小説『尾道スロウレイン』⑥
義晴と会うまでの一週間はこのご時世にしては珍しく、外国人のツーリストの宿泊が相次いだので、ボランティアで市内のガイドをやったり、しまなみ海道を今治まで一緒にサイクリングしたり、コンセルジュとして色々質問を受けたり、亀井と一緒に手によりをかけた手料理を振舞ったりしてで、東へ西へ忙しくしていた。
勿論、気は遣うし、心から楽しみ、喜んでもらうというのは楽ではなかったが、そういう条件で、タダで個室を占有しているのだから、それは契約を履行しているに過ぎないのだけど…
中でも香港人のカップルを千光寺に連れて行った時、絵馬に「光復香港 天滅中共(香港に光を、くたばれ中国共産党)」と書いて祈願し、奉納したことが強く印象に残った。あの夜景が美しく、スタイリッシュで、エネルギッシュで、アジアを動かす才能の集まるあの街に今や「自由」が存在しないことに俺は打ちのめされそうになった。
俺は、「美夢成真天佑香港(夢は必ず叶う。どうか香港に天の助けがありますように)」と言って二人を励ました。俺とて、味噌っかすかもしれないが、中華社会の隅っこで呼吸をしていた人間である。無関心を装うことなんてできやしない。
深夜、部屋に戻ってやっと一人になれると、こないだキョウジュと会った日に着ていたバンコクのジムトンプソンのバーゲンで買った青いタイシルクのシャツの胸の部分を嗅ぐ。奈々の匂いが移っているから洗濯していないのだ。
それはあの日、奈々に惚れたからではない。加奈子と全く同じ体臭だからだ。
つまり、俺は加奈子を想っているのだ。
それがどんなに愚かで、最低な徒労であるかなんてことは俺が一番わかっている。
全てが輝き、全てが引き裂かれたあの季節を忘れるには更に光溢れる日々が訪れるか、加奈子以上の女と巡り合うかくらいしかない。
つまり、今世ではほぼ不可能に近い。
奈々がその候補として手を挙げてきたとしたら?
俺はその考えを全否定し、わざとらしいくらいに大きく首を振った。
「タミオさん。まだ起きてます?」
「おう。起きとるよ」
さっきまでオーストラリア人の船乗りブライアンと「どこの港の女がよかったか」なんて下らない話を顔を突き合わせ真剣に論じ合っていたほろ酔いの亀井が障子の間から顔を覗かせた。
「これ、陳君からタミオさんにって。お礼だそうですよ」
「学生がモエシャンなんか無理せんでもええのに」
俺は濃い緑の泡瓶を見て苦笑しながらも、気持ちが嬉しく、明日から毎朝、香港の方角に向いて、香港の平和と自由を本気で祈ろうなどと思った。
「タミオさんは日本人なのに香港人の気持ちを理解できている。チャイニーズよりチャイニーズだって褒めてましたよ」
「それ、ホンマに褒めとるんかいのう?」
「さぁ」
亀井は肩をすくめ、
「ところで明日は何時に出られるんです?」と部屋を見回しながら訊いた。
「夕方の客の少ない時間に筒井のおっさんが段取りしてくれたけぇ、お昼過ぎに出りゃ間に合うじゃろ」
「弟さんといい話ができたらいいですね」
「ありがとう」
「それと、余計なことですけど、そのシャツそろそろ洗濯したほうがいいですよ。ランドリーに出しときましょうか?」
「…」
「余計なことでしたね。おやすみなさい。朝方、資源ゴミは僕が出しときますね」
多分、亀井にはさっきの恥ずかしい光景を盗み見られ、勘の鋭さから大体のことは察しているのだろう。
俺は少し厭な汗をかいた。
翌日。
不意の来客。
目は覚めているものの、意識はまだ眠りの岸辺に半身を浸しているこの感じは眠っているよりも気持ちがいい。
そこから現実に引き戻される。
