見出し画像

鯨と日本人──               命を使い切る文化と歴史




クジラは、世界中の人間が獲る魚の5倍もの量を
日々食べているの知っていますか?

私たち日本人とクジラのお付き合いは、
お米を食べるようになった
弥生時代よりも前からなのを知っていましたか?




海に囲まれた私たち日本人は、
漂着したクジラを「恵み」として受け取りました。
肉・皮・骨・ヒゲ・油にいたるまで余すことなく利用してきました。
弥生時代より前から続くこの文化は、生活を支える知恵であり、
日本人が鯨を尊重して、大切にしてきた証でもありました。




やがてその姿勢は、鯨塚や供養碑、慰霊祭に象徴される
「奪うだけで終わらない精神」へと結晶します。
赤子のクジラに戒名を授け、葬儀を行う地域もあるほど、
日本人は古くからクジラの命と真剣に向き合ってきました。



今回は、縄文から近世、そして現代へと続く、
日本人と鯨文化の歴史をご紹介します。









縄文から戦国へ続くクジラの記憶

縄文の人びとは、漂着したクジラを"海からの恵み"として受け取っていた。




縄文の漂着鯨



日本は古来より、四方を海に囲まれています。
日本人と鯨のお付き合いは、いつからなのでしょうか。



石川県の真脇遺跡からは、縄文時代中期にあたる、
約5000年前のイルカの骨が大量に見つかっています。
イルカは、クジラと同じ鯨類です。



九州の遺跡では、縄文時代後期にあたる約4000年前、
クジラの背骨の一部、椎骨(ついこつ)を
製作台にして作られた土器が、多く発見されています。




弥生から奈良へ、鯨との暮らし




弥生時代になると稲作が始まりますが、
鯨の利用は、途切れることがありませんでした。
飛鳥時代になると仏教の伝来とともに、
肉食が禁じられるようになりますが、
鯨は魚の仲間とされ、禁止されることはありませんでした。




奈良時代には、古事記は久治良(くぢら)、日本書紀は区施羅として、
鯨そのものではなく、大きな獲物や敵の大物ぶりをたとえる時の、
比喩や誇張表現として、鯨が文献に登場します。




さらに万葉集には、鯨魚取り(いさなとり)という言葉が、
海や浜にかかる枕詞として何度も登場します。
鯨がそれだけ人々にとって馴染み深い存在だったことがうかがえます。





戦国の海と鯨

 ~ 信長の時代に始まる集団捕鯨 ~




天正10年(1582年)の正月、知多半島(現在の愛知県南西部)の領主、
水野直盛が、伊勢湾で巨大な初鯨を捕獲しました。
これを織田信長に贈ります。
当時、高級食材であった鯨肉を信長は朝廷に献上します。
天皇をはじめ親王や公家衆にも鯨肉が配られ、
公家・山科言継の日記『言継卿記』にもその様子が記されています。




天正19年(1591年)1月には、
土佐の浦戸湾に迷い込んだ全長約16.5メートルの子クジラを、
長宗我部元親が突き捕り、豊臣秀吉に献上しました。
塩漬けにして小分けにするのが通例だったところを、
解体せず1頭丸ごと大坂城まで運び込みました。
鯨1頭を人夫100人で担いだので、城下では人々が集まり大騒ぎになり、
その豪快さに秀吉も前代未聞と、大いに驚いたと伝えられています。




戦国時代末期になりますと、捕鯨用の銛(もり)が利用されます。
また、この頃から水軍や海賊出身者によって、
組織的な捕鯨が開始されます。



慶長11年(1609年)、紀州熊野の元締め、和田忠兵衛頼元が、
泉州堺の浪人・伊右衛門、尾州知多・師崎の漁師・伝次と協力し、
捕鯨用の銛を使った突き取り法での組織捕鯨を確立しました。
これが「鯨組(くじらぐみ)」と呼ばれるようになります。




江戸から明治の捕鯨文化

江戸の人びとは、鯨を余すことなく使い、同時に深い供養文化を育てた。

           


