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あなたの赤は、どんな色?

ある日、私は一輪の赤いバラを眺めていた。
深く、鮮やかな赤。
思わず、きれいだなと見とれてしまう。
だが、そのときふと、奇妙な疑問が浮かんだ。
この赤は、本当に他の人と同じ赤なのだろうか。

隣にいる友人も、同じバラを見ている。
けれど、彼が感じている赤と、私が感じている赤は、本当に同じものなのだろうか。
彼はこう言うかもしれない。
「ロマンティックな色だね」
しかし別の人なら
「血みたいで、少し気味が悪い」
そう思うかもしれない。
さらに別の人なら、「このバラ、高そうだな」としか考えないかもしれない。
同じバラを見ていても、そこに生まれる感じはまったく違う。

このように、人の心の中に一度だけ生まれる感覚や感じ方。
それを少し難しい言葉でクオリアと呼ぶ。
色の感じ方も、痛みの感じ方も喜びや悲しみも。
すべては、その人だけの特別な体験だ。

例えば、痛みを考えてみよう。
私がお腹が痛いと言った時、相手は「大変だね」と心配してくれる。
しかし、本当のところ、私の痛みは私にしか分からない。
相手の痛いと私の痛いが、まったく同じだと証明する方法はない。
それぞれの体と心の中で、別々の感覚が生まれているからだ。
それでも私たちは「分かるよ」と言葉をかけ合う。
もしかするとそれは、完全に分かり合えないと知りながら、それでも近づこうとする人間の小さな希望なのかもしれない。

では、こんな疑問が浮かぶかもしれない。

「もし人それぞれ感じ方が違うなら、どうして赤信号でちゃんと止まれるの?」
確かにみんなが同じ赤を見ているから、交通ルールが守られているように思える。
だが、実はそうではない。
私が見ている赤をXとしよう。
あなたが見ている赤をYとする。
もしXとYが違っていても、私たちは問題なく生活できる。
なぜなら、私はXになったら止まると覚え、あなたはYになったら止まると覚えているだけだからだ。
世界には絶対に赤というものがあるとは限らない。

ここで、もう一つ面白い話がある。
昔からある疑問だ。
「怖いから鳥肌が立つのか。それとも、鳥肌が立つから怖いのか。」
多くの人は、こう思ってきた。
怖い出来事があって、それを脳が感じて体が反応する。
つまり、怖い→鳥肌という順番だ。

だが、現代の考え方の中には、逆の見方もある。
まず、体が反応する。
心臓が速くなり、鳥肌が立ち、体が震える。
その変化を脳が感じ取り、「あ、怖いんだ」と気づく。
つまり、鳥肌→怖いという順番だ。
少し不思議に感じるかもしれない。
だが、ネズミや魚のような小さな生き物を思い浮かべてほしい。
彼らは複雑なことを考える前に、危険が迫れば一瞬で逃げ出す。
もし体が先に反応しなければ、命は守れないだろう。
そう考えると、感情とは頭だけで生まれるものではないのかもしれない。

では、心はどこにあるのだろう。
多くの人は脳にあると答えるだろう。
だが、本当にそれだけだろうか。
目で見て、耳で聞き、肌で感じ、心臓が高鳴る。
手の震えも、胸の痛みも、体の温もりも。
それら全てが重なって私たちの感じ方、つまり、クオリアは生まれている。
心とは脳だけのものではなく、体全体で生まれているものなのかもしれない。

私の体はあなたの体とは違う。
私の経験も、あなたの経験とは違う。
だから当然、私の感じる世界とあなたの感じる世界も違っている。
その間には、見えないけれど確かな隔たりがある。
決して完全には渡れない、小さくて深い溝のようなものが。

それでも私たちは言葉を交わし、思いを伝えようとする。
「分かるよ」
「大丈夫だよ」
そう言い合いながら、少しでもその溝を埋めようとする。
完全には届かないかもしれない。
それでも近づこうとする。
その営みこそが、人が人として生きる理由なのかもしれない。

そして、私は再び赤いバラを見つめる。
この赤は私だけの赤。
もしかするとあなたが見ている赤は、私の想像もつかない色かもしれない。
では、あなたの見ている世界はどんな色をしているのだろうか。

#創作大賞2026
#オールカテゴリー部門

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