知らない土地に一人で出ていく勇気のある人がこの田舎町にどれくらいいるのかは分からなかったが、この町に生まれてこの生活しか知らない人達は、自分達の貧困は分かっていても、どうすることもできないんだろう。ただ、自分達の土地で生活するには十分とは思えない牛を飼育して売る。その繰り返しだ。間違っても余分な収入はないから牛を増やすこともできなければ、そんな夢も思い描かない。そうやって、ただ年を取っていくのではないかと思えた。
彼らには、突然やって来たアメリカ帰りの親族と貧しくは見えない外国人が訪問して来てもどう対応していいのか分からない。自分達には夢のまた夢である自家用車でやってきた親族に、笑顔で迎え入れることができるほど悟りを開けるわけはなかった。ただ、子供達が元気だったのは救いだった。
その後、別の小さな町に住む親族宅をいくつか訪問した。
ある家族は、夫婦に娘3人という女性ばっかりの所帯で、「ゴイヤバ(グァバ)」を加工して販売していた。家の裏に行くと大きな鍋でグァバをぐつぐつと煮ている所だった。火種はもちろん薪である。ただでさえ暑いフォタレザの昼下がりに、大汗を掻いて顔を真っ赤にしながらグァバが焦げないようにずっと大鍋の横について鍋をかき混ぜる作業。いったい何時間そうやっているのだろうか。そして、その横では水分を飛ばして濃縮した、例えるなら「グァバ羊羹」の様な物をせっせと棒状に整えて砂糖をまぶしてカットしてビニールに巻くという作業を小学生くらいの女の子が二人でやっていた。毎日毎日同じ作業を繰り返しても、「ゴイヤバ」のお菓子はありふれていて、とてもいい値がつくものではないことは、ブラジルを訪問したばかりのわたしにでも分かっていた。ここでも、突然の訪問客に家族みんな戸惑いの表情だったが、瓶詰めのゴイヤバを数個購入すると笑顔でサヨナラを言ってくれたものだ。
唯一ましな生活をしている家族がいて、幼い頃に彼や弟たちと遊んだ記憶のある女性は大歓待でわたし達を家に招き入れた。生活レベルが上がるほどに人間には心の余裕が出て来るものだとしみじみと思った。

彼の友人が合流する
次の日の午後にゴイアニアの友人が一人飛行機でやってきて合流した。
彼の父親は大きな牧場を経営していて、みんなは我らの事を「大金持ち」と言っていたが、わたしにはそうは見えなかった。
というのも、一度彼の父親の牧場に遊びに行ったのだけれど、確かにたくさんの牛を持っているかもしれないし、カッコをつけて馬を乗り回していたけれど、どうもなんだか「セコサ」を感じた。
数回、いきつけの近所のバーで会ったことがあるが、なにせ会計が細かいのだ。先に帰る時には、きっちり自分の飲んだ分だけ払っていた。時には少なくも感じた。
その癖、自分の牧場でパーティを開いては自分の富裕ぶりをみせびらかしたい様なそんな感じを受けた。
そして、わたしは合流して来た息子が生理的に受けつけないタイプだった。彼は、親に出資してもらって建築材料の販売店を経営していたけれど、いわゆる親掛かりな人生を送っているのが数回会っただけで見て取れた。彼には、美人な婚約者がいるにもかかわらず、義弟と暇さえあれば女漁りに出掛けていた。
そして、フォタレザにも女遊びに来たことが感じられて嫌気がさした。実際、その日のうちに義弟と二人で海岸近くに住む10代も前半くらいのまだまだ子供にしか見えないモレーナ(黒人と白人のミックス)を数人従えてビーチにあるバーで飲んでいた。
彼女達は、家が貧しく仕事もないから暇さえあればビキニで海岸をうろついて観光客に買ってもらう売春婦なのだ。そんなことを説明されなくてもすぐにそうだと理解できた。テーブルを囲んでも話をする訳でもなく飾り物のようにただ座っているだけ。そんな幼い少女らにベタベタしている二人の男を蔑む眼差しで見つめたけれど、彼らにはそんなわたしの表情も全然理解できないで、わたしに冗談を言ったりしてきた。