突取法から網取法へ




江戸中期に入りますと、鯨の捕り方が大きく変わります。
このことにより、捕れる鯨の量が増えました。



それまでは、銛(もり)だけでクジラを追いかける
「突取法(とっとりほう)」が主流でしたが、
延宝(えんぽう)5年(1677年)に、
紀州太地浦(現在の和歌山県太地町)の、
和田角右衛門頼治(後の太地角右衛門頼治)が、
「網取法(あみとりほう)」(網掛突取捕鯨法)が開発します。

(※突取り式・網取り式と表記する場合もあります。)



開発した目的は、ザトウクジラを捕るためでした。
それまでの銛だけの手法では、泳ぎが速く、死ぬと海に沈んでしまう
ザトウクジラを捕らえるのは極めて困難でした。



しかし、網に絡(から)めて動きを鈍らせることで、
ザトウクジラも安全かつ確実に仕留められるようになりました。
さらにこのあと技術が進歩しますと、
マッコウクジラやザトウクジラも、捕れるようになっていきました。



巨大な鯨が捕れるようになりましたが、どう沈まずに安全に運搬するか?
という問題が発生しましたが、これも同時期に解決されました。
それが、「持双(もっそう)」と呼ばれる運搬方法です。



仕留めたクジラの両脇に2隻の持双船(もっそうぶね)をピタリと並べ、
クジラの胴体に太い丸太(持双柱)を渡し、
2隻の船で挟み込むようにしっかりと固定しました。

これにより、クジラが海に沈むのを防ぎ、
大人数で効率よく一気に港まで曳航(えいこう)できるようになりました。



鯨の捕り方と運搬方法が、江戸中期に技術革新を果たしたおかけで、
それまで貴族の食べ物だった鯨肉が、一気に庶民へと広まりました。




鯨を余さず使い、鯨に祈り命を敬う



こうして江戸中期に広まった鯨肉は、
やがて鯨食文化として各地に根付いていきます。



江戸では年末12月13日の「煤払い(すすはらい)」の後に、
塩で漬けて保存した鯨の皮の入った鯨汁を食べることが、
庶民の慣習となっていたようです。
また、江戸時代後期に出版された書物『鯨肉調味方』には、
70にも上る鯨の部位ごとに料理法が紹介されています。



江戸の人びとは、鯨から得られるものを、
生活のあらゆる場面で使っていました。
灯りには鯨油(げいゆ)が欠かせず、肉は食卓に並び、
骨やヒゲは、櫛(くし)や笄(こうがい)などの
細工物に生まれ変わりました。



享保17年(1732年)、深刻な飢饉(ききん)をきっかけに、
筑前国で鯨油を使った、
稲の害虫駆除法が発見されたと伝えられています。
鯨油は灯りだけでなく、
家々の田畑を守る知恵としても広まっていきました。



食べ物としても、鯨は本当に「捨てるところがない」存在でした。
肉や軟骨は料理に、ヒゲや歯は道具に、毛は綱に、皮は膠(にかわ)に、
血は薬に、脂は鯨油に、油を取ったあとの骨は砕いて
畑の肥料に使われました。



さらに、マッコウクジラの体の中で、
できるかたまりは、
竜涎香(りゅうぜんこう)として、
珍重されていたといいます。



大きな鯨一頭から、暮らしを支えるたくさんの恵みが生まれていたのです。





明治の産業と鯨油

  ~ 欧米捕鯨船との競合・乱獲 ~



嘉永(かえい)6年(1853年)、アメリカのペリーがやってきます。
黒船来航と呼ばれ、ここから幕末が始まったと一般的に言われています。
黒船は、当時の日本人ばかりでなく、日本近海の鯨をも震え上がらせます。



アメリカをはじめとする欧米列強が、
鯨油目的で日本近海の鯨を乱獲します。
なかでもアメリカが圧倒的に数が多く、
日本と違い、鯨油以外は海に捨てる「アメリカ式捕鯨」は、
日本近海の鯨資源が激減する要因になりました。