通常、気分を害するものだが、訪ねてきたのが奈々だと知ると、それは夢の続きのような気がする。
亀井に「タミオさん。いつ奈々ちゃんに手を出したんですかぁ?隅に置けないな。コノコノ」などと幇間の如く囃し立てられていると嬉しいような、立場がないような、十センチほど宙を歩いているような気分になる。
俺の豪快な寝ぐせを見たからなのか、奈々は、
「タミオさん。厭じゃわ、そんなん」なんてはにかんでいる。
「奈々ちゃん。おはよ。どしたん?」
「あのう。ウチ、今日、取材で広島に行くんで、いっ、一緒に、そのう…」
真っ赤になって俯いてしまった。
しかし、それを嗤ってはいけない。
キョウジュが加奈子とまともに口を聞けるようになるまでのプロセスを見ているので、今日ここに来ることだって、眠れない夜をのたうち回って過ごしたことが安易に想像がつく。いじらしさに報いたい。
「十五分待って。シャワー浴びながら、歯磨いて、髭剃って、着替えて来るけぇ」
「そんなに急がなくてもいいですよ」
「奈々ちゃん。フランスでは『スープと女は待たしたらいけん』って言われとるんで。ほいじゃぁ、十五分後に」
慌ただしくシャワールームに駆け込む俺を奈々は笑いを嚙み殺しながら見ていた。
尾道から糸崎、三原へと抜ける海岸通りは渋滞もなく、左を向けば、青く、母なる瀬戸内海に太陽の光が銀色に煌めき、鏤められて、海鳥が気持ちよさそうに水面で羽を休めている。
赤いポルシェの運転席には奈々。
誰が見ても草臥れた中年と若い恋人だろう。フランス映画では訳ありで偏屈な中年女と若い芸術家の卵というこれの逆パターンは散見されるが、草食動物の多い日本の若い男どもにそんな粋な恋愛はできまい。
奈々は意外なほど運転が上手い。
キョウジュの運動神経のなさは散々見てきているので、「ヤレヤレ。途中で運転を代わることになるのかな」と覚悟していたが、これが全くの杞憂で、ステアリングさばきなど、この道三十年の運送屋のそれなので、この分なら煽られたり、狭い道やパーキングでもたついたりすることもないだろう。元々、運動神経がいいのと尾道の細い路地や坂道を毎日運転することで鍛えられたのだろう。
爽やかな海風が奈々の栗色の髪を躍らせる。
この時が永遠であると感じる。
この道は小一時間程で広島ではなく、何時間もいや、何日もかけて楽園へと続いているのではないかと錯覚する。
そんなものは小沢健二の歌詞の中にしか存在しないものと思っていたが、今、ここに存在することが奇跡のようだ。
嘗て、加奈子をバイクの後ろに乗せて走った道。
あの季節の風、幻想のように揺れるテールランプ、潮の香りと加奈子の体臭に包まれる幸福感。
長い旅を経て、俺は再びそれを感じている。
寡黙で、シャイで、あまり笑わない奈々という加奈子とよく似た娘と。
「で、今日は何の取材をするん?新井監督に来シーズンの意気込みと展望を訊くとか?」
別に冗談を言ったつもりはないのだが、奈々は「イ」の口で笑って、
「パパがようゆうてましたよ。『タミオは優しいけぇ、知らん人の前では冗談ばぁ言う』って。ウチなんかに気を遣わんでもええですよ」と遠慮がちに言う。
「別にそうじゃないんじゃけど…」
「何か喋ってないとママを思い出すんでしょう?」
「奈々ちゃん」
「無理して忘れることないですよ」
俺は気まずくなったので、二秒ほど奈々の唇を塞いだ。
好意というよりも場が持たなくなってしまったからだ。
奈々はキリっとした目に焦燥の色を滲ませながらもそれを受け入れた。
それが恋の始まりであることなど誰も信じないほど、運命はうねり出さず、まだ金であるべき沈黙を守っていた。
