第一話 “いつも通り”をつくる目線と呼吸
ここいちばん、という場面は意外と頻繁に訪れる。
筋トレで重たい重量に挑むとき。
大事なプレゼンに臨むとき。
片想いのあの人をデートに誘うとき。
よしっ、とか。
ふぅー、とか。
すぅー、とか。
ここいちばんの前、人は無意識に呼吸へ意識を向け、自分を整えようとするのだと思う。
もし「あなたにとってのここいちばんとは、どういう場面ですか?」と聞かれたら、私はこう答える。
「ベンチプレスの大会で、出し切りたい瞬間です」と。
では、「ここいちばんのときに心がけていることは?」と聞かれたらどうだろう。
パワーリフティングやベンチプレスの大会では、「いつも通り」という言葉をよく耳にする。
この“いつも”とは、おそらく練習で成功した経験をもとに作り上げてきた、自分にとって自然な体の動作やタイミングのことだ。
けれど、人は環境の変化にとても敏感である。
広い会場。
高い天井。
人の熱気。
アナウンスの声。
いつもと違う、滑りやすそうな床やベンチ台。
今日の審判は厳しそうだ、などと考えたりもする。
そうした外部環境に触れているうちに、気づけば自分の順番が来る。
外部環境に合わせて柔軟でありたい。
でも、合わせすぎると、自分が自分でなくなるような気もする。
そんなときこそ信じたい。
これまで積み重ねてきた“いつも通り”を。
その一方で、掛ける思いが強ければ強いほど、人は余計なことまで考えてしまう。
考えるほど緊張する。
うるさいほどに鼓動する心臓に向かって、身体が内側へきゅーっと萎んでいくような感覚になる。
そうして視野は狭くなり、目線は下がり、呼吸は浅くなる。
だから私がまず整えるのは、「広い視野」と「深い呼吸」である。
視野を広くする、とはよく言う。
けれど、具体的にはどういうことなのだろう。
そのヒントになるのが、宮本武蔵のいう「観の目」と「見の目」である。
武蔵は『五輪書』水の巻の中で、「観の目を強く、見の目を弱く」と述べている。
遠いところを近いように見、近いところを遠いように見ること。
そして、それを戦いの最中だけでなく、普段から身につけておくこと。
私はこの考え方に、ベンチプレスにも通じるものを感じている。
現代社会では、パソコンやスマートフォンを見ない日はほとんどない。
多くの人は日常のなかで、「見の目」を強く使っている。
目の前のものを凝視していると、少しずつ背中は丸まり、首は前へ出ていく。
まるで眼球そのものが、文字通り目の前へ飛び出していくような感覚になる。
とくに都市部で生活していると、遠くを見る機会は驚くほど少ない。
切り取られた空。
押し寄せる人波。
目を引く鮮やかな広告。
そんなものを追いかけながら、「見の目」のまま一日を終えることも珍しくない。
では逆に、目玉を少し後頭部のほうへ引き込めるように意識してみるとどうだろう。
自然と視線は少し遠くへほどけ、頭が上がり、どこを見るともなく全体を眺めるような感覚になる。
その感覚を追いかけていくと、顎の力みが抜け、背筋がすーっと伸びてくる。
これが「観の目」である。
ざっくり言えば、
「観の目」は、広く捉える目。
身体を上へ伸ばし、余計な力みをほどく目。
「見の目」は、一点に集める目。
その場に自分を固定し、力を通すための目。
どちらが良い悪いではない。
どちらも必要であり、場面によって切り替えることが大切なのだ。
この二つの目に、鼻呼吸を組み合わせてみる。
「観の目」では、吸う息は深く、高い位置を通っていくように。
遠くの山並みを見渡すような感覚で、部屋の奥や窓の外の遠い一点をぼんやり眺めてみる。
顎の力がほどけ、身体が上へ伸びていく。
そこに下っ腹を軽く引き込む感覚が加わると、全身がまとまりながら引き上がっていく感覚が出てくるはずだ。
一方、「見の目」では、目の前の一点に意識を集める。
強い意志をそこへ通すようなまなざしだ。
吸う息は鼻の中央をまっすぐ貫くように鋭く、胸の内側から身体を押し広げるように入れる。
動きは最小限に。
力は最大限に。
自分をその場に固定しながら、出力を外へ通していく準備を整える。
ベンチプレスには、この二つの目がどちらも必要だ。
普段から意識して練習し、意図的に切り替えられるようになると、ここいちばんの場面で本当に強い。
とくに大会のように、「ああ、自分はいま緊張している」とはっきり分かる場面では、その差が大きく出る。
私の場合は、まず「観の目」で入る。
ベンチ台に寝る前に視野を広くし、自分の身体も伸び上がっていくようにイメージする。
深く、高い位置で一呼吸する。
ベンチ台に座ったら、「見の目」に切り替える。
身体の内側から押し広げるように息を吸い、自分の出力を一点に集めていく。
「よしっ」と一声出すのもいいだろう。
仰向けになってフォームを作るときは、再び「観の目」に戻る。
身体全体をひとつにまとめるように、深く高い呼吸を入れてからアーチを作る。
そして、いざバーベルをラックから外す瞬間には、「見の目」で顎をきゅっと引き込み、力を体外へ通していく。
ただし、バーベルが動き始めてからは、バーそのものを目で追いすぎないほうがいい。
武蔵の言葉を借りれば、相手の太刀の位置は知っていても、太刀を見すぎないこと。
一点に囚われず、全体を捉え続けることが大切なのである。
ここまでの流れを、ぜひ一度、頭の中で思い描きながら動いてみてほしい。
座ったままでもいい。
立ち上がってでもいい。
実際に仰向けになってみてもいいだろう。
あたかもバーベルを持っているかのようなエネルギーが、身体を駆け巡る感覚が出てこないだろうか。
「ここいちばん」には、備えが必要だ。
“いつも通り”を再現するために、普段から呼吸と目線をコントロールする術を身につけておく。
そうすれば、どのような環境にあっても、自分の軸はそう簡単にはぶれない。
練習のときだけでなく、日常のなかでも心がけてみてほしい。
ベンチプレスは、筋力だけがものをいう世界ではない。
重さの奥には、まだ言葉にしきれない感覚がある。
だからこそ、こんなにも面白いのだ