アメリカ式捕鯨のやり方



網は使わず、 手投げの銛(モリ)だけで仕留めます。

1. 大きな母船(帆船)で太平洋を何年も航海しながら鯨を探します。

2. 鯨を見つけたら、母船から小さな手漕ぎボート(ウェールボート)を
 何艘(なんそう)か下ろします。

3. ボートに数人(6人前後)が乗り込み、
 手投げの銛を鯨に打ち込んで弱らせます。

4. 最後は槍(ランス)でとどめを刺します。

5. 仕留めた鯨を母船まで曳いて運び、船上で解体します。

6. 皮下脂肪を切り取り、船に積んだ大鍋(トライポット)で
 煮て鯨油を精製します。


7. 精製した鯨油だけを樽に詰め、肉などその他の部位は
 すべて海に捨てます。




【日本(式)と、アメリカ式の違い】




アメリカ式による鯨の激減で、日本の沿岸捕鯨は衰退しますが、
明治になり、岡十郎が日本の捕鯨を近代化しようと
ノルウェーに渡り、捕鯨砲(砲殺式)という技術を学び、
日本に「ノルウェー式捕鯨」を導入したことにより、
日本の捕鯨は近代化され、沿岸捕鯨が復活します。




では、ノルウェー式捕鯨とは、
どのようなものなのか、一緒に見ていきましょう。


1. 蒸気動力の高速船(キャッチャーボート)で鯨を追いかける。
 帆船と違って風向きに関係なく、
 速い鯨(それまで捕獲不可能だったナガスクジラなど)
 にも追いつけるようになりました。

2. 船首に据え付けた捕鯨砲で、火薬の力で銛を発射します。

3. 銛には爆発する仕掛け(炸裂弾)が仕込まれており、
 命中すると鯨の体内で爆発して致命傷を与える

4. 銛は丈夫なロープで船と繋がっているため、
 弱った鯨を見失う心配がなくなります。

5. 仕留めた鯨をロープで船に引き寄せ、
 基地(陸上の解体場)や工船(洋上の解体・加工船)まで運びます。





【3つの方式の違い】





ノルウェー式捕鯨の導入によって、日本の捕鯨は近代化し、
沿岸で減っていた鯨の供給も回復していきます。
日本の鯨食文化は、消滅の危機を逃れました。



その後、日本の捕鯨はさらに広い海へと向かい、
昭和9年(1934年)には南氷洋(南極海)にも進出します。
しかし、こちらは鯨肉が目的ではなく、
当時の目的は、灯りや工業に欠かせない鯨油を確保することでした。




昭和の鯨肉と竜田揚げの記憶

戦後の日本では、鯨肉が"国民の栄養源"として学校給食を支えた。




戦後の食糧難を鯨肉が救った



昭和20年(1945年)8月15日、日本は終戦を迎えました。
戦争に負けた日本は、GHQの占領下におかれます。



今から想像もできないほど、戦後の日本は食料がありませんでした。
GHQは、この問題を解決するため、安価で栄養価の高い鯨肉に注目します。
終戦から3か月後の11月に、小笠原沿岸の捕鯨再開を認め、
さらに昭和21年8月、ちょうど終戦から1年後には、
戦前には鯨油目的であった南氷洋(南極海)での捕鯨を、
今度は鯨肉を目的として、GHQは許可します。



戦争で沈没を免れた戦時中の石油タンカーを捕鯨母船に改造して、
「橋立丸」(日本水産、現・ニッスイ)と、
「第一日新丸」(大洋漁業、現・マルハニチロ)が、
南氷洋へと出漁します。



昭和23年(1948年)、第3回の出漁では、
フランス海軍のフランソワ・ブルゴワ少佐が、
SCAP(GHQ)代表として、橋立丸に同乗しました。
このように、GHQの協力もあったことが、
米国国立公文書館(NARA)の記録に残されています。



かつて油を運んでいたタンカーを改造した捕鯨母船は、
世界の果てから大量の「鯨肉」を持ち帰り、
飢餓(きが)の危機にあった日本人の命を文字通り救い上げました。



こうして持ち帰られたクジラは、
やがて昭和の学校給食の定番となり、
日本の戦後復興を支える象徴として、
人々の記憶に深く刻まれていくことになります。




学校給食と鯨肉



当時はまだ、今のように牛肉や豚肉が
毎日のように食卓に上(のぼ)る時代ではありません。
そんななか、高タンパクで栄養満点、
しかも安価だったクジラは、
育ち盛りの子どもたちの体を支える頼もしい味方だったのです。



