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深海の揺りかご       Vol.17

<紹介文・あらすじ>
市立水族館で働く地味な飼育員・田中雄一。口下手で不器用な彼が挑むのは、幻の深海ザメ「リュウキュウカスミザメ」の自然繁殖という前人未到の偉業だった。度重なる失敗、職場の軋轢、家族とのすれ違い―—それでも彼は諦めない。酒と料理に癒やされながら、命と向き合い続ける日々。これは、静かに生きてきた一人の男が、かけがえのない命と出会い、世界を変えるまでの感動の物語。

頑張れ!田中雄一

第三章:試練の先に

第17話:学会からの冷たい視線

イワシのマリネ

 学会会場の空気は、水族館とは違う種類の静けさを持っていた。
 整然と並ぶポスター、低く交わされる専門用語、評価と序列が見えない形で漂っている。

 田中雄一は、その一角に立っていた。

 簡素な発表資料。
 モニターには、あの夜の映像が静かに流れている。
 カスミザメの、不規則な接触動作。
 何度も見たはずの映像が、ここでは別の意味を持つ。

(通じるか……?)
 答えは、すぐに返ってきた。

「……で、結論は?」
 白衣の男が腕を組んだまま言う。

「繁殖行動の可能性を示唆しています」
 田中は淡々と答える。

「“可能性”ね」
 乾いた声。
「サンプル数は?」

「現時点では一例のみです」

「再現性は?」

「検証中です」

 短い応酬。
 だが、その場の空気は明らかに冷えていく。
「つまり、仮説段階だ」

「……はい」

「それをここで出す意味は?」
 言葉が、まっすぐ刺さる。

 田中は一瞬だけ沈黙する。
 だが、視線は逸らさない。
「未知の種に対する初期データとして、共有する価値はあります」
 静かな返答。

 周囲の研究者が、わずかにざわつく。

 別の男が口を挟む。
「“幻のサメ”の話だったな」
 薄く笑う。
「ロマンは分かるが……研究はロマンじゃない」

 数人が小さく頷く。

「客寄せのネタにするなら、水族館でやるべきだ」
 その一言で、場の空気が決まった。

 田中は何も言わなかった。
 言い返すことはできる……だが、証明が足りない。

(……事実だ……)

 再現性も、統計も、裏付けもない。
 あるのは、観察と手応えだけ。
 それでは、この場所では通用しない。

「以上です……」
 短く締める。
 拍手はまばらだった。

 会場を出ると、廊下の空気が少しだけ軽く感じた。
 だが、胸の奥は重いままだ。

「……厳しかったですね」
 後ろから声がする。
 振り返ると、坂口梨花が立っていた。

「想定内だ」
 田中は短く答える。

「でも、あの言い方は……」

「間違ってはいない」

 坂口は少しだけ眉を寄せる。
 だが、それ以上は言わなかった。
 代わりに、静かに言う。
「映像自体の価値は、否定されていません」

「……ああ」

「“分からない”と言われただけです」
 その言葉は、冷静だった。
 そして、正確だった。

 田中は小さく息を吐く。
(分からない……か)
 否定ではない。
 だが、肯定でもない。
 宙に浮いたままの評価。
「……詰めるしかないな」

「はい」
 坂口は即答する。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 その日の夕方、水族館に戻る。
 バックヤードに入った瞬間、空気の違いに気づく。

 視線が集まる。
 何も言われない……だが、見られている。

(……バレてるな)

 噂は回る。
 深夜の作業、機材の持ち込み、閉館後の記録。
 目立たないはずの行動も、積み重なれば形になる。

「お疲れ様です」
 野村が近づいてくる。
「どうでした?」

「予想通りだ」

「……ですよね」
 短い会話。

 その間にも、遠巻きの視線は消えない。

 奥から、佐藤がゆっくり歩いてくる。
「聞いたぞ」
 低い声。
「学会で、ずいぶん面白いことを言ってきたらしいな」
 皮肉とも取れる口調。

 田中は正面から見る。
「事実を出しただけです」

「事実、ね」
 佐藤は腕を組む。
「証明もできてないもんを外に出すのは、賢いやり方じゃねえな」
 正論だった。
 だが、その裏にあるものも感じる。

(試してる……)
 見極めている。

「……分かっています」
 田中は静かに答える。

「だから、戻ってきました」
 それ以上は言わない。

 佐藤は数秒、田中を見つめる。
 そして、ふっと視線を外す。
「……潰すなよ」
 それだけ言って、去っていく。
 否定ではない。
 だが、許容でもない。
 微妙な距離。
 それが、今の立ち位置だった。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 夜。
 田中は一人、キッチンに立っていた。
 手に取ったのは、イワシとレモン、そしてロゼワイン。

(軽く……でも逃げない)

 イワシは手開きにする骨を丁寧に外し、形を崩さない。
 軽く塩を振り、少しだけ置く……余分な水分を抜く。
 水気を拭き取り、オリーブオイルで軽く和える。
 皿に並べ、レモンを絞る。
 刻んだディルを少しだけ散らす。

 ロゼワインを注ぐ。
 一口。
 やわらかな酸と、控えめな甘み。

 イワシを口に運ぶ。
 青魚の旨味と、わずかな苦味……そこにレモンが鋭く入る。
 すぐにワインを重ねる。

(……悪くない)

 ぶつかる要素がある。
 だが、崩れてはいない。

 今日のやり取りが頭に浮かぶ。
 否定され、測られ、揺さぶられた時間。
 それでも―—
(折れてない……)
 芯は残っている。

 もう一口、ワインを飲む。
 温度が上がり、味が丸くなる。

(……時間をかける……)

 すぐに答えは出ない。
 だが、積み重ねれば形になる。

「……次は、証明だ」
 小さく呟く。

 皿の上のイワシは、静かに光っている。
 派手ではない……だが、確かな味がある。
 田中雄一は、ゆっくりとグラスを置いた。
 その目には、揺らがないものが宿っていた。

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