そういうバカなやつらは相手にせず、久々の海で子供のようにシュノーケリングに励む我が彼とブラジルの海を楽しむように心掛けた。
モホブランコ周辺には国が貧しい人達のために無償で建てた同じ形のみすぼらしい家がたくさん並んでいて、この辺りの人口のほとんどがそこに住んでいるのではないかと思われるくらいだった。そして、観光化が進んでいない海岸周辺にはたいしたお店もなければもちろん工場もない。男の人にいったい仕事が存在するのかが不思議でならなかった。
数日経って、食料品が不足してきたというのでビーチに一番近い小さな町へ彼と弟、わたし、その友人で繰り出すことになった。小さな雑貨店で必要な物を物色しつつ、珍しいお菓子があったからそれもまとめてわたしが払った。雑貨店には誰が買うのか日本産のお味噌があって驚いた。手に取ってみると賞味期限は3年前にとっくに切れていた。
支払いを終えた後に、しみじみと思ったのだけれど、わたしの日本での人生において、大の大人の男が女性に支払いを全てさせるのは、日本では恥ずかしいことだという常識があるけれど、ブラジル人は気にしない。お金がある人が払えばいいと思っている。わたしの嫌いなこの友人も金持ち風を吹かせる癖に、一切お金を出す気はないのだ。だいたい、お義父さんの海の家にただで宿泊させてもらっているのだから、多少の心遣いをするべきなのではないかと思うわたしの方がここでは変わった考え方の持ち主なのだった。
そして、食料をのせた車で海の家に帰る途中、その友人はわたしの買ったお菓子が食べたいとまで言い出す、ずーずーしさに呆れてしまった。
そんな居心地がいいとはいえない海の家を10日ほどで後にして、わたし達はまた、同じメンバーで車でゴイアニアへと向かったのだった。
帰りは意外にスムーズで、車のすし詰めにも慣れてしまったのか車内ではほとんど眠っていたわたしは、気が付くとゴイアニアへと帰って来ることができたのだった。
ほんの数日間のモホブランコ周辺で見たものは、当時のブラジルの真実の姿なのだとしみじみと感じた。ゴイアニアはまだいい方なのだ。働く気さえあれば仕事だってみつかる。モホブランコ周辺には仕事自体が存在していなかった。だから今も尚、あの周辺からゴイアニアへ出稼ぎにやってくる若者も多い。
毎日海岸をうろつき、観光客に買ってもらうことを覚えた少女達はきっと10代のうちに父親の分からない赤ちゃんをポロポロ産むことになるのだろう。ブラジル人のほとんどはカトリック教徒で子供は父親がわからなくても皆んなに歓迎される。そして、貧困は繰り返されるのだ。ブラジルには、こういう少女達がたくさん存在する。この国にはいったい何が必要なのか?教育の徹底?性教育?経済政策?あまりに混沌としていて何がこの国を救ってくれるのか考えると頭が痛くなる。それでも、何かできるはずだと諦めたくはない。。。
最後に
あれから四半世紀が過ぎ、ブラジルの経済は発展しました。リオのオリンピックの頃が経済発展のピークで、BRICSで集まってきた投資マネーを政府は国中に振り撒いて、わたしが住んでいたゴイアニアの田舎の空港まで綺麗に整備されたのには驚きました。2000年頃には自家用車は金持ちの持ち物で、バス路線の我が家の前の道を通る車の数は一日6台くらいだったのが、10年後には渋滞が起きるほどに。当時の大統領は最低賃金を毎年倍にすると公言実行したため、物価は上昇し中小企業は給料が払えないので人員削減。結局、指定賃金が上がったため無職の人が増え、職にあぶれた人たちは社会保障のないような安い賃金の日雇いの職に就き貧困者は貧困者のまま取り残されたように感じています。今思えば、ブラジルの高度経済成長期という楽しい時期にブラジルに住むことができたのは貴重な体験でした。
ブラジルの生活を通して学んだこと。
貧乏に生まれてきた人が貧乏から抜け出すのは、日本のそれと比べ物にならないくらいの努力が必要だ
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