昭和30年代、日本人一人当たりの食肉供給量は、
鯨が牛・豚・鶏を上回っていたほどでした。



昭和の学校給食を語るとき、必ず名前が挙がるのが「鯨肉」。
戦後の食糧難を支えたこの食材は、
やがて全国の小学校で親しまれる“給食の味”になっていきました。



なかでも圧倒的な人気を誇ったメニューが、「鯨の竜田揚げ」です。



赤身の鯨肉を、しょう油としょうがで
下味をつけたシンプルな味付けながら、
独特の食感と風味が、今も"あの頃の味"として語り継がれています。
給食室から漂ってくる香ばしい匂いは、
子どもたちにとって、今日は当たりの日だ!と分かる合図でした。



近年行われた「懐かしい給食メニュー」に関するアンケートでも、
鯨の竜田揚げは「思い出に残るおかず」の
上位常連として名前が挙がります。
数十年の時を経てもなお、
多くの人の記憶に鮮やかに残る味だったことがうかがえます。



戦後の食糧難を救った鯨肉は、
こうして高度経済成長期の子どもたちの体をも支え続けました。




鯨ベーコンの記憶



給食の竜田揚げと並んで、
当時の家庭の食卓を彩っていたのが、
「鯨ベーコン」です。



原料に使われるのは、鯨の下あごから腹にかけての、
蛇腹のような縞模様(しまもよう)をした
「畝須(うねす)」という部位。
白い脂身の層である「畝(うね)」と、
その内側にある赤い霜降り肉「須の子(すのこ)」、
この2層が重なり合ってできています。



畝須を塩漬けにしたあと燻製(くんせい)にすることで、
あのベーコンならではの風味が生まれます。




豚肉のベーコンとはひと味違う、とろけるような独特の食感から、
「マリンビーフ」という愛称で親しまれたこともありました。



昭和50年代頃までは、
家庭の食卓や酒場でも見かけるのが当たり前だった鯨ベーコン。
しかし商業捕鯨が制限されるようになると、
次第にスーパーの店頭から姿を消していきます。




現代の鯨問題と未来の資源管理

鯨と漁業の関係は、資源管理の観点から今も議論が続いている。




鯨が"人間の5倍食べる"話



覚えていますか。この記事の冒頭で
「クジラは、世界中の人間が獲る魚の量の5倍もの量を日々食べている」
という問いかけをしました。



その根拠となるのが、こちらの数字です。
クジラは海の中で最も大きな動物であり、
そのぶん大量の魚やオキアミを必要とします。
世界のクジラが1年間に食べる餌の量は、
約3億から5億トンと推定されています。

これは、全世界で人間が1年間に漁獲する魚の量(約9千万トン)の、
実に3〜5倍にあたる量です。


「鯨が大量に食べる」という事実は、
海の生態系を語るうえで避けて通れないテーマとなり、
漁業との関係を考える際の重要な論点となっています。




漁業との競合問題



鯨が大量の魚を食べるという指摘は、
「鯨が増えると漁獲量が減るのではないか」
という議論につながってきました。
特にイカや小型魚類を主食とする鯨が多い海域では、
漁業者から“資源をめぐる競合”が問題視されることがあります。



生態系の一部である鯨類だけを特別に保護し続けると、
かえって海の中の食物連鎖のバランスが崩れ、
水産資源全体が不安定になりかねない、という指摘もあります。



今やクジラをめぐる議論は、「捕鯨か反捕鯨か」
という感情的な対立軸だけでなく、
限りある海洋資源をどう分け合うかという、
新たな課題としての側面を強めています。




実際、日本の鯨肉供給量は、
ピークだった昭和37年(1962年)には
牛・豚・鶏肉の合計を上回るほどでした。
しかし令和の現在、その量はピーク時の23万トンから、
わずか約1千トンにまで落ち込んでいます。

