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コンスタブルたちの眼

はじめに

このエッセイでは、「イギリス絵画のどこがどう面白いのか」について考察することを目的としている。
これから取り上げる画家の名を先に列挙すると、ホガース、ライト、レノルズ、ゲインズバラ、エッグ、ターナー、コンスタブル、ミレイなどである。
おフランス絵画やイタリア絵画に較べてイギリス絵画は2流だと言われるが、本当にそうだろうか?ここでは、どこまで教科書的でないアプローチがわれわれにできるかにかかっているのだ。


■ホガースの場合



彼は英国最初の大画家とされている。妥当な評価だ。『グレアム家の子供たち』は、複製でみても、やはりヘンテコ。というか見れば見るほどへんなのだ。まず、サクランボを欲しがる赤ちゃんが長女に制止されており、次女はなんかポーズしてる(何にしているの?)。男の子は男の子で、どこを見てるのやら。あれれ。また、かれの背後の猫は小鳥を狙っている。もし絵画から声が聴こえたら。そんなことは妄想=デリュージョンだろうか。いや、ホガースは、実は「写実主義=リアリズム」を先取りしていたのかもしれない。クールベ以前に?

もう1点、見てみよう。

『当世風結婚式2』。放蕩のすえ帰宅した旦那はぐったり。が、新婦は欲求不満そう。あきらかに交わりたがっている模様。一方、小間使いは、だれかを呼んでいる。たぶんキングを。円柱は悪趣味一歩手前。どんな建築のディテール集にも載ってないだろう。倒れた椅子にはなぜかバイオリンとスコアが転がっている。なんだこれ??一種寓話=アレゴリーなのだが、これも、「現実」として、うけとめられないだろうか。以上。

■ライトの場合

『空気ポンプの実験』。これもナショナル・ギャラリーに展示されている真にかっこいい絵である。

なかなかの大作なのだ。たしか横2.4mくらいの。
いままさに真空管のネズミが窒息されようとしている。目を伏せているお上品な娘さんもいる。興味深々のお嬢さんもいる。おしゃべりに興じている貴族もあり。なんで?このタイミングで。ニュートン風の科学者は目をむいてこちらをみているではないか。「この人をみよ」(byニーチェ)。唸るしかない。これがジョーゼフ・ライトの底力だからだ。

■レノルズの場合
次に、レノルズの作品をみてみよう。
『少女と犬』

これは、ウォレス・コレクションで見上げたら、水色の瞳に吸い込まれそうになった。こうくるかという。レノルズ卿は一体どうやってこの絵を仕上げたのか。アカデミー会員にして独身のかれは「ボウルズ嬢」になにを求めていたのか?おそらくロリータ・コンプレックスだろう。

■ゲインズバラの場合


この少女もすばらしい。足は裸足。壊れた瓶でお水を汲みに行ったんだね。ご苦労様。ぼろきれを着てはる。カワイイ!君、おいでよ。恥ずかしい、無理だよね。画家は信用していいよ。なぜなら、レノルズのライバルとも目されるゲインズバラはロマンティストなのだから。だいじょうぶ。安心して。しかもアングルに先駆けて。

■エッグの場合


『過去と現在Ⅰ』。ぐたっとお母さまが倒れた。まず、長女がこの異変に気づいた。姉妹は椅子を台にしてカードゲームに夢中だったのだ。たのしそうですね。プリーツよくお似合いだよ。緑のカーペットに落ちたリンゴはいわゆる「原罪」の象徴(キリスト教社会において)。ただ、ぼくは日本人なのでどこまでヨーロッパ文化に迫れるか自信がない。


『旅の仲間』に進む。今の衝撃の余韻に浸らずに?学生さんだろう。彼女らは少しづつちがうのだ。たとえば、眠っている女の子はボタンを外してる。読書娘は手袋している。たっぷりとしたロングスカート。帽子はヒザの上にちょこんと。窓の外には地中海だろうか。おそらくおフランスの南部。この二流画家は刮目に値する。

■ターナーの場合
いよいよ、登場、ターナー大先生。彼は印象派に影響をあたえた、重要な画家。一生独り身を貫いたが。ターナーは何を描いたか?霧の都・倫敦を、「写実的」に描いたとはいえないか。どの美術書にも書かれていないけれども。
では、一枚。

『雨、蒸気、速度ーグレート・ウェスタン鉄道』


これはもうモネを先駆している!ほとんど印象派だ。ターナーは有名だから、検索すれば画像は何点も出てくる。ぜひとも検索していただきたい。とうか、ぜひぜひロンドンという面白い都市へご旅行ください。美術館に赴いたら帆船だとか波だとか。美しい油絵がきっと君を待っている。
ところで、空を描くためには、やはり補色の黄色が大きなエレメントなのだろう。
それは置いておいても、絵画は2次元のはず。しかし、機関車は手前にむかってくるではないか?やはり狂っていないか。

■コンスタブルの場合
やっと、ここまでたどり着いた。ようやくコンスタブルの絵を眺めることができる。

これは見世物=スペクタブルと呼んでいいだろう。『干草車』。小川に親子が牛車を引いている。その先の住居には女がどうも洗濯をしている様子(この家煙突があるからサンタさんくるね)。岸には羊追い犬が少年とレスポンスしている。これはなんだろう。止まっている。写真技術以前の絵。フェルメールには遅れるが。


お馴染みのコピペで、『主教の庭からみたソールズベリー教会堂』。カップルがなんか木を指さしている。なんで。とりあえず、いいと。それよりは、尖塔。木々の間からエレクトしている。空、雲。これでいいのだ(by赤塚不二夫)。


もう一点。廃墟と化したイングランド北部の敷地。またまた少年と犬。コンスタブルはこのような作品を大量に描いた。ところで彼は同時代のターナーとちがい5人の子宝に恵まれた。書簡集もあるのだが稠密な本なのだ。『コンスタブルの手紙』とかいう書物なのだが、あまり面白い本ではない。資料は少ない。
したがって、ラファエル前派に移りたい。

■サージェントの場合

ああ、ショートカットでボーイッシュな子が二人も。提灯を持って。ジャポニスムだろう。妖精といっていい。うなじやら手に視線は浮遊する。二人いれば最強。どこへでも行けるのだ。でも、これからどちらに?

■ミレイの場合

とことん美しい。死んでいくオフィーリア妃。花がそえられて。川を流れていく。いずれ海に出るのだろうか。でも、絵だから、静止している。不思議だ。絵画とは、ここにきて、なんなのだろうか?ぼくはここまでで立ち止まらざるをえない。20世紀イギリス美術には届かなかった。


終わりに

結果的にだが、なんともスリムなエッセイになってしまった。だが、かなりの角度でイギリス絵画の魅力は伝わったと自負している。美術史を塗り替えるほどのものかどうか別として。とにかく、最後まで読んでいただいた少ない読者には感謝を意を表したい。

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