クジラの個体数が回復する一方で、
漁業資源をめぐる緊張は、今も続いています。




IWCの議論



1982年、IWC(国際捕鯨委員会)の年次会合で、
商業捕鯨の一時停止(モラトリアム)が採択されます。
これにより、大型鯨類を対象とした商業捕鯨は、
1988年以降、世界的に禁止されることになりました。



この間も日本は、科学的なデータ収集を
目的とした調査捕鯨という形で、鯨類研究を継続します。
1994年には、資源に悪影響を与えない範囲で捕獲量を算出する
「改定管理方式(RMP)」という国際的な計算方式が、
IWCの科学委員会によって採択されました。



しかし、この科学的な枠組みに基づく
一時停止(モラトリアム)の見直しは、

反捕鯨国が多数を占めるIWCの中で、
長年にわたって進みませんでした。



科学的根拠に基づく資源管理、
という主張が受け入れられないまま、
議論は平行線をたどり、
2019年7月、日本はついにIWCを脱退。
31年ぶりに商業捕鯨を再開します。



ただし、操業できる範囲は、
日本の領海と排他的経済水域(EEZ)内に限定されており、
南極海のような遠洋での捕鯨は行われていません。

脱退後も、日本はIWCにオブザーバーとして参加し、
国際的な資源管理の議論そのものからは離れていません。




未来の鯨文化



現在、日本の鯨類捕獲量は、
科学的な調査データに基づいて算出される
「捕獲可能量」の範囲内で、
毎年の漁獲可能量(TAC)が決められています。



ミンククジラ、ニタリクジラ、イワシクジラなど、
種ごとの数値は、数年おきに見直され、
資源に悪影響を与えないよう管理されているのが現状です。




一方で、鯨肉の国内消費量は、
ピーク時のわずか200分の1程度にまで落ち込んでおり、

若い世代にとって鯨肉はもはや馴染みの薄い食材になりつつあります。



学校給食から鯨の竜田揚げが姿を消して久しい今、
この文化をどう次の世代に伝えていくかは、大きな課題です。




縄文時代の漂着鯨から、鯨塚に象徴される供養の心、
そして江戸の鯨組や戦後の給食まで、日本人と鯨の関わりは、
常に「命への向き合い方」を映し出してきました。




資源管理という新しい形で命と向き合う今もなお、
そこに流れているのは、命を粗末にしないという、
古くから続く日本人の精神なのかもしれません。




まとめ



弥生時代よりも前、日本人と鯨の関わりは、
漂着したクジラを"海からの恵み"として
受け取るところから始まりました。



縄文の人々が骨を道具に変え、
奈良の人々が、「いさなとり」という言葉に鯨の存在を刻み、
戦国の武将たちが鯨を贈答品として扱った先に、
江戸時代の網取り式や持双による技術革新があり、




そして、肉・皮・骨・ヒゲ・油にいたるまで、
命を余すことなく使い切る知恵が育まれていきました。




同時に日本人は、ただ命を奪うだけで終わらせませんでした。
鯨塚を建て、供養碑を刻み、
赤子のクジラにまで戒名を授けたその姿勢は、
「奪う(うばう)」ことと、「敬(うやま)う」ことを、
決して切り離しませんでした。




黒船の来航、ノルウェー式捕鯨の導入、
そして戦後の食糧難を救った南氷洋捕鯨。
時代が大きく動くたびに、鯨は姿を変えながらも、
常に日本人のそばにありました。



学校給食の竜田揚げに胸を躍らせた子どもたちの記憶も、
今では懐かしい昭和の風景となりつつあります。




そして現代、私たちは「鯨をどう守るか」だけでなく、
「限りある海の恵みを、これからどう分け合っていくか」という、
新しい問いの前に立たされています。




IWCを脱退し、科学的根拠に基づく資源管理へと
舵(かじ)を切った日本の姿は、
ある意味で、縄文の時代から変わらない
一つの姿勢の延長線上にあるのかもしれません。




命を余さず使い、命に手を合わせる。
クジラとの長い付き合いの中で
日本人が育んできたその精神は、
形を変えながら、これからも受け継がれていくはずです。







お・わ・り






参考文献・サイト






・ 鯨と日本人(PDF)

  日本捕鯨協会/財団法人 日本鯨類研究所 



   

     

・ 戦後間もなくの捕鯨
 
   株式会社ニチマイ米国事務所



・ 日本の捕鯨(Wikipedia)





【サンプル記事/実績アピール用の見本原稿】

 ※実際のクライアント案件ではなく、
  私のリサーチ力、およびライティング力を
 お伝えするために自主制作した見本記事です。

  信頼性を担保するため、一次資料や公的機関の資料を中心に、
  日本人と鯨の歴史を、時代ごとに丁寧に調査してまとめました。 







「この記事について」




最後までお読みくださり、
本当にありがとうございました。



いつものボクが書くnoteの記事と違い、
驚かれたことと思います。
さきほども書いてあった通りで、
この記事は、仕事用の見本記事です。
いかがだったでしょうか。



本来は実績があれば、
それを見本記事にするのですが、
まだ、たいして実績もないので、
練習もかねて、自分で書いてみた次第であります。



ライターの先生が、実績がまだないなら、
自分で書いてみて、それが見本記事でもいいと
おっしゃられていたので、
本格的にやられている方からすると、
まだまだかと思いますが、
いろんな人に読んでもらうのも
大事かと思いまして、noteでも公開しました。



実はですね、『鯨と日本人』というタイトルで、
実際にお仕事募集していたのものです。
1万字くらいだったのですが、
やってみたいなと応募しようと思いましたら、
なにぶん実績のある人のみでしたので、
ねこま先生、実績がないものですから、
泣く泣く応募を諦めたお仕事であります。



ただ、このお仕事の依頼主さんは、
他にも、歴史・動物・伝統みたいなジャンルで、
やってみたいなというのがあったので、
じゃあ、練習がてらやってみるかということで、
書いてみた次第であります。



ねこま先生、本10冊も読まなくていいですよ、
2冊から3冊くらいで、あとは同じようなことが
書いてあるだけですから、実際に手を動かしてみることが、
大事ですとおっしゃっていたので、
noteと同じで、どんどん書いて慣れようと練習しています。



短いのはいくつもやったことあるのですが、
なにぶん実際にお仕事もらって書いた記事や、
見せる見本記事もなかったので、
もっとお仕事がもらえるように、
見本記事を作って、頑張ってみようという次第です。



今までやってきたのが、仕事が減ってきてるので、
ライターの先生や、ビジネスの先生方が、どのかたも、
今はひとつのことじゃなく、複合的にやってく時代で、
フリーなんだから、いろいろとやってみなさいということで、
いろんなことを勉強しながら、やってみようかなと思っています。



先からライターの先生とか、ビジネスの先生たちとか書いていますが、
なにぶんにも、有料講座を申し込める身分でもないので、
こっちで勝手に、動画やメルマガで勉強させていただいてるだけです。



ただ、おひとかただけ、お若いライターの先生で、
お金払って習うならこの先生というお方がいました。
その方が無料で、どう進んだらいいのかとか、
仕事のお悩み相談みたいなのを募集してことがありまして、
個人、個人に向けた、その人だけのお悩みの解決方法や、
どうこの先、仕事を進めていいかなどのロードマップを
作っていただいて、動画でプレゼントしていくというかたちです。




ボクは、学校の先生とか、親も友だちも、
お付き合いしていた女性もそうなんですが、
なんか面と向かってしまうと、
自分の悩んでることや、苦しんでることを、
どうしても言えないんですよねえ。



50年間、自分の悩みや苦しみを
打ち明けられたのは、弟や妹、
そして子どものように思っていた、
飼っていたわんちゃん、ネコちゃんだけでした。



どうも、人と面と向かうと、
相手を喜ばせないとな、笑わせないとな、
悲しい思いをさせられないなということで、
重苦しい真剣な話のできないヤツです。



でも、有料講座は申し込めるほどの
稼ぎはありませんから、
この人はと思っていた先生なので、
何回か応募フォームを途中まで書いてはやめ、
とか情けないことをしていて、
やっと、仕事の悩んでることなどを
書かさせていただき応募しました。



ありがたいことに、15分くらいかな。
ねこま先生だけのために、
その先生が、いろいろ書いたことに答えてくださって、
本当にありがたいことです。



ねこま先生、noteを一生懸命やってていいんですが、
お金が稼げるように、こっちも頑張りましょう。
実際にライターの仕事やっていきましょうと、
いうことで、一生懸命そっちもやっております。😅



先の本の話も、その中から出たお話です。
その他にも、いろいろとアドバイスいただいたんですが、
一番のアドバイスになったことをご紹介して、
そろそろ終わりたいと思います。



これも、今まで誰にも言えなくて、
何十年って、ずっとひとりで苦しんでいたことですが、
前からnoteでボクの作品を読んでくださる方は
ご存知だと思うのですが、
人生の大半は、ケガ、病気、パワハラなどで、
ひとつひとつの仕事が短く、ハローワーク通いが
ほとんどの無職の時期が多いのですが、



そういうこともあって、履歴書というやつが、
もう、ずっとボクを苦しめてきたわけで大嫌いなんです。
でも、仕事をするのにプロフィールって書くから、
何やってきたとか書かなくちゃいけない。



他の方の見ると、同じくらいの年齢の人で、
〇〇を何十年やってきました、おまかせください!
みたいなの書いてあるわけですが、
こっちは年ばっかくってて、何十年なんて何も書けない。
40代・50代の人のを見るたびに、劣等感は増すばかりです。



誰にも履歴書というか、何も書けない
無駄に時間ばかりが過ぎた人生のボクの苦しみを、
初めて、その先生にお話することにしました。



何も書いてない人もいるんですが、
先生、いっそのこと、何も書かないほうがいいんでしょうか?
みたいなことも書きました。
中途半端に書くくらいなら、何も書かないほうが
へんにダメな人生バレなくて、いいんじゃないかと思って。
履歴書なんか、こういう人間からしたら鉄の重い鎖でしかありません。




まあ、こういったことを、
人生で初めて、自分がずっと悩み苦しんでることを、
先生に思いきって聞いてみることにしました。


ところが、先生はこうおっしゃいました。
ねこま先生、それはダメですよ。書きましょう!



仕事が短かったり、無職が長かったり、
パワハラやケガや病気で辞めたりとか、
そういう、同じようなことで苦しんでる人の
痛みのわかるものが書けますし、
ハローワーク通いが長かったなら、
ハローワークのことで困ってる人のために、
記事が書けるじゃないですか!



同じようなことで困ってる人の
痛みや苦しみに寄り添える記事が書けますよ。



ねこま先生が、「弱み」だと思ってることは、
実は他の人が持ってない「強み」なんですよ!



なるほど!そういう見方もあるんですか!
みたいなことで、これは一番聞いてよかったです。
まだ、プロフィールにどう書くのか決まってないので、
そういうことも、書き加えていこうかなと思っています。



お金が稼げるようになったら、
この先生の有料講座の募集があったら、
申し込んで習いたいなと思っています。
先生、これからもメルマガや動画で、
いろいろと勉強させていただきたいと思います。
本当にいつもありがとうございます。大感謝です。



ということで、長くなってしまうので、
このあたりで、終わりにしたいと思います。
また、練習で仕事用の記事を書いたときは、
それを見本記事にしたいと思いますので、
こちらでも公開したら、お読みくださると幸いです。



調べて書いてということで、
やっていることは、noteと同じなんですが、
書き方が多少違って、
ちょっと時間がかかるので、
noteの時と同じく、書いて慣れたいなと思っています。



仕事用の記事でも、noteと同じく、
わかりやすく、読んでいて退屈にならずに、
楽しめる記事にしていこうと思いますので、
noteでまた公開しましたら、
読んでいただけると幸いです。




では、また次の記事でお逢いしましょう!




最後までお読みくださり、
ありがとうございました。




―― さようなら!





E・N・D







いいなと思ったら応援しよう!

坂本猫馬 懐かしいやら、マニアックな内容やらですが、 もし、よろしければですが、サポートして頂けたら 大変、嬉しく感激です! 頂いたサポートは、あなた様にまた、楽しんで頂ける 記事を書くことで、お礼をしたいと思います。 よろしくお願いします。